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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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立ち止まる。

▲すずしい。
ふく風も空の青も雲の形も、今朝は秋そのものだった。
散歩途中にすれちがう自転車の若い子(毎度思い切りペダル漕いで走ってる)の首には送風機?が掛かってなくて。いつもサンダルをペタペタ音たてながら犬散歩のおじさん、きょうはしずかやな〜と思ったらソックスも靴も履いてはって。マスクの下でひとり笑ってしまう。

▲かくいうわたしもきょうはプラス一枚で出てきたのだった。涼しいと、体が軽くなったみたいに背筋伸ばして(たぶん)さっさか、どこまでも歩けそうな気がして歩幅も大きくなってる。
で、こういう日は予定より早く「折り返し点」に到着する。でも、途中なんべんも立ち止まっては、空や木々見上げたり、足元の草花の名前をスマホで調べてみたり〜の時間もええもんで。

▲いま読んでいる『文にあたる』(牟田都子著 亜紀書房2022年刊)は校正・校閲者の著者が一冊の本ができあがるまで、ゲラをくり返し読み込み資料と向き合う時間が語られて。活字好きにはとても興味深いエッセイなんだけど。その中に「どこまで赤くするか」という一編があり「立ち止まった」。
校正といっても、その対象はさまざまで。《文芸誌の校正は新聞校閲の対局にあるといえるかもしれません。特に最初に担当したのは数々の文学賞の受賞作を掲載してきた純文学の雑誌でしたから、文法的な正確さや論旨の明確さより、著者の文体、表現としての意図が優先されることもありました。句読点ひとつでさえ著者の「表現」であり、「誤り」と見えたとしてもそうではない可能性を常に考えながら疑問や指摘を出す》(p32)という。

▲そこで『未明の闘争』(保坂和志著 講談社2013年刊)の冒頭の一文《私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた》が引用されており。《著者自ら単行本化の際のインタビューで「文法的におかしいセンテンス」だったと振り返るだけあって、のっけから読者を立ち止まらせずにはおきません》とある。たしかに。開けた扉の前で、わたしやったら?〜見なかったことして(苦笑)先に進むか、足踏みしたまま扉を閉めてしまうやろか。
牟田さんは校正者として《自分がこれを校正する立場だったらと悩みます》と、初校ならどうか、再校なら、まして《雑誌掲載時から数えて三度目になる単行本化の校正でさえ、黙って見過ごすことは難しいように思います》と語る。

▲もうここを読んだだけでも、校閲・校正という仕事の難しさや深さや、何度もかわされたであろう校正者、編集者、著者のやりとりを、誌面には残らない時間を想像して、ふううと長い息を吐く。と同時にふだん何気なく読んでいる「本一冊」の重みを感じるのだけれど。
《著者はこの不穏な一文から始まる小説を「文章というのは記号としてたんに頭で規則に沿って読んでいるだけでなく、全身で読んでいる。だから文法的におかしいセンテンスは体に響く。これはけっこうこの小説全体の方針で、私はその響きを共鳴体として、読者の五感や記憶や忘れている経験を鳴らしたいと思った」というのです》(p33 )

▲これは話さねば〜と例によって朝パンを齧りながら、つれあいに音読する。(数年前から活字が読みづらくなっているので、話題にしたい、気になる箇所はいつもわたしが音読します)というのも、かれは「読みやすい」や「わかりやすい」より所々で立ち止まり考えながら、また戻って読み返すような作品(文章)を好んでいるから〜なんだけど。

▲で、その続きで、わたしの古いノートにあった大江健三郎氏のインタビュー記事の切り抜き(1995年4月26日朝日新聞 「大江健三郎の世界」インタビュー・構成 佐田智子)の話になって。これ、見出しには「難解といわれる悲しみ」とある。このころは、ちょうど氏の『燃えあがる緑の木』三部作が出版されたときであり、完結直後に地下鉄サリン事件(1995.3.20)が起こったことから予言的作品といわれたりもしていたらしい。
出版当時この本を読んだかれの感想を聞きながら「信仰集団の成立と崩壊」を描いているという長編小説に、遅ればせながら関心をもつが、それはさておき。この記事の中印象に残った「わかりやすい」「わからない」について〜少し長くなるけれど書き写してみます。

▲《僕は書き直しを五回も六回もやる。できるだけ誤解される余地がないように書きたいわけです。それが文章を明快に書くことだと信じてきた。が、難解と言われて、読むことをやめられてしまうと、荒涼とした風が吹いてくるような気持ちを持ちます。》

《外国で「今あなたが言っていることはよくわからない」といわれるのは、反問して聞いてくれることなんですね。日本で「よくわからない」というのは、相手を拒否する言葉なんです。わかる意思がない。わかる必要もない、と。
僕は労作と訳されるトラバーユという言葉が好きです。苦しんで成し遂げる、働く、ことがトラバーユだと思いますけど、今の人たちが言うのは逆でしょう。やりやすい仕事に変わることをいう。
この国の文化では難しいものは敬遠される。ものを考える、表現する労作を、自分もその労作に参加して評価しよう、という人の少ない時代になってきているのではないかと思うんです。》(ここで記事終わり)

▲27年も前の記事だけど「難しいものは敬遠される」「この国の文化」は、その後もっとひどいことになっているのは、言うまでもなくて。結果、立ち止まらず、ものを考えず、簡単な方に、わかりやすい方に〜と社会全体が傾いており。流れを阻むような「めんどうくさいひと」は放っておかれる有様だ。
いや、そもそも。政治も文学も「難しいもの」なんだろか? 市民の〜こどもにも大人にも、すぐ手の届くところに本来ある(べき)ものじゃないのか。「難しく」見せている/思わせているのはいったい誰、そしてそれは何のために、と思う。



