いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2015年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

走るということだけで。

▲ふだん家からせいぜい半径1.5km圏内ですごしてる(完結してる?)わたしが、今月は行かなあかんとこも、会いたい人も、行きたいとこもいっぱいあって、ついでにしなければならないことも山盛りで。実によくはたらき、よく出かけた。とはいえ、先月末にはぎっくり腰もやってしもたし、わたしにしたら、日ごろの何倍も動いてるしで、足腰には気ぃつけなあかんなあ~と思ってたら、案の定この間ひざに来た。

▲痛いとこがあるのは、ほんま つらいよね。
病気が原因の痛みはもちろん、頭痛に腹痛、歯痛に腰痛。それが指先のほんの小さな切り傷でも。
そこから糸を引いてからだ全体にひびく気がする。
外出が続いて疲れてるところに、気温がぐっと下がり始めたのも堪えたのかなあ~椅子やベッドから、痛くて立ち上がれず難儀した。

▲えらいこっちゃ~と、亡き義母の杖(←こんなときのために置いてあった)を出してきて、立ち上がるときも、家の中の移動のときも、お婆さんみたいな恰好で、そろ~り小さく一歩踏み出すわたしを見て、ちょうど介護の本(六車由美著『介護民俗学へようこそ!』)を読んでいた相方がぼそっと「なんかリアルやなあ」とつぶやく。

▲そういうたら電話のたびに、足が痛い、腰が痛い、おなかが痛い、と・・・「痛い」を言わない日のない母に「まあ、そんなこと言うてんと~」と、わたしが話を変えようとするのは、はげますつもり、というより毎度痛いとこの話がちょっと「かなわんなあ」とおもってる自分がいるのも確かで。それは聞いたって、どうしようもない、どうもしてあげられへんし、と思うからであって。

▲せやからね。
今回もわたしはできるだけ家族や友だちに「痛い」って言わんとこ~と思ってたんやけど。なんとまあ(もしかしたら母以上に)こぼしてる気もして。しかし、そのつどやさしく応えてくれる周囲に、ほんま心からおおきにです。
そんなわけで、これからは母の「痛い」にも、ソッコウ封じてしまわずに、ときには「つらいなあ」とやさしく聴く側にまわろ~とただいま神妙におもっているところなり。

▲そうそう、このあいだ久しぶりに映画を観に行った。
あ、まだ膝痛が出る前のこと。(けど、これ、ほんの一週間前やのに。映画館に行ったんが遠い日のことに思えてしまう)
ウチから近いところのシネコンはたいていファミリー向けか、流行りの若いタレントの出てる邦画、もしくはハリウッド映画で。観たい映画はたいてい大阪の中心地(←にがて)に出ないと掛かってなくて、いつもDVDになるまでがまんしてるんだけど。
その日ふとシネマ情報をのぞいたら、めずらしく気になってた映画のタイトルが上がってるのを発見。お昼時の上映だったので、即サンドイッチを~いや、おにぎりの方が早い!と拵えてお茶もって、バスに乗りこんだ。

▲ここに来たのは“読んでから観た” 『きっと、星のせい』(原作は(『さよならを待つふたりのために』)以来。
館内はそのときから、ずいぶんレイアウトが変わって、チケットを買うカウンターもなくなりマシンがずらり並んで、焦る。
そういうたら、図書館でも、レンタルビデオの店でも最近は自動貸出機が並ぶようになったんよね。

▲「どうやればいいのかなあ?」というおばちゃんのおろおろぶりを見てはったのか、スタッフのお姉さんが横についてくれる。
ふんふん、ほぉー。なるほどね~いまはまだ、こういうの何とか頭に入るけれど、次ここに来るまで覚えてられへんやろなあと思いながら、ぶじ?チケット購入。

▲さて、映画が始まるまであと10分。間に合ってよかったぁ。
開場は上映10分前らしいから、ちょうどいい。中でおにぎり食べて待ってよ~と思ったそのとき、まるでわたしの心の中をのぞいてたかのように「当館では当館販売の食品以外の持ち込みはお断りしています~」のアナウンス。

