いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2016年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧

▲この間から庭の梅が白いのも紅いのんも満開で。
なんでか今年は特別かいらしくて、日に何べんも外に出て眺めてる。
あげく めったに使わないデジカメで(←ゆえに充電から始めて)写真撮って、友だちに送っては花じまんして。
案の定「どないしたん?」と笑われてるんだけど。

▲そういうたら、相方も昨日「ネジ買いに」ホームセンターに行って、つるバラの小さな鉢を買うて帰って来てびっくり!花なんて買ったの、生まれて初めてちゃうんかなあ。何より、フウフでずっと「花より団子」だったはずが。
ふたりとも、どないしたん?(笑)

▲相変わらず絶望的なニュースばっかり耳に入ってきて、ほんま、いやになるけれど。
ふと見上げた空の青が、すきとおって引きこまれそうやったり、洗った布団カバーが一日でからりと乾いたことや、ええかげんに拵えた煮物が結構おいしかったり。遠いとこから便りが届いて。そんで、靴箱の上のつるばらの鉢と目が合うたりすると、顔上げてちょっと背筋も伸ばしてみて。前むいて歩こか~という気になる。
春も近いんやしね。

▲前回「追記」にも書いた『イタリアからイタリアへ』(内田洋子著)を昨日読み終えた。
このかたの文章はとても緻密。それなのに無駄がないから読みやすくて、一晩のうちに読んでしまいそうな気がするんだけど。
なぜかふしぎに走れないし、とばせないんよね。
丁寧な描写に(うまいなあ、すごいなあと)魔法にかかったみたいに、立ち上がってくる映像と文章を被せながら、ゆっくりだいじに(ブレーキ踏みながら)読んでるからかもしれない。いや、何よりすいーっと流れるようでいて濃密やからか。

▲今回は著者がかつて留学したイタリア南部~ナポリの街、学生時代のことが詳しく語られて、とても興味深く読んだ。
以前イタリア好きの友人に内田本を奨めたとき、内田さんの年齢からみても(1959年生まれ)留学先を北のローマやミラノではなく、ナポリに決めたっていう辺りからそもそも「ただものやない気がするわ」と彼女が言うてたんやけど。
わたしはイタリアに行ったこともないし、北と南の雰囲気のちがいも知らないし(大阪のキタとミナミやったら、ちょっとはわかるけど・・)彼女の指摘に「へえ、そうなんや」とたよりない返事をしてたのだった。

▲この本で留学の目的が卒論のためで、その卒論も文学や美術・音楽ではなくて「南部イタリア問題」というのを知り、納得。
【一般に<南部イタリアの問題>というとき、戦後イタリアが復興していく際に、欧州他国に近い北部イタリアを優遇して諸政策が進められ、南部が発展から取り残されてしまったことを指す。】(p81第三話「不揃いなパスタ」より抜粋)

▲学生時代の彼女は【駆け足の観光旅行で回った都市部のローマやミラノでさえ、同じ国とは思えない考え方や暮らし方の違いがあった。鉄道も通っていないような半島の突端や内陸部、国境の山岳地帯や島嶼部には、いったいどんなイタリアがあるのだろう】(p90)と思うんよね。(*島嶼部(とうしょぶ)とは大小さまざまな島のこと)
そういう目のつけどころもまた内田洋子らしい。
そして、そのためには【現地の現状と背景を調べ、自分なりに考察することである。行って、見て、聞く。】と、実に潔い。

▲しかし、そんな若者が勇んで住み始めた町は、想像を遥かに超えて混沌としており。
【慢性の不況に町は荒み切っていて、少しも気を緩められない気配が漂っていた。公共の設備から民間のサービスまであちこちに不備が目立ち、何をするにも過分に時間と気力が要った。】

▲「行って、見て、聞く」といえば、研究のために南部出身のクラスメイトの実家を訪ねてゆくくだりも、おもしろかった。当たり前だけど、その家、その家の家族がいて、そこん家(ち)の空気と、もてなしがあって。家族全員、犬までもが玄関に勢揃いして迎えてくれ。「まだ若いのに、よく一人でナポリまで・・・」と、初対面の著者を涙目でいきなり抱きしめるマンマ!
遠く日本からの留学生の訪問にコーフン気味の家族のようすがうかぶようだ。