*追記
その1)
わたしが当時何を思ってこの記事を切り抜きノートに貼ったのか、記憶にないんだけど。唯一覚えていたのは記事の写真の下に書かれた大江氏のことばです。
《漱石は『こころ』で、記憶して下さい、私はこんな風にして生きてきたのです、と書いている。僕も生きてきたすべてを、最後の小説で書いたと思う》

記事中の「今の人たちが言うトラバーユ」というのが一瞬ピンとこなかったんだけど。そういえば80年代に『とらばーゆ』という女性の就職・転職求人雑誌があり、「とらばーゆする」という流行語もあったなあ。今調べたら1980年に創刊(byリクルート)。1999年男女雇用機会均等法が改正され募集・採用に関し男女差を設けることが禁じられてからは男女を対象に変わり、その後紙媒体は2009年9月に休刊。現在はwebに移行、とのこと。(by wiki)


その2)
朝いちばん散歩するようになって、足の具合はまずまずなんだけど、散歩からもどってシャワー浴びたら、もう一日の終わりのようで、あとはビール飲んで寝るだけ〜(朝から飲みませんし、寝ませんが。苦笑)みたいな気分になって、ぼんやりしてたらあっという間にお昼ごはんで。昼食後は眠くてぼんやりしてる間に夕ご飯で。つまり一日の大半をぼんやりとご飯拵えとご飯食べてる今日このごろ。

そんなわけで、読みたい本はいっぱいあるのに、集中力がまるでなくて、あっち読みこっち読み。感想や紹介を書けないままです。
コロナの嵐が落ち着いたら「あのとき、あんなに長い間どこにも行かず家にこもってたのに。なんで本読めんかったんやろなあ」とか思うのかなあ〜

けれど、前述の本『文にあたる』の「おわりに」にあった一節に、いまのような時間もまた"bakubaku on reading"かもしれへんな〜と思いながら。

《本を読む、というときの「読む」はかならずしも通読を意味しません。書店や図書館に並ぶ無数の本の中から一冊の本に目がとまる。本から発せられているなにかにつき動かされるように手を伸ばすその瞬間、人はすでに本を「読んでいる」といえるのではないでしょうか》(p249)


その3)
今日は韓国映画2本『アイ・キャンスピーク』『雪道』のこと、それからおなじく韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』の「食」について書くつもりだったのに、しらんまに違う方に歩いてしまいました。こんどこそ。


その4)
まだ8月なのに登校の子らをみて「登校日か部活やろか?」とか言うてた「夏休みは8月31日まで〜と思い込んでる古い世代」のわたしら。教室に冷房設備ができた、こともあるのだろうけれど。退屈したり、暇にしてたらあかんの?
2学期がしんどい子に、ガッコに行きたくない子に、ひとつでも居場所がありますように。「上手く呼吸のできる世界」がありますように。
何度か書いてる気がするけど、再度。2012.7.8ブログ「そのなかのひとつ」→

そして、きょうはこれを聴きながら。
♪bad day, looking for a way home, looking for the great escape〜
The Great Escape -Patrick Watson
# by bacuminnote | 2022-08-29 21:55 | 本をよむ
▲毎日「これでもか」というくらいの猛暑が続くけれど、朝散歩の時間帯はまだなんとか気持ちよく歩けるし、たまにご褒美のような涼しい風がすぅーいっと吹くのが、こころからうれしい〜なぁんて、よろこんでたら、信州の友から「夕方21℃でした」と衝撃のLINEがきて。ただただ羨ましさで無口になる。ああ、ええなあ〜エアコンの「高原の風」やない、ほんまもんの爽やかな風ふくところ。

▲朝7時過ぎに散歩から戻ると、想像以上にTシャツが汗で濡れていて(ここぞ、とばかりに体重測定してる!)。珈琲淹れたり、洗濯機まわして、つれあいと「ぼやき漫才」(←こんなん知ってるひとは高齢者かもw)のごとく、「責任者出てこい!」とイカったり、本や記事の音読したりしながら、かんたんな朝食を終えたら、もう一日の半分以上こなしたような気分になって、脱力する。

▲そういうたら、遠いむかしの夏休み〜首から出席カードをぶらさげて、近くのお寺の境内でラジオ体操を終えたら、もう次の目標はお昼に川へ泳ぎに行くことしかないから。ぼんやり「夏休みの友」や絵日記を開きながらも、すぐに寝転んで本やマンガ読んだり、ごろんごろんしてたあの感じかなあ。
いや、大きなちがいは、お昼が来ても「はよう食べや。ご飯やで〜」とだれも呼んでくれないこと。ていうか、いまは自分がそれを言う役回り(苦笑)。

▲あ、でも、ここには何度も書いてるように、わたしのこども時代の夏休みは家業の繁忙期とまるまる被ってたから。実際には呼んでもらうより「早う、早うごはん作って。もう(川に泳ぎに行く)集合時間やのにぃ〜」と駄々こねて、忙しい母を困らせるしょうがないこどもだった気がする、わたし。


▲晩年母がよく「目の前の仕事をするので精一杯やったからなぁ、あんたらのこどもの時分のことはほんま悪いけど、何にも覚えてへんね」と申し訳なさそうに話してたけど。
急かした食卓に出てきたまだ生暖かい素麺や、炒り卵をご飯にまぶしただけのお昼ごはんを思い出すと、胸がいっぱいになって「おかあちゃんごめん」とおもうのだった。