▲ひぇ。そんなん言われたらなあ~とすみっこの長椅子に座って、ごそごそおにぎりに巻く海苔出して来たりして。なんか所帯じみてる?
いや、けど、売店には食べたいものがないのである。何よりあのポップコーンとキャラメルのキョーレツなにおい~あれ、なんとかならんのか・・とか思いつつ、おにぎりを頬張る。

▲さて、めあての映画はフランスの『エール!』という作品だ。
主人公のポーラはフランスの田舎町で酪農を営む両親と弟と暮らしている女の子。ほかの家族は耳が聞こえないので、彼女が「耳」となって、仕事関係の話を業者に電話したり、病院で受診する親のちょっと恥しいやりとり(!)も間に入って医師に通訳したりする。それだけじゃなく、牧場の仕事もよく手伝って一日フル回転。

▲映画のはじめに朝食の場面があるんだけど、日常の音がうるさいほど大きく聞こえるんよね。(たぶん、わざと大きくしてる気がする)
料理の載ったお皿をテーブルに置く音、お皿を洗う音、ドアを閉める音~つまり、こんな音もポーラひとりだけに「聞こえてる」という表現なのかもしれないけれど。
「聞こえる」「聞こえない」にかかわらずバタバタと荒っぽい動作の人も、しずかな立ち振る舞いの人もいて。
どうも、いらいらしてるときは大きい音たててるらしいわたしは(←相方によると)東直子さんのこの短歌をおもいだしていた。
「怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい」 (『青卵』)

▲ある日、ひょんなことからポーラはコーラスのクラスを受けることになって。とつぜん歌うことに目覚める。そして日を追うごとに才能は芽をだし開花してゆくんよね。
学校の帰り道、自転車で走りながら大きな声できもちよさそうに歌う彼女の表情のすてきなこと。
いち早く彼女の才能に気づいた音楽の先生はパリの音楽学校のオーディションを受けることを薦めるんだけど・・・。

▲このポーラって子がとても自然体で感じのいい子なんよね。
ちょっと太めというとこも大いに気に入った(笑)
この頃どんな映画観ても、たいてい思春期の子らがみな細身なんやもん。それはそれで雰囲気もあるし、かっこいいし、個人的羨望(!)もあるんだけど。

▲ポーラが自転車で(家から学校まで遠いようで。自転車でまずスクールバスのバス停まで行く)けっこうアップダウンのある道のりを力強くペダルをこぐ姿に、うっとり眺め入る。おもうことはただひとつ。
ああ若いってええなあ。
この子が疾走するシーンも。
もう「走る」という場面だけでじゅうぶんにカンゲキしてるわたし。

▲ポーラの家族も皆ええかんじ。
それぞれが時々自分中心やったりするのも、そのことでぶつかるのも、どこの家でもよく似たようなもんだけど。何よりオープンなのがええなと思った。笑ったり泣いたり怒ったり、つねにテンションの高いお母ちゃんも、そんな彼女をしんそこ愛してる(でも、けんかもよくする)お父ちゃんも。おませな弟も。

▲思いもかけなかった娘の「家を出てゆく」話。
今まで娘の果たした役目はだれがしてくれるの?彼女の歌も聴くことができない~「何よりまだ小さいのに心配」と大泣きの母親に父親が言う。だれか人を雇おう。早くにそうすべきだった。君は、娘より、娘のいない生活を君自身心配なんじゃないか~って。
こういうきもちはわたしにも覚えがあってズキン。

▲物語は、娘の進学と恋。村長選に出ることになったお父さんや弟の恋?も描かれて。作品としては、ちいさな不満もいくつかあったんだけど。
わたしにはポーラの「走る」「歌う」がサイコーやったから、まんぞく。
そして、登場人物の3人が聞こえなくて話せないので、ほとんどのシーンに手話が出てくるんだけど。手話って、「話す」代わりのことばなんかじゃなくて。表情ゆたかなもうひとつの言語なんだなあ~とあらためて。そして、ポーラの両親のおしゃべりなこと!弟の手話もユーモアたっぷりで。

