いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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ひとつの手加減もなく。

▲雑貨店の店先にきれいなブルーのカレンダーと手帳が並んでいたから。ふと足がとまって手にしたら、2018年版でびっくりした。わあ。もう来年のですか~そりゃ、あと3枚で今年のカレンダーもお終いにはちがいないけど。もうこういう先へ先への”季節サキドリ商法”(ただいま命名)は、ほんま忙しないからやめてほしいな。次のシーズンのことより「いま」をたのしもうよ~と、ぶつぶつ言いながら歩く。それなのに「あと3枚しかないのか」と、どこか急かされてる気分になってるわたしは、すでにノセられてるのか。帰り道、秋だけどまだ少し夏の、九月の空と風がきもちよかった。

▲家に帰って、ぬるいお茶(つめたいのじゃなく)をぐいぐい飲んで
『十歳までに読んだ本』(ポプラ社)を読む。70人の作家、詩人、俳優、映画監督・・たちの《「根っこ」となった大切な一冊》がそれぞれのエッセイで紹介される。パラパラと繰ったら見覚えのある書影に「なつかしー」と思うも、よくよく考えてみたら、わたしのこども時代ではなくて、ウチの子らが小さいとき寝る前に母子で読んだ本であって。

▲あらためて執筆者のプロフィールをみたら、1960年代~1980年代生まれの方が多くて、その選書に(『モモ』や『大どろぼうホッツェンプロッツ』とか)なっとく。けど、やっぱり「なつかしい」にちがいはなくて、「もう一回」「もうちょっと」と、たまに居眠りしそうになりながらの寝床読書のシアワセな時間がよみがえる。

▲そういうわたしは十歳のころ(1965年)って、どんな本を読んでいたのだろう?と思ったんだけど。なぜだか書名がすぐに浮かんでこなかったのである。あれ?本読んでなかったんかなあ?と記憶をたぐりよせる。
十歳というと小学三、四年生で、女の子も男の子も一緒くたになって遊んだ、わたしにとって外遊びの黄金期だった。

▲昼休みはもちろん、10分そこらの休憩時間にも靴を履き替えるのももどかしく、われ先にと運動場に走って、鉄棒やボール遊び。放課後にはランドセルをその辺にほっぽってドッジボール。わたしは男子の強いボールを胸でバシッと受けるのがじまんだった(笑)

▲あとは、ガッコの裏山に駆け上がり、だだだだっ~と一気にその細い山道を走って下る「人間レーシングカー」(なんでレーシングカーか、わからないけど)遊び。家に帰ってからは自転車で「スピードいはんきょうそう」(こんな命名はだれがしたのか?)とかいうて走り回ったり。あほなことに夢中だったのもこの頃だった。

▲夕方になってあちこちから「ご飯やで。早う帰って来ぃや」という友だちのお母ちゃんの声でゲームオーバー。そのあとは宿題しながらテレビで『鉄腕アトム』や『エイトマン』観て。ピアノのおけいこもちょっとだけして。『マーガレット』や『りぼん』読んで真似してバレエのまんが描いたりして・・・。

▲考えてみると、忙しい毎日やったなあ(笑)だからそんな中で本を読む時間というのは、扁桃腺腫らしたり、頭いたにお腹いたでガッコを休んだ日の、やっぱり寝床読書で。思い返すといつもそれほど重病ではなかったから「びょうきの日」には母が仕事の合間に布団のそばに来てくれるのがうれしくて、ちょっと大げさに言うてたのかもしれない。

▲いまその頃の部屋や布団の柄を思い出すと、重なるように読んだ本の表紙の色や絵まで浮かんできた。『小公女』『長くつ下のピッピ』『豆つぶほどの小さないぬ』『クレオ』・・・。寝床だけじゃなく、本を夢中になって読むようになったのは、初めて校内に図書室ができた五年生からだとおもう。

▲さて、この本の執筆者たちの語るこども時代の一冊は、ひさしぶりに(原稿を書くまえに)読んでみて、の感想がおもしろかった。くりかえし読んだのにちっとも内容は覚えてなかったというひと、改めて読んでその内容の深さにおどろいたり、差別性にたちどまったり、その後テレビアニメ版があっさりハッピーエンドに変えられてたことへのうらみとか(共感!)