▲そういうたら、小学生のころ〜高度成長のさなか家業も大忙しで、当時は家と旅館がすこし離れていたので、夜おそくに仕事を終えて母が帰ってくるんだけど。
ある日のこと、改まった顔つきで母が「あんた、向こう(旅館)から学校に通わへんか?奥の洋間にベッドも入れて、あんたの勉強部屋にしてあげるし」と言うのだった。
すでに、その頃姉たちはそれぞれ遠くのガッコに行って家を出ていたから、残るこどもはわたし一人であり。わたしのためにだけ夜遅く帰ってまた朝出てくるのが大変〜ということくらいは、こどもでも簡単に想像できたし、何より「ベッド」はそのころの小学生をじゅうぶんに魅了するアイテムだったのだけれど。

▲「いらん。ここがええの!」とわたしは即答したのだった。毎日遊び慣れた広場も路地も、アイスクリーム屋に駄菓子屋さんもすぐ近くにあり、第一周囲には友だちがいっぱいいる「家」から離れるのが嫌やったんよね。
距離にしたら500mほど。橋ひとつ渡るくらいのことやったのに。転校もしなくてよかったし、何より母のしんどさも軽減できることは、わかってるつもりだったけれど。
結局ベッドはお預けになって、母はまた毎日通ってた。

▲どうしてこんなことを思い出したかというと、きのう観た映画『ベルファスト』(原題:Belfast ケネス・ブラナー監督)にも(かの地の緊迫した状況と、わたしのこども時代の話とはまるで比べ物にもならないんだけど)親に「好条件」を出されても、友だちと離れたくない、引っ越したくない男の子が登場するからで。

▲この映画、タイトルを見ただけで「北アイルランド問題(紛争)」の話かな〜と思ったのは、30年ほど前に親子で夢中になって読んだ『ふたりの世界』(ジョアン・リンガード作・横山貞子訳・ 晶文社刊)が瞬時に浮かんだから。そう、この本もまたベルファストの町から物語が始まるんよね。カトリックの家に生まれた少年ケヴィンとプロテスタントの家の少女セイディがであい、ぶつかり、恋をして〜の全5巻長編小説。(以前ここにもすこし書きました。2009.9.19

▲さて、映画は「今」をカラーでうつしたあと、1969年のベルファストに遡ると画面は白黒になって、物語が動き始める。
主人公のバディはまだ少し幼さの残る9歳の男の子。この子がほんまええ感じで、観ているとかれの目に映る世界に引き込まれるし、観終えたいまも顔を思い浮かべただけで頬がゆるむ。
そして、この子だけでなく出演者たちみんなが町の空気に馴染んでるようで。実際ベルファストで9歳まで育ったという監督ケネス・ブラナー(この映画はかれの自伝的作品でもあるそうだ)をはじめとして、主要な出演者は北アイルランド〜ベルファスト、それにアイルランドと縁の深い人ばかりだそうで。なっとく。

▲映画は1960年代後半ベルファストにおけるプロテスタントとカトリックの対立の「激動の時代」が描かれるものの、宗教の教義や政治についてはあまり語られることはなくて。最初そのあたりが少し予想外だったんだけど。逆にその問題を掘り下げてゆけば、バディの9歳の生活からは離れてゆきそうな気もするから、こどもの目が見たベルファストが描かれたのだと思う。それでも「こどもの目」にも対立は日に日に激化して、やがてバディの家族も巻き込まれてゆくんだけど。

▲そんな中、バディが学校帰りに決まって寄る祖父母がええんよね。
算数の問題を解きながら、おじいちゃんが良い点をとるコツとして、どっちにでもとれる答えの書き方を話すんよね。バディは「それってズルじゃないの?」「正解は一つでしょ」返すんだけど。「答えが一つなら紛争など起きんよ」とおじいちゃん。
ユーモアたっぷり合いの手を入れるおばあちゃんはクールだけど愛情深く夫や息子一家を見ていて。こんな風に、こどもが自分ち以外に「寄る」場所があるのは、家族であってもなくても、いいなあ〜と改めておもう。

▲月に二回ほど仕事先のロンドンから帰ってくる父親は、もうこんな危険なところでこどもは育てられない、こどもと妻と一緒に安心して暮らせる国へ〜と、移住を提案するんよね。
夫同様この地で生まれ育ってきた妻は、周囲みんなが自分や家族のことをよく知って、愛してくれている「ここ」以外の場所で暮らすことなど考えられなくて。「なんとか無事過ごせるよう気をつけながら暮らすから」と移住に踏み切れないでいる。
その間にも、町の中の対立は暴動へと激化して。ロンドンの会社から家族での移住をすすめられた父親は、妻だけでなくこどもの意見も聞きたいから、とバディたちにも移住のことを話すんよね。曰く「庭もあって、こどもの部屋も、トイレだって家の中に2つある」家。

▲バディは「いやだ。ここから離れたくない」と即答するものの、やっぱりこどもなりに悩むんよね。だれに聞いたのか、「イングランドじゃ(ベルファストの)言葉が通じないんだって」とおじいちゃんにこぼしたときに返ってきたことばには、思わず画面にむかって「そうだ!」と声をあげる。

「ばあちゃんと結婚して50年だが、今も言葉が通じない。
わからないのは聞こうとしないからだ。向こうの問題だ」
「近所の人もみな友だちだし、じいちゃんもばあちゃんも母さん父さんも兄ちゃんも、みんなお前の味方だ。お前がどこに行って何になろうと一生変わらんよ。それがわかっていれば、不幸にならない。覚えておけ」