▲やがて彼女はイタリアでの滞在許可証をなんと滞在の終わる直前に受け取って!(その頃のナポリではこういうこともアリやったそうで)留学の一年を終え、日本に帰る。(←あっけなくてすみません。その間のエピソードはぜひ本で!)
同級生たちはみな早々と就職先を決める。
たとえイタリア語を必要とされる勤め先でなくても「大学は大学。社会人になるということは、また別でしょ」と、誰も気にするふうもなく。

▲だが、彼女は決心する。
【イタリアと無関係の生活に入ることは、まるで旧友を置き去りにするような気がした。
安穏とした暮らしか、毎瞬が車線変更のような波乱万丈か。
私は後者を、一筋縄ではいかない旧友との道行きのほうを選んだ。】
(p135 第四話「暮らすと見える」より抜粋)

▲いまこれを書きながら、彼女のエッセイのおもしろさはその「毎瞬の車線変更」や「一筋縄ではいかない道行き」と、そのせいで(おかげで)出会えたあちこちの人たちと、彼らとすごした多くの時間ゆえやなあ、と改めて。
いつだかインタビューで、俳句に接し【「読者の気持ちがあって完結する書き方」があることを知った。通信社業に長く携わる者としての「材料、部品を提供する」という気持ちも、常に頭にある。】と語ってはったのをおぼえている。
つねに自己顕示はなく、「ひと」は描くけれど自身のことは決して多く語らない~のも、それゆえのことだろか。

▲そうそう
あとがきに旅をつづけてきた彼女ならではの一文がある。
読み返しながら、年々重くなってる気もする「わたしの鞄」を思っているところ。

【しかし、鞄の中身は自分のあり様そのもの、とやがて気がついた。旅の鞄が重いほど、世間に不慣れであり臨機応変に処せないという証拠だった。
いっそ身一つで。
荷を減らすと不便さに往生したけれど、代わりに知己が広がった。人に尋ね、手を借り、返礼に再訪し、点はつながり線となった。無数の旅を経て、線は四方八方へと延びている。ぷっつり途切れてしまった線もあれば、交差しながらえんえんと続くものもある。】(p273あとがきより抜粋)


*追記

その1)
内田本にはよくバールが登場します。
バール(bar)とは、イタリア、スペインなどの南ヨーロッパで軽食喫茶店、酒場のことやそうで。
第八話「巡り巡って」のなか すきな場面~ええなあ。こういうの。

【夕方になると、一日の終わりに乾杯するためにバールに立ち寄る。同じ時刻には、同じ顔ぶれがいる。毎度、注文するものも同じである。互いに名前も素性も知らない。尋ねたりすることもない。一杯飲んで、「それではまた」。素っ気ないのが一番の気遣いだ。近しいようで遠い者同士が、カウンターに並んで一言二言、交わす。その日のミラノをつまみ食いする。】(p266)


その2)
フィガロジャポンのウェブサイトに内田洋子さんの連載コラム「イタリアの引き出し」があります。
ここから始まり、最新号はもう136回です。

その3)
まだ読み始めたばかりですが、光文社古典新訳文庫『虫めづる姫君 堤中納言物語』(作者未詳)の訳者は詩人 蜂飼耳さん。このシリーズは「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」という方向性で始まったらしく。
コテンは大がいくつもつくほど苦手なわたしにも(数学も物理もあかんかったけど、古典も同じくらい「できない」生徒でした)たのしく読めそうです。
下記のインタビューを読んで「その気」(笑)になりました。
光文社HP
『虫めづる姫君 堤中納言物語』の訳者・蜂飼耳さんに聞く →


その4)
今日はこれを聴きながら。
いつだったか出先の駅ホームで、グレイトフル・デッドのレコードジャケットのTシャツ着てる若者がいて、びっくりしたのとうれしかったのとで、わあ!と声あげてしまいました。
もし、そのとき電車がこなかったら、かれに走り寄って話しかけに行ったかも(←電車が来てよかった? 苦笑)
おばちゃんも十代のころそれ聴いてたんよ~って。
Grateful Dead - It Must Have Been the Roses →
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by bacuminnote | 2016-02-24 22:23 | 本をよむ | Comments(4)