▲そうそう、音楽の先生もよかったな。ちょっと変わってるけど「音楽がすき」っていうのが全身に出てるかんじ。もう長いこと忘れてた高校のセンセを思い出した。音楽は数少ない(!)すきな授業のひとつだったんよね。神経質そうな人だったけど、「音楽がすき」があふれてたし。それまで(この前の小学生の通知簿の「歌う」が×だったように)声が低くて皆と同じキーでは歌いづらかったけど、試験のときにはわたしのキーに合わせて伴奏してくれはったし。それがきっかけで「開花」してたらそれこそドラマやけど。残念ながらそれはなかったな(苦笑)

▲すっかり映画の中に入り込んで、笑うたり、泣いたりしてる内にあっというまの105分。
館内はわたし入れてたった7人。みなさん女性でシニア料金対象者だった。(←たぶん)
映画館に行った日は、途中食べたもの、飲んだもの、出会ったひとも光景も風景も~何より出不精のわたしが「外に出た」感満載の新鮮味あふれる(おおげさ)1日やから、その映画のことはDVDとはちがったカタチでいつまでもよく覚えてる。

▲帰途、うっかりエレベーターの場所を通り越してしまい、長い階段にふうう。
踊り場で一息ついて空見上げたら、わあ!きれいな青色。火照った肌にちょっと冷ための風がきもちよく、ポーラの疾走をイメージしながら(笑)少女のきぶん。
ええ映画時間でした。


*追記
その1)
ポーラのように、聞こえない親をもつ子どもたちを「コーダ」と呼ぶそうです。
以前『コーダの世界 手話の文化と声の文化』(澁谷智子著・医学書院刊)という本を図書館で借りたことがあります。残念ながら読みかけたところで返却日がきてしまい、その後続きを読まないままになっているのですが。また読んでみたいと思っています。

映画『エール!』~いつものことながら、日本版予告編はよけいな(すまん)説明が気になって(わたしにとって意味のわからない)仏語版のほうがええ感じです。
最初に観るならこの予告編を→
つぎに公式HPをおすすめします。→
原題は”La Famille Bélier” (ベリエ)という家族の物語、という意味らしい。
それがなぜ邦題「エール」になったのかなあ?「エールを送る」のエール?
いろいろ調べてたら、フランス語で歌は「air」だとか。

その2)
思春期というたらね、この前読んだ『大人になるっておもしろい?』(清水真砂子著 岩波ジュニア新書2015年刊)の中に「毎日歌壇」で著者がであった短歌ふたつ紹介してあって。
ふたつともわたしにも又「おぼえのある」シーン。ノートに書き留めました。

「挨拶をしなくなりたる少女いて成長とはかく黙すことなり」
(嶋田武夫~毎日新聞2012.2.5)

「愛だけがわたしをすくうと思ってた今日手にとった本を読むまでは」
(李祐実~毎日新聞2010.4.18)


その3)

上記『介護民俗学へようこそ!』は相方読了後いまわたしが読んでいます。
大学で民俗学を研究していた著者が、様々な理由で大学を退職して介護の世界で働くようになるのですが。
「利用者さん」(この呼び方には何かどっか、ひっかかるんだけど。介護の世界ではみなさんこう仰るので、それに倣って)が語る子どもの頃のことや、社会人として活躍していた頃の話に著者は民俗研究者としての好奇心を刺激され、聞き書きを始めたそうで。

そこから昔食べたもの、拵えたもの、の話をきっかけに、みなそれぞれの来し方を語り始め、それに反応してまた別のひとが語り始め、グループホームの空気がなごやかになって。
ひとは誰にでも歴史があって。華やかな時代も、なかには誰にも聞かれたくない、話したくない時代もあるかもしれないけれど。それもふくめてそのひと自身なわけで。
あたりまえやけど、紙に書かれた生年月日と家族構成、病歴だけでは「そのひと」を語るのはあまりにも大ざっぱすぎるわけで。

ひとに話を聴く、まただれかに自分のことを話す、という(ひとの営みからしたら、ごくフツーのことだけど)ことのおもしろさと力をあらためて感じています。

この本、まだ途中やから、読了後書きたいと思いますが
読みながら、いま週2回デイサービス通いを楽しみにしている母のことを何度も思っています。

そうそう、義母の杖は長身のわたしには短すぎるので、のちに友人が背丈に合わせられるのを貸してくれました。で、昨日は相方が今後のために~と、わたし用のを買ってきてくれました。