▲おじいちゃんのことばといえば、「長すぎる我慢は心を石に変える」「人が何かを学ぶには胸の高鳴りが必要だ」もノートに書き留めた。
そうそう、劇中何度かテレビドラマや近くの映画館に家族で映画を観に行く場面があるんだけど(なつかしい『チキ・チキ・バン・バン』とか、ね。あ、この映画はカラーで映される)バディのそれはうれしそうなしあわせいっぱいの表情に〜後に、かれが映画界(俳優で映画監督で脚本家、プロデューサー)に身を置くことを知っている鑑賞者としては「ああ、ここから始まったんやね」と、バディみたくしあわせいっぱいの気持ちになるのだった。

▲最後の場面はふたたびカラーにもどって。うつくしく深いブルーの空と暮れゆく町〜「残った者たちと 去っていった者たちへ。そして命を落とした者たちに捧ぐ」の文字。ヴァン・モリスンのうた(ひさしぶりに聴いた)が流れる。ああ、そうだった。かれもまたベルファストの出身だった。
"For the ones who stayed
For the ones who left
And for all the ones who were lost"



*追記
その1)
予告編〜日本版はナレーションと踊る文字が少々うるさくて(すまん)英語版(字幕なしだから、わたしは意味がよくわからないんだけど。こっちのほうが好ましく感じるので)をあげておきます→

日々「これでもか」と襲ってくるのは、熱波だけでなく、コロナの波と、この国の政治〜とりわけ与党の腐敗臭。からだもきもちもダウン気味のなか、背景はシビアながら登場人物たちに〜とりわけバディ少年にほっとする映画の時間でした。

いまは家に居てもかんたんに映画を観ることができるけど(そのおかげで、わたしもコロナ禍の中にこうして動画配信で映画をたのしめるのだけど)コロナの波がしずまったら、ちいさいひとのいるご家庭は、ぜひ、こどもを映画館に連れていってあげてほしいな〜と思いました。

もうずいぶん前のことになってしまったけれど、こどもと一緒に映画館に行って、字幕のまだ読めない子に耳元で同時通訳(苦笑)したことや、帰り道に寄った甘味処や、帰途電車のなかでその日観た映画の話を夢中になってしたことをなつかしく思い出します。もちろん、いまは映画館以外にもたのしくエキサイティングな場所はいっぱいあるのはわかってるけれど。

映画館は、親やきょうだいと一緒に観てるのに暗い中「ひとりの経験」のできるふしぎな時間と場所、だとおもうから。そして場内が明るくなって、現実にもどって、その「経験」を互いに話し合えるのはとってもたのしく、しあわせなものだから。
ああ、そのためにも、コロナよ、一刻も早く立ち去ってくれ。


その2)
昨夜のこと、幼馴染からメールがありました。おもいもかけずお母様の訃報。99歳の誕生日をお元気に迎えはった旨(5.18のブログにも書いたとこでした→)家族や姉たちとも喜んでいたから、びっくりしたし、かなしかった。
ただ、母もそうだったけど、かの女のお母様も穏やかな最期やったそうで。
それにしても、ふたり同じ年に逝くやなんてね。さみしくなるけれど、二人とも「むこう」では女学校時代にもどって「えいこちゃん」「なおこちゃん」やっと会えたなあ〜と、たのしくにぎやかに、おしゃべりしてるかもしれません。
"Rest in peace"


その3)
きょうは、やっぱりヴァン・モリスンを聴きながら。
Van Morrison - And the Healing Has Begun 
もう一曲(冒頭に流れるオリジナル・テーマ曲。最初流れたときはモリソンの曲とは気が付きませんでした)Van Morrison - Down to Joy (Audio) [from "Belfast"]
# by bacuminnote | 2022-08-06 20:08 | 映画

7月は迷子。

▲早くに梅雨があけてしまったから。
来るのはゆっくりでええからね〜とおもってた夏が、なんや全力疾走でやってきて。かと思ったら、戻り梅雨のように雨の多い日々。
そんな気まぐれ天気にふりまわされて、ため息つきながら買い物から帰ったら、元総理が参院選を前に街頭で演説中に銃撃され死亡〜というショッキングな事件の報道があり。

▲そして、その二日後には投票日で。
予想はしていたけれど、想像以上の(とりわけ大阪の)さんざんな結果に凹む。そして、選挙のたびに、自分も家族も友人たちも、少数派なのだ〜と思い知らされるのだけれど。don't give up だ。
それにしても、なんという7月であることよ。
「天も地も人も迷子や合歓(ねむ)の花」(cumin)

▲さて。
今日は母の、生きていたら99歳の誕生日だ。去年ホームに電話して、思いのほか長く話せたことをしみじみと思い出す。(→)それは一年前というより、もっと遠い日のアルバムを見返しているようでもあり、逆についこの間、直近のできごとのようでもあり。
耳元には母の話す声も笑い声も、はっきりとのこってる。声の記憶というのは、記憶のなかでも何故だか「近い」とこにあるんよね。

▲そんなこんな、思うことも考えることも、それから深いためいきも。元々ちっちゃいわたしのHDは容量一杯、のきょうこの頃だ。
ネット上では、件の宗教団体の名前が踊ってる。
そういうたら〜と思い出したことがある。
信州暮らしのころ、母の入院見舞いだったかで、大阪までひとり出かけたことがあって。帰途、最終の「特急しなの」の車中で、隣席の年上の女性が話しかけてこられた。
思えば、25年ほど前は車中隣り合わせた知らない人と気軽に話す空気が それでもまだ残ってたんやなぁ〜とおもう。で、その方Mさんは南信でお母さんと同居、介護されてるというお話から始まって、ウチから車で一時間余りの所にあるキリスト教会の牧師さんと知った。