手。

▲せや、せや、あれ~と思いだしてお年玉付き年賀状を繰る。
この頃は、もうほとんどの人が「年賀状ソフト」を使っての賀状ながら、添えられた一行の手書き文字にも「その子」(いくつになっても友だちは「あの子」「その子」)が現れて。
まだパソコンもケータイも、ワープロさえなかった頃にやりとりした手紙や、もっと昔、ガッコのころ写させてもろたノートの文字と、当時の「その子」がかぶって。
スイッチが入ったみたいに、忘れていたような小さなできごとがひょいと浮かんできたりして。
残念ながら「お年玉」の当たりは一枚もなかったけれど(一枚も!)ぽかぽか陽気の週末の朝のええ時間だった。

▲この前『”手”をめぐる四百字』(季刊『銀花』編集部編2007年刊)という本にであった。
副題には「文字は人なり、手は人生なり」とあって、手に取ると見返しの「手」の写真にどきんとする。ひとつは藍染めの古布に刺し子してる手、ひとつは器に泥を塗る手。どちらも、長年働いてきはったと思えるその手がとてもうつくしい。
「手」をめぐる四百字のエッセイは各界五十人のひとたちによる肉筆原稿(コピー)で綴られており、とてもとても興味深く読んだ(眺めた!)。

▲若い頃あこがれて真似たりした作家スタイル(!)太字万年筆文字のひと。『書きかた』の宿題みたいに几帳面な字、一度みたら忘れられないクセのある字、原稿用紙のマス目を豪快にとびだす文字あり、達筆あり・・・で、じつに五十人五十色の書き文字がおもしろい。
でもほんまに「文字は人なり」やろか~ちょっと考える。昔ならともかく、丸文字が流行ったり、いまの若い子の字も皆よく似ている。

▲「読めない”達筆”より没個性でも読みやすい今の子の字がいい」という意見も、ある意味なっとく。
それでも、自筆というのは惹かれる。
この本には作品からは想像できない文字のひともいて「素」はこの字のように朴訥なひとなんやろか~などと勝手な想像をするのも愉しかった。

▲「手をめぐる四百字」といえば、いまこれを書きながら思い出したことがある。
もう8年ほど前の春のことだ。
いつも行く図書館の入り口にあった催しの案内チラシが置いてあるコーナーで、大阪文学学校というところの入学案内チラシが目にとまった。

▲かの田辺聖子さんも作家になる前に学んではったという学校・・ってことはチラシにもあったし、その前年に放映していた朝ドラ~お聖さんの自伝的な物語『芋たこなんきん』にも登場してたしね。
そう言えば、と若い頃友人が通っていたことも思い出したりしながら、チラシを大事にかばんに入れて持ち帰った。

▲わたしが惹かれたのはそこにあった春休み中の「一日体験入学(無料)」というのであった。
シュフやし(無料)というのも魅力だった、けど。
何より信州から大阪に戻って5年が経とうとして、下の子の進学も決まり「そろそろ動こう」と思っていた時だったし。
けっこう交通の便のよいところに住みながらも、ロクに電車も乗らない出不精&方向音痴が、かなり思い切っての外出(おおげさみたいやけど、ほんまです)は、その日が三回あった体験入学の最終回だったことや、息子が「行っておいでよ」と言うてくれたんも背中を押してくれて。

▲いつものことながら、初めてのところにでかけて行く時は、ものすごく緊張して。
地図みて相方に教えてもろたり(というのも、文学学校のある街はパン屋になる前 彼が修行したパン屋のあるとこだったんよね)何度も電車の乗り換えを調べては「お、明日はNY行きか?」とからかわれるのであった。
当日、都会の人混みをかきわけ乗り換えて谷町に。

▲古びた雑居ビルの三階に上がると、掲示板に同人誌や本がぎゅうぎゅう詰めの本棚、古い机と椅子・・と、その昔の大学の部室みたいな雰囲気の一角があり。カルチャースクールのような洗練された(←しらんけど。イメージです・・笑)教室ではないけど、ほっとするようなそれでいて緊張感のある空気が流れて、気に入った。