その4)
きょうは劇中「ポーラ」のうたうこれを聴きながら。
Louane Je vole paroles →
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by bacuminnote | 2015-11-29 12:06 | 映画 | Comments(0)

いつものバスで。

▲ごそごそ起き出す物音に目が覚めた。
まだ時計は鳴っていないけれど、障子戸のむこうが明るい。
相方が出かけるというのでわたしも起きて、ついでに二人分のおにぎりを拵える。天気予報をみたら、なんと晴天率100%~せやろねえ。空の青さがちがうもん。「結局起こされてしもたやん」感も忘れるきもちのよい朝。

▲湿った二日分の洗濯物も、今朝洗ったのもぜんぶ。庭いっぱいに干して。
空みあげて深呼吸ひとつ。なんだか若返ったよ~便乗早起きも三文の徳なり。
そんで明後日は雨、との予報に、急きょ墓参に行くことにした。
そのうち相方も出かけてゆき、さあ、お茶を入れたらわたしも出発~と思ったら、相方から電話がかかった。
どうやらどこかの駅で朝早くに人身事故があったらしく。ダイヤが乱れてるそうで駅も混乱状態とか。「いつになるかわからへんし、もう家に帰るわ~」とのこと。

▲おにぎり持ってどこかに出かけたくなるような、今日のこんな秋晴れのもと、一方には闇の中でうずくまってるひとも。自ら死に向かうひともいて。
あるいは遠い国々で、理不尽な死をむかえてる多くのひとたちもいて。胸が痛い。ああ、けど、痛いからめそめそするんやのぅて、しっかり目ひらいてその背景にあるものを考えないと。落ち着いて。冷静に~と呪文のように独り言。

【ものごとを広く考えることが「知」であり、その結果も「知」であるとすると、その出発点の「考える」ことの中身はつまるところ、ものごとを疑うことではないかと思うんですね。疑ったうえで筋道を立てて考えることが、「考える」ということではないかと。そのえっかが降り積もると「思想」というものになる。】
(『GRAPHICATION 』2008.5「専門主義から総合知へ」池内了:赤木昭夫対談より赤木氏のことば)

▲いつものバスが来て、いつもの席(ここは前方の空間がほんの少し広いのでたすかる)に座って、さっそく持ってきた本『大人になるっておもしろい?』(清水真砂子著 岩波ジュニア新書2015年刊)を読み始めた。
Kさんへの手紙として書かれたこの本の第二信は「怒れ!怒れ!怒れ!」と「怒」と「!」が三つも続いてるんよね。(苦笑)
けんかはいけないことだろうか?という問題提起のあと、子どもらがけんかになりそうになると、周囲の人たち、とりわけ大人は止めに入る。その結果、子どもたちの「ごめんね」と「いいよ」の氾濫になる~と、あるとき著者は学童保育に携わってきた友人に聞いたそうで。

▲そうそう。
息子が小さかった頃もこの「ごめんね」「いいよ~」の掛け合いをよく見聞きした。たいていは「ごめんね」の子も「いいよ~」の子も、ほんまに謝ったり、ゆるしたり~というより、決められたお芝居の台詞を棒読みしてるみたいで、何かいやな感じがした。でも、そこは子どものことやから?すぐまた何事もなかったみたいに、遊びに戻ってゆくんだけど。だったらあれはコーフン気味のこどもをいっときクールダウンさせるためのものやったんかなあ~いや、けどなあ・・・。

▲幼稚園や保育園で働いている著者の若い友人たちは
【私たちが言わせてるのかもしれません。「ごめんね」というほうも「ごめんね」と言われて「いいよ」と応じるほうも、どちらも納得していないのに】と言い出して。著者もまた【私たちはもしかしたら、ちょっとしたケンカにも耐えられなくなっているのかもしれないと】と思うのだった。

▲その後、著者が夫と出会い十年後いっしょに暮らし始めたときのことが書かれていて。
曰く【共同生活がスタートしてまず彼が言ったのは「我慢しない、忘れない、はぐらかさない。この三つを大切にしたい」ということでした。】(p26)
で、この中でいちばん難しかったのが「我慢しないということ」だったそうで。