▲わたしもパン屋になったいきさつや、信州に数年前に越してきたことなど話すうちに、パンの発送の注文もいただいたりして(笑)「バラがきれいからご家族で一度ぜひ遊びにいらっしゃい」と誘ってもらって。
やがてわたしのほうが先に下車して、別れたんだけど。こういう、思いもかけないおしゃべりは、たとえその場かぎりのものでも愉しいものだ。

▲Mさんとは「その場かぎり」にはならず、後日家族で教会に伺った。バラにはあまり関心のないわたしたちだったけど(苦笑)電車の中で、Mさんが「カルト教団」からの脱会とその後の精神的サポートに尽力されている〜と話しておられたことが印象に残っており。
ただ、当時は息子がまだちいさくてじっとしてなかったし、プライバシーの問題もあり、そのことについてゆっくりお話はできなかったんだけど。

▲まず脱会するまでが大変。なんとか脱会までこぎつけても、がんじがらめに縛られた縄をほどくように、時間をかけてゆっくり、以前の暮らし、以前の自分や、家族をふくむ人間関係を「取り戻す」ことがとても大変〜とおっしゃってたことを思い出す。
今回の事件の背景はまだまだわからないこと、発表されていないこともあるだろうから、簡単に意見をいうことなどできないけど。教団への「献金」という名のもとに、容疑者の家の経済状態も家族関係も壊されたのは確かなようで。かれにも救済の場があったらよかったのに〜と思う。同時にひとの悩みや弱み、不安につけこんだカルト教団の「ビジネス!」には怒りを覚える。

▲そうそう、Mさんを訪ねたころ、下の子はアトピーが大変だった時期で、当時は松本市の病院まで通ってたんだけど。掃除に洗濯に食事に〜どれも「ふつうに」「ええかげんに」ではすませられなくて。加えて○○がいい、△△が効く〜という「よかれと思って」の情報が次々入ってきて。歳とってからの二度目のお産のあとは「余裕の子育て」とおもってたのに。若くない、がゆえのしんどさもあり。時々気持ちが波立つこともあったけど、ウチはずっと同じ医師のもとに通ってた。
けど、いっこうによくならないから(ていうか、なかなか思うように治らないんよね)〜と次々医療機関を変えるひとの話もよく聞いたし、いわゆる「アトピービジネス」と呼ばれるもの(健康食品や水、漢方薬に、あらゆる民間療法から「先祖供養」に至るまで)に振り回されるひともたくさん見てきた。

▲「絶対治る」という謳い文句に、吸い寄せられてしまう気持ちはわかる気もする。なのに「絶対」は起こらず、結局お金だけたくさん出して、よくならなかった〜と耳にするたび、胸がいたかった。
ある日(どんな方法だったかもう忘れてしまったんだけど)主治医に「○○ってどうですかねえ?」って尋ねたとき「アトピーも人それぞれで。何がきっかけでよくなるかはわからないからね。自分がいいと思うことは試してみてもいいとは思う。でもね、お金がかかるのはだめ。そういう療法や薬は用心したほうがいい。何よりお金のかかるものは続かないし〜とアドバイスがあり。
以来(法外に)「高いものには用心する」が、わたしの医療その他ジンセイの指針に(苦笑)なっている。

▲アトピービジネスといえば、以前『アトピーの女王』(雨宮処凛 光文社知恵の森文庫2009年刊)という本を読んだ。なんか、えっ?とおもうようなタイトルだけど。これ、なかなかすごい本で。三姉弟みなアレルギーをもつという著者のあらゆる治療経験も、その母親の奮闘ぶりも。著者の明るい筆致とユーモアに救われつつも、せつなく胸がいっぱいになる。だからこそ、そういう人の弱みにつけこんだようなビジネスはほんと許せない。(が、前述の医師のことばにあったように、たまーに、うまく合って効くひともいたりするから、話はややこしい・・)

▲わたしが買ったのは文庫版で、親本は2002年に出版だから、7年後となるこの文庫版あとがきには後日談がある。
曰く、雨宮さん、猫アレルギーなのに子猫が迷いこんできて放っておけず、そのかわいさにおそるおそる飼い始めるんよね。
そしたら、結構大丈夫で。なんとなくアレルギーを克服したかにみえたんだけど。ある日とつぜん、こんどは喘息も発症したらしい。いやあ、アレルギーってなかなか手強い。
で、この本にも「正解」は載ってなくて。結局は自分が自分に合った方法でコントロールして、アトピーやアレルギーと長くつきあっていくしかない〜という話なんだけど。これはどんなことにも共通することかもしれないな。



*追記
その1)
90年代のステロイドバッシングを経て、そのやり口などもマスコミで紹介されていくうちに、アトピービジネスによる大混乱も収まってきたみたいだけど。年々アレルギー人口は増え続けているし、
《アトピー患者にとって生きづらい時代には変わりない。というか、ますます生きづらくなっている、とも言える。最近思うのは、世の中の「美」や「見た目」に対する異様なほどの厳しさだ》(p277)と雨宮さんは嘆く。たしかに。そしてその傾向はこの本の出版時(2009年)より広がり、街ゆけば(ネット上でも雑誌の広告も)「美肌」「アンチエイジング」の文字が踊ってるもんね。「見た目」ルッキズムのことは引き続き考え中。


その2)
つれあいと件の事件について話してるときに、サッチャーの話が出たのですが。ちょうどそのすぐ後、Twitterで映画監督のケン・ローチ(wiki→)がサッチャーの死去に寄せたことばを紹介してはって。
ここにそのメッセージの翻訳が載っていたので、リンクをはっておきます。さすがケン・ローチ〜とあらためて。