▲その日教室に集まったのは、文字通り老若男女、十人ほどだっただろうか。最初はここで学んでいる人による原稿用紙四枚の作品を読んで合評。そのあと、チューター(ここでは「センセ」ではなくて「チューター」と呼ぶ)から出された課題に、皆の口から「おお~」というため息のような声が漏れた。

▲それは「自分の手がしたことで悪いこと(後悔していること)を書いてください」だったんよね。
子どもが小さかったときに、つい手をあげてしまったことを悔いるひとが何人か、あとは手を怪我したことを書いたひと。わたしは何を書いたのか、子どものこと書いた気がするんだけど思い出せないでいる。
というのも、ある方の発表が衝撃的だったからかもしれない。

▲銀行に長年勤めてはったという女性が曰く、
期限が来ても返金のないお家に催促の電話をするのが、融資の部署でいた自分の仕事で。その電話するときの黒電話のダイヤルを回す(自分の)手~というのであった。

▲すごいなあ。
まるで映画を観ているように、一昔前の銀行の制服を着て黒電話の前で、まだ若かった彼女が付く抑えたしかし長いふううというため息から、ダイヤルを回す じぃーじぃーという音まで、耳元に聞こえてきそうで。
ただ「自分の手」を語るだけでも、十人十色の(いや、それ以上の)経験と思いがあることに、ドキドキするようで、「一日」だけでなく 「一年間」家の外の空気にふれてみたくなったんよね。
「手」が導いてくれた機会やったと思う。

▲あらあら「手をめぐる四百字」から、えらい横道にそれてしまったけど、この本にもじつにいろんな手が登場する。
「手を合わせる」「おしゃべりな手」「傷めた手」「こぶし」「六十の手習い」「触れる」と六章。
そんななかから最後に永六輔氏の「寺育ち」を書き写してみます。

【寺育ちーーということは 子供の時から合掌する暮らしだった。
その合掌の形が氣になったことがある。
日本人の合掌は手の位置がそれぞれ無雑作なことが多い。
例えば仏教国カンボジャのシャヌークさん。
その合掌の手の位置が状況によって違う。
頭上で合掌するのは仏前。
口元で合掌するのは国民の前
そして身近な人々には胸の前。
それぞれ使い分けられている。
神道の場合 柏手をうつには胸の前が一番確実に音の出る位置だろう。
ロックコンサートの若者達は 頭上で手を打っていることが多い。
鯉を集めるのも 女将さんを呼ぶのも合掌した手を打ち鳴らす。
合掌が武器を持てない平和な姿であることは確かである。  永 六輔 】


*追記

その1)
本の中で残ったうたふたつ。

「手が好きで やがてすべてが好きになる」 (時実新子さん『たばこを挟んだ指』より)

「てのひらというばけものや天の川」 (永田耕衣さんは、この句がタイトルでした!)


その2)
文学学校はその日 一日入学のクラスが終わって、皆で近くの喫茶店に繰り出してひとしきり話したあとも、ひきつづきチューターと参加者の数人とで花見にまで行く展開に。
「読む」も「書く」も好きやったけど、若い頃もクラブやサークルにも加わったことないし、大人になってからも「同人」などにも無縁だったので、仲間に会えたようなそんな気分でその日はちょっとコーフン気味でした。

予定外のコースに帰るのが遅くなったけど、相方も息子も「ゆっくりしてきたらええやん」と言うてくれて。
帰途(念入りに調べて行ったのに、違うとこに寄ったもので、電車を間違えないよう)内心はらはらしながらも、薄暗くなった道をひとり歩きながら、つめたい風がほてった頬にきもちよかったのが忘れられません。

そうして、迷ったあげく週一回。一年間入学することにしたのでした。

その前年、わたしは銀の雫文芸賞(極貧の生活の中「書く事」を支えに戦後生き抜いてこられた雫石とみさんによる「雫石とみ文芸賞基金」がこの年終了、ということで最終回の募集だった)で、思いもかけず優秀賞をいただき賞金をそのまま入学金にあてたのでした。
古い話で恐縮ですが、雫石とみさんのことを知っていただきたくて書きました。