▲そういうたら、ケッコンしてまだ数年のころ、年上の友人に たとえ夫婦げんかになるとわかってても、自分が納得いかないことは「納得いかへん」、相手の言うことがわからへん、おかしいと思ったら「わからない」「おかしい」とはっきり言わんとあかんよ。黙って我慢ていうのが一番あかんねん。それって問題が積もってゆくだけやからね~と言われたことがある。

▲そのときは何を今さら~と思ったんだけど。
その大切さがよくわかるようになったのは、あれから何十年もたって、「怒る」のも「納得いかへん」と言い返すことも、ものすごくエネルギーのいるめんどくさいことで、後々けんかが長引くこと思えば「まあ、このくらいええか」と思いを飲み込んで、時にあきらめたりすることもおぼえたから、かもしれない。
(それでも周囲にはあきれられるほど今なお相方とは議論もけんかも、たのしい話もいっぱいするけれど)

▲著者は「これはかなりきつい言い方であると思う」としながらもこう語る。
【夫婦であれ、親子であれ、教師と生徒であれ。対等でなければ、我慢することを選ぶ以前に、我慢することを強いられてしまいます。でも、我慢することを強いられる状況を、もし黙っていつまでも受け容れるとしたら、それは受け入れることを選択した側にも責任の一端はあるでしょう】(p27)

▲しかし、この対等な関係というのはどうしたら生まれるのか。
夫婦はともかく、親子や教師と生徒。それに兄弟姉妹でも。人間関係でシーソーが平衡を保ったような状態なんか、おそらくあり得ない。
相手より力を持っている者がそれを自覚していないと、対等な関係なんて築けない気がする。ああそうか~生まれるではなく築いていくものなのかも。そのためにも「我慢」より話して(ぶつかって)いかんとあかんのよね。

▲・・・と、そんなこんなを考えてたら、ほんの数ページしか読んでないうちに、もう終点に着いてしもた。
この日はお天気のせいか墓地には三々五々~夫婦で家族で、お参りに来てはる人がいてにぎやかで。じゃあじゃあ花入れ洗う水道の水がお日ぃさんに照らされてキレイ。ほんま墓参日和やね。
「きょうはええ天気ですなあ」
「お水がきもちいいですねえ」
義父の命日は明後日。あれから12年。
今年は義母も義父のもとへと旅立って。変わらないもの、変わったもの~この12年間をしみじみとおもいながら帰途ゆっくりゆっくり歩く。

▲変わらないものといえば。
今秋ジッカに帰ったとき母が「ええもん見せたろうか」と戸棚から茶封筒を出してきた。
何がでてくるのかと思ったら、なんとわたしの小学一年から四年までの通知表で。何故わたしの四年間(だけ)の通知表が母の手元にあるのか不明だけれど。

▲とにかく、黄ばんだそれらを開けてびっくりした。
もうちょっとデキがよいかと思いこんでたんだけど(苦笑)ちっともそんなこともなくて。記憶というのはじつにええかげんなもんである。
で、こんなんを母のもとに放置しておくのもアレなんで、この間おくってもらったんよね。

▲成績の件は横に置いておくとして。
備考欄に書かれたセンセの所見がめちゃシビアでのけぞる。
曰く
「考える力が足りない」「明朗であるが何事も大ざっぱすぎる」「文字が乱雑である」「何事も粗雑で早合点することがある」「じっくりと思考することなく先を急ぎすぎて失敗をする」
やさしかったあのセンセ、このセンセがこんなことを、たった9×1.8cmの欄に(←いま測ってみた)ぎゅうぎゅう詰めに書いてはったのか~
「歌を歌う」と「運動の技能」に×が多いのも、傷つくなあ(苦笑)

▲いやあ~小学生低学年やのに、なんでこんなことまでセンセにわかるんよ?ひどいよなあ~と相方に言うたら、そんなん(わたしを)見てたらエラわかりやろ~と返される。
はいはい。小学生のころからいっこも変わってへん、ってことですか~。

「いつまでも子どものやうで猫じやらし」(しずか)  


*追記

その1)
宮地しもんさんの『f 字孔』(エフじこう)という歌集を買いました。(ふらんす堂2014年刊)
チェロを聴くのがすきやのに、この本にであうまで f 字孔ということばの意味をしりませんでした。