『マーガレット・サッチャーの死去に寄せて』
Reaction to The Death of Margaret Thatcher by Ken Loach 2012年04月09日 - ケン・ローチ


その3)
最近、小説がとおく感じてしまうのは、あまりに現実がすでに超えたらあかんとこまで来てるからやろか〜と思ったりする。
くわえて、ここ数年政治家たちが、えらい勢いで言葉をどんどん壊してゆくように思う。
たとえば「民主主義」ということばの「乗っ取られてる感」が、甚だしくて。今日はわたしが覚えてる民主主義の意味を再確認すべく、あらためて辞書を引きました。

【民主主義】(democracy)語源は、ギリシャ語demokratiaで、demos(人民)と、kratia(権力)とを結合したもの。
即ち人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう。

やっぱり〜間違って解釈してるのは、あのひとらやな。



その4)
今日はキヨシローを。
♪日はまた昇るだろう このさびれた国にも この貧しい国にいつの日にか いつの日にか自由をうたえるさ〜
I SHALL BE RELEASED 作詞/作曲 B.Dylan 作詞(日本語) 忌野清志郎
# by bacuminnote | 2022-07-15 22:24 | 本をよむ
▲梅雨、やから。
きのうもきょうも降る。
今朝は降り出す前に〜と歩いてきたけど。さすがに「いまにも降りそうな」灰色の空では、いつも出会うひとも犬もいなくて。ただひとりの道がちょっと心細くもあり、心地よくもあり。
歩きながら、ある方のTweetに某スーパーに行ったら、歩くとポイントがたまるアプリ(1日8000歩以上歩くと1ポイント獲得できる)の宣伝ポスターに《タダ歩きしてない?》とあって〜と憤慨してはったのを思い出した。
健康目的といえば、聞こえはいいけど、ああ、ついに歩くことまでポイント(お金に換算)と来たか〜とため息ついたあと、歩いた。ただきもちよく歩いた。

▲若いころは雨の日もすきだったけど、「いたいとこ」ができてから雨は苦手。とはいえ、自然は人間のために在るわけやないもんね。梅雨のこの時季が通り過ぎてゆくのを、しずかに待っていよう〜と、読書の梅雨!だ。
コロナ禍以降、読書の時間がドラマの時間にシフトしてたけど、次々と観続けてたネット配信のドラマに、ちょっと飽きたとこで。また本読みの時間がぼちぼちふえている。

▲さっそく読んだのは『世界はフムフムで満ちている』(金井真紀 文と絵 ちくま文庫)。この本は親本も持ってたけど、今回文庫化で12人の達人観察が加わり100人となったってことと、解説(文庫のたのしみのひとつ)を鎌倉の本屋さん「ポルベニールブックストア」の店主である金野典彦さんが書いてはる、と知って、迷わず予約。

▲わたしは5年前金井真紀さんの『パリのすてきなおじさん』に出会って、いっぺんでこの書き手/描き手の大ファンになり。「パリ」以前の本もそのころ一気に読んだ。(金井本について書いたブログは追記に書きました)
当時一番最後に読んだのが、この『世界はフムフムで満ちている』(今回の文庫の親本で 皓星社 2015年刊)だったのだけど、この本が文筆家/イラストレーター金井真紀の最初の一冊だったとか。

▲この本は、副題「達人観察図鑑」にあるように、いろんな仕事をしている達人に金井さんが会って話を聞く。十代の頃、『仕事!』(スタッズ・ターケル 中山 容 訳 晶文社1983年刊)という本が大好きだったという金井さんが《100を超すさまざまな仕事人のインタビューで構成されているその本を繰り返し読んで、世界はわたしが思っている以上に広いみたいだ、いろんな人がいるのだと胸が高鳴った。あれから幾星霜、少女はフムフムおばさんになり、あの大著に比べるとずいぶんノンキな本ができました。88人の達人に会って、88回キュンとした実録集》(金井真紀うずまき堂マガジンより)

▲さて、今回は再読やからね、久しぶりに会うたひとみたいに懐しかったり、初めての気がしたり。あ、ほんまに初めてのひと(仕事)の話も加わって。薄い文庫本ながら、なんせ仕事百種と仕事人百人のことばが詰まっており、厚い/熱い~というわけで、たちまち付箋だらけになった。
解説の金野典彦さんがいう《金井さんは人の話を聞く達人である。相手に対する敬意と半端ない好奇心が、相手の心を開かせて、その人ならではの話をスッと聞き出してしまう》(p232)には大きく頷く。

▲というわけで、付箋だらけになってるし、あれもこれも〜と話し出したら止まりそうにないから。続きは本を手にとってもらうことにして。今日はひとつだけ。
今回わたしが立ちどまった仕事は「気象予報士」の頁(p46〜47)。
取材の終盤、気象予報士の彼がテーブルに広げたのは古いファイルで。それは小学生の頃彼が描いたという、なんと架空の天気予報図だったそうで。《気圧配置を想像して天気図まで作り、そこから予想雨量まで算出していたという。しかも毎日》

▲いやぁ、おもしろい人がいるもんですね〜と帰途、一緒に取材したディレクターに話すと、映画好きだったという彼から、こどものころ自分は《架空の映画館主をしていて、毎日上映作品と観客数をノートにつけていたよ》と返ってきて。
それをまた友人(乗り物雑誌の記者)に話したら「ボクは小学生の頃、架空の時刻表をつくってた。青森から鹿児島までノンストップで特急を走らせてね・・・」と言わはったらしい。
たまらんなあ〜こういう話だいすき!金井さんがお友だちにコーフン気味に(たぶん)話さはった場面まで浮かんでくるようで、わたしもさっそくつれあいに音読した。