ここで(個人の方のブログですが)山根基世さんによる雫石とみさんについての講演が聞けます。ぜひ→


その3)
きのう待望の内田洋子さんの新刊『イタリアからイタリアへ』(朝日新聞出版2016年刊)を買いに本屋さんに。ほしい本がご近所書店にあったときは、ほんまうれしい。

『柔らかな犀の角』(山崎努著)にあった大すきな一文↓
【一刻も早く手にしたい本があって書店に向かう。気が逸(はや)って急ぎ足になる。読書の快楽はもうそのときから始まっている。歳甲斐もなく、というか歳のせいというか、息を弾ませて店に入る】


その3)
今日はこれを聴きながら。
Gareth Dickson - Two Trains →

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by bacuminnote | 2016-02-13 15:13 | 本をよむ | Comments(0)
▲めずらしく相方が風邪ひいて寝てる。
彼がしんどいときに「~いらん?」「~しよか?」と、わたしはついつい構いすぎるらしく。
「しずかに休んでいたい」ひとを苛立たせては、あげく けんかになったりして(しんどいときやのに)
せやから今回は「~してほしい」と言われるまで、先走らず、大人しくしてるんやけど。
わたしは「構ってほしい派」なので(苦笑)寝込んだときは「~しよか?」「なんか食べたいものあるか?」とつぎつぎ聞いてくれるの大歓迎です。

▲子どものころは風邪ひいたり、扁桃腺はれたり、あたまいたでガッコ休むと、日頃超多忙な母が枕元に、体温計と一緒にサイダーとドロップ缶を丸盆に置いてくれて。
ときどき「かげんはどうや?」と、濡れた手を割烹着で拭きながら部屋を覗いてくれて。
ついさっきまで水仕事してたのだろう、つめたく湿気た手をおでこにのせて「ああ、まだもうちょっとやな」と言うと、すぐまた仕事に戻ってしまうんやけど。
襖の開く音がすると、うれしかった。

▲欠席の日の午後、少し体調がもどって布団の中で「今ごろ、運動会の練習(←きらい)とかやってるのかなあ」とガッコの様子を想像しつつ、布団でごろごろしながら、本がなんぼでも読める時間はサイコーで。
何より「びょうきの日」には母が気にかけてくれるのが、ヨロコビであり。

▲ガッコが嫌、というわけでもなかったんやけど。
家にいたかったからか、ときには仮病をつかったこともあったんよね。
豆炭あんかに体温計近づけると、思いのほか早く体温計の水銀がいちばん上の方まで伸び上がって。焦って、あわてて、腕が抜けるかとおもうほど体温計を振りに振って(これ、苦手)
ようやく37度2分位まで(←大げさにならず、さりとてスルーもできないビミョウな数値!)下げたところを母に見せ、ガッコを休んだりした。

▲せやからね。
自分の子どもにはそんな寂しい思いさせたくないとずっと思ってきたけれど。
そういうのって、逆に子どもには疎ましかったりして。繋いだ手をあっさりふりほどかれたりして、ね。
まあ、それは、それでよかったと思ってるけれど。
親子というのは、ほんまムズカシイ。

▲この間『きみはいい子』という映画を観た。
原作(著)を読んだときにはすでに映画化のニュースを聞いてたんだけど、これ、映画はきついよなあ~と思ってた。
でも、すきな監督(呉美保さん)の作品でもあり、公開された予告編をみたら、いきなり小さな女の子を若いママがはげしく怒りながら叩く後ろ姿が映って。映画やからね、ほんまに叩いてるはずはないにしても、この子役の子、精神的にだいじょうぶやったんやろか?ママの役も(尾野真千子さん)辛かったやろな。
ああ、わたしには無理かも~と逡巡してるうちにいつのまにか忘れてしまっており。

▲それからしばらくたってDVDになっているのを、レンタルショップで他のものを借りて帰ろうとしたとき、たまたま見つけて(例の「目があって」というあれです)迂闊にも予告編のこと忘れて借りて帰ったのであった。