【f字孔とは、弦楽器の胴体にあいているアルファベットのfの形をした孔のことです。なかをのぞくと、楽器の表板と裏板をつなぐ魂柱(こんちゅう)という木の棒が立っているのが見えます。

魂柱は楽器にとって非常に大切な命のようなものです。
  *

ふたりの子どものことばかり考えている歳月に、放っておいた私のチェロの魂柱は、いつのまにか倒れてしまっていたのです。工房の職人さんに修理をしてもらい、ふたたび音を奏でることができるようになりました。

以来、この穴に顔を近づけては、うすぼんやりとした空間をのぞきこむことがくせになりました。
とても大切なのに触れることはできず、ぼんやりとしか見えない。
このf字孔を歌集のタイトルにすることにしました。】 (あとがきより)

「f 字孔のぞけば暗き空間よ 空のつくものなべて大切」

「なぜここに青いすべり台があるのだろう こんなさびしい雪の野原に」

「世界少し傾ぐ気がせり 子が部屋の内より鍵をかくる音して」

「西空にひとはけの雲今日われは怪我したこどものように過ごしぬ」


その2)
まだ読んでいる途中なのですが。
『思い出袋』(鶴見俊輔著 岩波新書2010年刊)で立ち止まった一説。

【人は、幸運に恵まれていれば、言葉をおぼえる前に、言葉にならない音としぐさのやりとりをたのしむ楽園の時代をもつ。】
(同書 "金鶴泳「凍える口」と日本"より抜粋)

その3)
こまったことにいつも追記を書くころになって、あれもこれも書きたかったこといっぱい浮かんできます。
でも、まあ、これを聴きながらこのへんでおしまいにします。

Oliveray (Nils Frahm & Peter Broderick) - Dreamer
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by bacuminnote | 2015-11-17 19:02 | 出かける | Comments(0)

冬となる。

▲「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」(寺山修司)
この句を読むと、子どもの頃かくれんぼしてる途中、友だちんちのお母さんやお姉ちゃんが「ご飯やで〜早う帰っておいで」とつぎつぎ呼びに来て。
呼びに来ないウチの子がとり残された 晩秋の夕暮れどきがうかんでくる。
「わたしらだけで、もう一回しよか」と鬼になって。
電信柱に寄りかかって、目に当てた片腕を外したら、ほんの十(とぉ)ほど数えただけやのに。びっくりするほど辺りは暗くなってたんよね。

▲冬の始まりはいつもかけ足だけど~今年は早う来はった気ぃするなあ。まだ三つもかぞえてへんのに。
とにかく、わたしは先週ぎっくり腰(また)やってしまったたところだし、あわてて上から下まで冬仕様に替えて、レッグウォーマーにひざ掛け、ショールも出して「冬」に備える。
そんなわけで、
夏場は暑うて敬遠してた火のそば~夕方湯気のたつ だいどこで煮物炊きもんの番しながら、ときどき味見たりしながら、ちょっとのみながら本を読んで。寒いのは かなんけど、ああ、ええ季節やねえ。

▲このあいだ図書館に行ったら、出入口の掲示板に長いこと外したままになっていたプレート「図書館の自由に関する宣言」が元の位置に掛けられていて、うれしく、改めてゆっくり眺め入る。

第1 図書館は資料収集の自由を有する。
第2 図書館は資料提供の自由を有する。
第3 図書館は利用者の秘密を守る。
第4 図書館はすべての検閲に反対する。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

▲この図書館に通い始めて(つまりここに引っ越してきて)もう10年以上になったけど、帰りのエレベーターを待ちながらこれを見るのが癖のようになっていたから。
何週か、そこだけぽっかり空いた掲示板見てたんだけど、ある時ふと、もしかしてなんか訳あって外さはったんやろか~と気になって(なんせ、もう油断も隙もない昨今のセイジやし)
館員さんに思い切って尋ねてみると「いえいえ、単に壁から落ちただけですので、そのうち掛けますね」とのことで安堵。(まあ、実際に掛けられたのは「そのうち」からだいぶたってからやったけど)【図書館の自由の状況は、一国の民主主義の進展をはかる重要な指標】(上記 宣言より)だし、ね。