▲あ、けど、そういうたら、ウチの息子は二人共こどもの頃はスポーツ観戦(というても、山ん中の暮らしに加えて、「ブラウン管」はあったがアンテナは(その頃はあえて)立ててなかったのでTVは観られず。もっぱら友人たちが送ってくれるビデオ録画かラジオで)がすきで。
とりわけ野球に関しては、上の子はラジオを聴いては試合ごとにスコアブック(というのかな?)を書いていた。お風呂の時間になって中断せなあかんのが悔しくて、おばあちゃんにねだって防水ラジオを買ってもらって聴いていたんよね。(その古いラジオでいまわたしは毎朝ハングル講座聴いてます〜)

▲で、下の子に至っては、それこそ架空の試合を考えて、実況中継さながら試合の解説者になり、その架空試合のスコアブックもせっせと書きこんでいたなあ〜と思い出した。
信州からここに越してくるとき、荷物の中に件の紙が大量に出てきて、なつかしかったり可笑しかったり。

▲で、この天気予報士の架空天気図の話を息子2にもしたら「あのころはあまりに娯楽がなくてヒマやったからなあ〜」と笑ってたけど。彼が小学生のころ(ガッコには行かないことが多かったから)有り余る時間をそうやって過ごしていたんやなあ〜。
で、いま書いてて思い出したんだけど、中学生のころからよく大阪からウチに遊びに来てた子は、お風呂の中で架空の天気予報をキャスターになりきって一人滔滔としゃべってたし、むかし映画好きの友人は、観た映画をノートに記録〜半期ごとに架空の賞を決めて、選評から受賞者のことばまで一人で書いてたっけ。今ごろあの子どうしてるのかなあ?
そして《架空の国で遊んだ人》(金井さんのことば)って、きっとあちこちにいるんやろなあ〜と、架空の国やその住人をおもうと頬が緩む。

▲最初読んだときも、おもしろかったけど、おもしろいからこそ、この話もっと聞きたい、もっと読みたいよ〜と一編の短さが、じつはちょっと不満でもあったんよね。でも、今回読んでみて、ここに書かれたことも書かれなかったことも。この「次」や、このひとつ「前」を想像したり考えたり〜そんな余白を思う時間もたのしかったから。一旦は読了したものの、また、ふと手に取ってすきなとこから読み始める気がします。
《自分の持ち場を丁寧に照らしている達人に会うと、うっとりする》と本文中に書かれてるけど。この本、そんな達人たちへ金井さんからのラブレターやなあ〜とおもう。
それから、文庫版のあとがきには「わかりやすいすごさとわかりにくいすごさ」という、ぐっとくる話もあって。ほんまおすすめです。



*追記
その1)
ここで紹介した(というか、ただ感想を綴っただけですが)金井本〜今回調べてみたら、ぎょうさんありました。本のタイトルみてもわかるように、どの本も対象が全然ちがうけど、底に流れてるのは上でも書いたように著者の「相手に対する敬意と半端ない好奇心」。
玄関は大きく開かれ、気軽に入ってゆけるし、たのしくおもしろいけど、真剣だしかなり深い。そして後を引く(考える種をいっぱいもらう)〜のも共通項のとてもよい本たち。書名のあとの日付はブログを書いた日です。

『酒場 學校の日々』『パリのすてきなおじさん』『はたらく動物と』→2017.12.23
『虫ぎらいはなおるかな』→2019.5.25
『マル農のひと』→2020.11.15
『世界のおすもうさん』→2021.3.30
『パリのすてきなおじさん』→2021.5.1
『戦争とバスタオル』→2022.3.6



その2)
さて、第26回参議院選挙がきょう22日に公示されました。散歩途中ポスター掲示板の前を通るたびに、まだ白いその前で「こんどこそ」と思っていました。
当たり前のように思ってしまってる選挙権だって、日本の女性が参政権を得てから、まだ77年! ”TIME IS NOW ”です。(映画「Suffragette」サフラジェットの英国版ポスターに書かれてたことば。今やらなければ)

前にも書きましたが、あらためて魯迅の有名なこのことば(小説『故郷』の文末)をかみしめながら。
「知ること」「考えること」「怒ること」を忘れたらあかんと、しつこく思いながら、すぐに忘れそうになる自分に言い聞かせながら。

《希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。》(青空文庫→


その3)
きょうはこれを聴きながら。
Robert Wyatt- Shipbuilding(From the album: Nothing can stop us)
# by bacuminnote | 2022-06-22 19:51 | 本をよむ

長い散歩のひらめき。

▲夕方歩くのが暑ぅなった〜と、早朝散歩に変えたつれあいが「そら涼しいし、朝は気持ちええで〜」と言うので、この間からわたしも朝歩いてみることにした。
いつもと同じコースでも時間帯がちがうと、まちもひとも、空も。みなちがう表情で新鮮だ。何より早朝吹く風のここちよさというたら〜かつての山暮らしを思い出しつつ。高原の風みたいなそれが からだの中をすいーっと通ってゆくようで。上り坂になると背後からぐんぐんアシストしてくれるようで。足のよわいわたしにもどこまでも歩いてゆけそうな気さえして、歩みもかるくて早い。