▲で、観たら、さいしょの予想通りに、つらかった。
子どものつらい時間をみるのは、しんそこつらいから。
でも、きつかったのに、観てよかったなあと思えたのは登場する(原作に、映画に)子どもらの力。そして、同じく大人たち(むかしはみな子どもだったひとたち)の力かなあ、と思う。
何かが解決したわけでもないけど、観終わって、それぞれが前むいて立ってる姿がちゃんと想像できたし。

▲本では5つの話を、映画では3つのエピソードを同時進行で描いてる。
娘を傷つけてしまうママ。そしてそんな母娘が行く公園に集う近所のママ友や子どもたち。
いろんな子どもと親がいて(←そんなん、あたりまえなんだけどね)苦悩する新米教師。
認知症が始まりかけてる一人暮らしのお年寄りと障碍がある小学生。
外からみたら「なんてことのない」家庭も、一歩二歩と、歩を進めるといろんなものが見えてくる。

▲だから「(歩を)進めない関係しか持たないことにしてる」と言うてた人に、むかし会ったことがある。
傷つけない、傷つかない関係は、その人にとって身を守る方法だったかもしれないけれど。
ウインドウ越しに料理を眺めてるように、いつまでも減らない料理からは、見た目以上のものって 伝わってこないんと ちゃうかなあ。

▲相手に手の届くキョリ。相手の体温を感じるキョリ。
映画では「抱きしめる」というのがキーワードになっていたけど、手をつないだり、ハグ(hug)は相手にも自分にもぽっ~とあかりを灯してくれる。
虐待もいじめも学級崩壊も独居老人の孤独も障碍児を育てるシングルマザーも。
現実の問題は複雑でそんなことぐらいでびくともしないかもしれないけれど。
真っ暗な道だって、足元を照らしてくれる小さな灯りがあれば、きっと前に進めると思うから。
何を甘いこと言うてるねん~と言われるかもしれないけど。それぐらいは信じて歩きたいと思う。

▲そうそう、
劇中、虐待してしまうママにママ友の一人が、子どもの頃近所のおばあちゃんが自分のことを見ると「べっぴんさん」と言ってくれてうれしかった~と言う場面があったんだけど。(原作ではタイトルも「べっぴんさん」)
これは、著者が田舎で(四万十川の近くで大きくなったそうです)近所の人らによく言われたことばでもあるんやそうで。

▲こういうの、わたしにも覚えがある。
父は「ウチの娘はみなぶさいく~」と言うて憚らない けしからん人(!)やったけど。
近所のおばちゃんらがいつも「あんたは笑顔よしやなあ」と言うてくれるのが、ほんまうれしかったんよね。
わたしの子ども時代の写真が、どれもみな思いっきり笑うて写ってるのは、そのせいやろか。

愛読していた『子どもとゆく』誌が掲げていたことば。
「なにより大切なのは子どもが元気で楽しくいること」



*追記

その1)
このあと観た映画『秘密と嘘』(マイク・リー監督)も、読んだ本『みんながそろう日』(ヨーケ・ファン・レーウェン&マリカ・ブライン/作野坂悦子/訳平澤朋子/絵 鈴木出版2009年刊)
『人生最後のご馳走~ 淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院のリクエスト食』(青山ゆみこ著 幻冬舎2015年刊)も、ある意味「親子」や「家族」の物語でした。
どれもおすすめです。
『秘密と嘘』はレンタルショップにもなく、ここで買いました→

その2)
誕生日、姉に何がほしい?と聞かれて今年はウイスキーをリクエストしました♪
旨い~シングルモルト。
シアワセの琥珀色をながめながら、開高健氏の名コピー(サントリーオールド~1970年頃?)を思い出しています。
かっこいい。
わたしもウヰスキーのにあう かっこいいばあさんめざそう。
そして(今年こそ)佳い一年になりますように。 乾杯!

【跳びながら一歩づつ歩く。
火でありながら灰を生まない。
時間を失うことで時間を見出す。
死して生き、花にして種子。
酔わせつつ醒めさせる。
傑作の資格。
この一瓶。】 (開高健)

その3)
上記『子どもとゆく』リンク先の「読者のおたより」
「長野県・女」とは、わたしのことです(笑)

その4)
今日はこれを聴きながら。
Drombeg - The way love emerges→

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by bacuminnote | 2016-02-02 17:52 | 映画 | Comments(4)