▲そういえば、これが改訂されたのが1979年で(採択1954年)。
改訂版には【「図書館は利用者の秘密を守る。」が新しい第3宣言として加えられ、旧第3宣言は「すべての」の次に入っていた「不当な」が削除され第4宣言に改められた。「不当な」の文言がなくなったのは“正当な”検閲というものは存在しないため。】(by wiki )には大きく頷く。すばらしい。
ただ、ひとつ疑問に思ったこと。
改訂前の原案(1954年 主文のみ採択)→に主語は「民衆」と書かれているのに、改訂版では「国民」になっているところ。なぜ変えたのだろう。図書館の利用者は「国民」だけやない〜ひろく民衆のためのもの、と思うのに。

▲さて、
この市に図書館が誕生したのは1945年3月だったとか。つまり今年は開館70周年ということで。
このときは市役所に併設という形だったそうだけど、3月といえばまだ戦時中のこと。一体どんな本が並べられ、どんな人たちが借りていたのだろう〜と思うと興味深い。
やがて60年代後半より市内のあちこちに子ども文庫が誕生し、70年代はじめには今わたしが暮らすまちでも図書館設立への運動が始まり、ようやく1978年に開館となったらしい。

▲当たり前のように日々利用しているまちの図書館だけど、ここに至るまでは 多くの人たちの熱い思いと地道な運動があってのことだったんよね。
ところが、ここ数年は市政の財政面での予算カットとか、図書館の司書はただの貸出係みたいにしか考えてないどこやらの市長とか、あるいは問題になってる公立図書館の民間委託とか・・・図書館をめぐる環境は少しづつ、でも確実に劣化しているような気がする。

▲そんなこんなを思ってたら某出版社社長が「本が売れぬのは図書館のせい」〜みたいなことを言わはったとか。→(web朝日新聞)
人気の新刊本だからといって、十数冊も同じ図書館で買うのにはわたしも前からおかしいなあと思ってたけれど。

▲図書館で借りて、もう一度読みたくて書店で買う〜というのはよくあること。わたしは図書館で読んでよかったから、友だちへの贈り物にその本をえらぶ〜ということが多い。
図書館で借りたり、新刊書店で、絶版本を古書店で買ったり。あるいは友だちに既読本をもらったり、あげたり。贈ったり贈られたり。
本と出会う場所も、手にする方法もいろいろあって(あるから)たのしい〜 
ていうか、こんなことわざわざ書かなくても、みんなそんな感じで読みたい本を「ここ」だけやなく「あちこちで」手にしてるんやないかなあ。
(ただ、アーティスト(に限らずだけど)の生活保障というか、支援する制度は必要だと思う)

▲図書館話に熱くなってたら、本のことが一番最後になってしもたけど。
その図書館で『ああ、そうかね』(山田稔著 京都新聞社1996年刊)にこの間出会った。
本屋でも図書館でも「これが読みたい」と目的のものを探しに行って、いつのまにか隣の棚の本が気になったり・・のおもしろさは辞書でことばを調べてるときに似ているなあとおもう。
全然関係のないことばでも隣に並んでるのを読むと、へえ〜と興味がそっちに行くときみたいに。
そしてこの本も偶然のうれしい出会いだった。

▲山田稔さんの本は何冊か読んでるけれど、これは知らなかった。それにタイトルにも惹かれたので迷うことなく借りて帰って、道中にさっそく読み始める。
道中って、家から図書館までちょっとの間なんだけど、たまに足やすめに木の下で立ち止まったりするんよね。
これは京都新聞夕刊に「現代のことば」として氏が連載してはったのに数篇加えたものやそうで。
だから、だいどこで湯をわかしながら夕刊をひろげて読む気安さがあって、一篇が樹の下読書(!)にもちょうどいい長さだった。

▲いや、でも、短いとはいえ山田稔さんの文章やから。ユーモアとウイットに富んだ そして山田さんの住んではる京都風に言うたらちょっとイケズな(苦笑)視点もあって、とてもおもしろく、深く。さーっと読み終えてしまうにはもったいないエッセイ集だった。(せやから、新聞連載が本になったんやろなあ)