▲いちばんこころに残ったのは、何人かの方が共通して語っていた、自分にとってのだいじな一冊は書き手がこどもを上から見ていない~ということ。昔は「こどもやと思って軽くみてるやろ」と思う本を時々みかけたけど、いまでも本屋さんの絵本・児童書コーナーに行くと、一見こどもに寄り添っている風な、でも、そこに(絵も文も)ちいさな読者への敬意が感じられない本が平積みされていたりして。腹立たしくかなしくおもうことがよくある。

▲というか、昔も今も、ちいさいひとでも大きいひとでも、読者を大事に思ってるかどうかは、読んでいて自然に伝わってくると思う。同書に載っている絲山秋子さんが(この方の読書歴は、それを読んでるだけで、ほんまに本がすきなひと、とうっとりする。→web本の雑誌『作家の読書道』
)挙げた本『フリスビーおばさんとニムの家ねずみ』は残念ながら未読なんだけど、最後にこう結んではって、絲山秋子作品を思いながら大きく頷く。
《この本は著者が読者を、子どもとして上から見ていない。長い物語を聞いてもらう相手に対しての敬意が感じられる。どんなジャンルでも、この姿勢は物を書く上で忘れてはならないことだと思う》(p257)

▲そうそう、去年おもいがけず小学生のとき夏休みに書いた読書感想文(原稿用紙)が出てきて、わたしも50年近くぶりに再読した本があるんだけど(
ここに書きました)本のなかに「読んでいたころ」のこどもの自分がいて、いま読んでる歳とったわたしの眼や感性があって。けど、ほとんどあの時のまんまやなあ~と苦笑しつつ。時を経ての再読のたのしい時間をすごした。
「ちちろ虫いくつになっても本がすき」(しずか)

▲夏休みの宿題といえば、9月(8月末からのところもあるけど)二学期が始まって、ガッコに行くのがしんどい子も、行きたくない子にも「逃げ場」が必要~というような発言をツイッターでも多く見かけた。自分が自分でいられる時間や場所は、こどもでも大人でも、だれにでも必要なわけで。

▲けど、そもそも「逃げ」ないと身がもたない場所って、何なんやろなあ、と考え込む。いつも、この時期には何度も書いててくりかえしになるけど、自分にとって「うまく呼吸のできる場所」(これ、ずいぶん前に観ただいすきな映画『明るい瞳』
にでてくる)っていうのが、きっとどこかにあることを信じたいです。わたし自身、ひとだけでなく、本や音楽、映画の世界にどれだけ救われたことか。(いまもだ!)たとえ小さくてもよい出会いがありますように。


▲『十歳までに読んだ本』から。
《学校は相変わらずつまらない場所だったが、わたしは毅然とした態度でいることにした。ジャングルで悠然と歩くような気持ちで廊下を歩き回り、決して泣かず媚びず、一人で校庭の片隅にいることを楽しんだ。以来、そうやって、読書というものは、人生の困難な局面を乗り越えるための一手段になった。いまでもそうやって、主人公や作者の生き方を学んでいる。》
(p89長島有里枝 『少年ケニア』山川惣治)

《どんな環境に身をおいても、人生には「いいこと」と「つらいこと」、両方が起きる。いいことの一色だけで毎日を染めることができない代わりに、つらいことだけになることもない。あの日、幼い私が時間をかけて物語から見つけ出した人生の機微が、簡潔な文章の中に、一つの手加減もなく凜と込められている。》
(p193あさのますみ 『ガラスの家族』キャサリン・パターソン)


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by bacuminnote | 2017-09-14 13:43 | 本をよむ | Comments(0)