▲気になった表題作「ああ、そうかね」は1993年に書かれたもので。京都で開催された小津安二郎生誕九十周年記念映画祭で、氏が戦前のサイレント映画にしぼって観に行かはった話。
これを読んでからずっとわたしの耳元に笠智衆の声が聞こえてくるようで。ああ今もこれを書きながら、また頬がゆるむ。

【サイレントといういわば技術的に強いられた言葉の制約を、トーキー時代になって小津安二郎は寡黙の美学として積極的に活用した。
小津の映画は比較的セリフが少ない。笠智衆の真骨頂は黙って坐っていることにある。たまにこう言うくらいだ。
「ああ、そうかね。そういうもんかね」】(p151より抜粋)

▲そうそう、この本のことをツイートしたら小林政広監督が【懐かしいお名前に思わず反応して】【『コーマルタン界隈』が好きで、若いころあれを映画にしたいと思いました。】とリプライくれはった。
パリ滞在中「コーマルタン」を探したこともあったとか。『ああ、そうかね』を読みたかったけど残念ながら地元図書館にはなかった〜とのことで『旅のなかの旅』を読まはったらしい。(この本のことは昨年11月山田稔さん講演会後の会→で、たまたまわたしのテーブル前に座らはった!山田さんに本の中の一話についてお話を伺った本でもありました)

▲そして、数日後 ふたたび小林さんからツイートが。
こんなふうに本が人をよび、人が本をよび、つながってゆくのはうれしい。
ほんまにうれしい。

【今「旅のなかの旅」読み終えたところ。
もう35年前に旅した粉雪舞うインバネスの町を、マルセイユのユースで同室になった誇り高きベルベル人のことを思い出したり。
山田稔さんの旅は思索の旅か? ひとり珍道中の中、あたたかな観察眼が素敵だ
‪cumin‬さん思い出させてくれてありがとう、】
(小林政広監督のツイートより)

*追記

その1)
母からこのまえ手紙が届きました。
前日電話で話してたとこやからびっくりして開封したけど、とくになんてことのない手紙で、ほっとしたり、なんかおかしかったり。

「足の痛みはいかがですか。辛いでしょう。なるべく無理のない様にして下さい」
「あなたからのお電話は私にはよりどころであり、又勵みです。もう少しおつき合い下さいね」
と、むすばれており。
「勵み」という漢字を娘は読めんやろなあ〜と思ったのか(はげ)と書き加えてあったので笑ってしまいました。
じっさい「励」の旧字〜よう読まんかったけど。

便箋一枚きりの手紙は、でも、とても92歳とはおもえない、さらさら流れるようなきれいな字で書かれており(←親ばかならず 子ばかですみません)
たまには褒めてやろうと(笑)電話したら、ふふふと笑ったあと、なんか秘密を打ち明ける少女みたいに ちいさな声で「ほんま言うたらな、あんなん一枚書くのに、何枚も何枚も書き直したんよ〜」

せやったんか〜
おかあはん。
まだまだ、ながく。ながくおつきあいしましょうぞ。

「母よりの用なき便り柿の秋」(西山春文)

その2)
例によって書けなかった本の話。
干刈あがた『十二月 ドミドミ ソドドドド』(野上暁篇『冬のものがたり』所収)は
「ドミドミ ソドドドド  レレレレ ミミミミ
 ドミドミ ソドドドド  レレミレ ドミド・・」という音階から始まるんだけど、これ、聞き覚えあるなあと思ったら
やっぱり。バイエルの練習曲8番でした。→
なつかし〜い。音楽は子どものころから聴くのがだいすきだったけど、ピアノはいっこも練習せんかったので、ずいぶん長いことバイエルから
卒業できなくて、センセにあきれられてたなあ。

この話は『野菊とバイエル』に入ってるらしいので(前に読んだけどすっかり忘れてた)読み返してみようと思います。
主人公の女の子が自分のことを「オレ」と言うてるんが印象的でした。(若い女の子が自分のことを「ボク」とか言うのとはちがって)
信州で暮らしたころ、近所のおばあちゃんは「オレ」と言うてはったんをなつかしく思い出します。

その3)
今日はこれを聴きながら〜お酒はたのしんで のも。
Koudlam : 'Alcoholic's Hymn'→
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by bacuminnote | 2015-11-04 15:15 | 本をよむ | Comments(0)