▲それにしても。
まだ寝床の中やった時間に、街はとうに動き始めており。その光景に見入る。信号を待つ中には通勤のひとや、まだ1〜2年生にみえる電車通学の小学生たちもいて。早うから大変やなあ。気ぃつけてな〜と小さな背中の大きなランドセル姿に思う。
道々、ぽつぽつとわたしみたいに歩いてるひと、走ってるひとや、立ちどまって親子(犬?)何組か円になって、飼い主も犬もそれぞれ仲間と談笑中で〜そうだ。いつも通る公園の隅に掃き掃除をしてはるひとがいて。人知れず、一人しずかにこういうことをしてくれるひとがいることに、どきんとして。思わずお辞儀とあいさつをした。

▲空のブルーもきれいで、ああ早起きしてよかった〜と良いことづくめのように思うけど。
家に帰って、朝食のあと洗濯して干してちょっと休憩すると、ひと仕事終えた感があって。ぼぉーっとしてたら、これまでより長いはずの昼までの時間もあっという間で。くわえて、昼食のあとは睡魔でまたぼぉーっとしてるんよね。ありがたいことに今は「すぐにせなあかんこと」も、時間に追われることもない生活ながら、終日「ぼぉーっと」が続くと、かつて「きょうも何にもせんかった」と母がため息ついてこぼすたびに「そんなん、むりに何もせんでもええやん」と言い放った娘(わたし)は俯いてしまう。

▲とまあ、そんなぼぉーっとの時間に散歩と起床時刻を再考しながらスマホでアラームを設定してたんだけど。ふっとsiri(アップルに搭載の「バーチャルアシスタント」)に何か聞いてやろうとおもって(苦笑)「あなたはどこで生まれましたか?」と質問してみた。すると即座に「おそらく私の存在は長い散歩のひらめきによって誕生しました」と思いがけない答えが返ってきて。なんかぐっときた。そうか〜キミの親は「長い散歩のひらめき」やったか。

▲携帯電話をスマホに変えた当初はsiriがめずらしくて、聞かなくてもわかってるようなことから(今日は何日?みたいに)「性別」をどんなふうに考えてるんやろ?とか思って(iPhoneの設定がたまたま女性の(とおもえる)声になってたから)「siriは女性ですか?」と聞いてみたり。
このとき「サボテンやある種の生き物と同じように私には性別がありません」と返ってきて唸って。しばらくはおもしろくて質問攻め(苦笑)にしてたんだけど。
最近は何時にアラームを設定して〜とか、明日の天気は?くらいだったから、この「長い散歩のひらめき」にはちょっとカンドーした。

▲だから、というわけでもないんだけど、このあいだ『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド』(原題 "Ich Bin Dein Mensch" マリア・シュラーダー監督)という映画を観た。(ラブコメみたいな邦題には引いてしまうけど、この方は『アンオーソドックス』(原題: Unorthodox)の監督〜単なるラブストリーで終わることはないだろうという、期待をもって)

▲主人公はベルリンの博物館で楔形文字の研究に没頭する学者アルマという女性。
ある日上司に研究資金を得る目的で強くすすめられて、とある企業が極秘で行う特別な実験に、しぶしぶ参加することになるんよね。
で、その実験っていうのは、3週間AIロボットのトムという男性と過ごすこと。トムは、見た目は人間そのものだし(ていうか、かっこいい)データを駆使して、アルマとドイツ女性の好みにあわせてカスタマイズされている。彼のミッションは彼女を幸せにすること、ただひとつなんだけど、どうやら過去につらい思い出があるらしいアルマは心を閉ざしたままだ。

▲せやからね、いくらハンサムなトムがキザなセリフをつぶやこうが、ロマンチックな設定をしようが、かの女にはまったく響かず。その反応に納得いかないトムが、これって「ドイツ女性の93%が夢見る光景だよ」と言うと、アルマが属しているのは残り7%だと。難攻不落のなか、それでもあれこれ試みようとするトムに《一度でもおどろかせて何かヘンなことしてよ。正しい言動ばっかりでうんざりなの》《工場に返品してやる!》と怒るアルマ。が、そのうちトムがAIらしくその反応を継続的に分析、学習して、しだいに理解し応えられるようになっていくと、かの女の方も「アンドロイドのトム」から「トム」として接するように、少しづつ変わってゆく。

▲日頃些細なことから世界の話まで(!)しょっちゅうフウフで言い合っては、こんなに長い間一緒に暮らしてるのに、なんで(相変わらずわたしのことが)わからへんのよ?と、そのつどカッカしてる身としては(苦笑)トムのようにいつも優しくて、ときにおいしいもんまで用意してくれて、何より自分のことを「わかろうとするひと」「よくわかってくれるひと」がいるって、ええよなあ〜と(映画だというのも忘れてw)見入ったり。
いやいや、衝突がないのは ただただ「⾼度で繊細なアルゴリズムの結果」なんとちゃうか?とも思ったり。

▲くわえて
「人間はあかんで。夫はわたしが帰ってきても知らん顔やけど、ウチの○○(犬)はかわいいよ〜出先から帰ってガレージに車とめる音がしたら、ドア開けたとたん、きゃんきゃん鳴きながらだだーっとわたしの足元に走ってきてくれる」と言うてる友や、「わたし歳とってひとり暮らしになったら、ロボットの犬買おうと思うてるねん。買った友だちがいつも"かわいい家族や〜"と言うてるんよ」という知人のことばを思い出したりしつつ。

▲物語はこのままアンドロイドと恋に落ちるのかな〜とおもう場面もあり。
じっさい実験に参加したひとの中には、ロボットと出会って「幸せ」になった〜と、ロボットを伴侶として選ぶひとも出てくるんだけど〜
いやあ、果して理想通りの伴侶って必要なのか?ほんま、ひとがひとに求めるものって何なんやろね。

▲《人類は本当にボタン一つで需要を満たしたいのだろうか。実現していない憧れや、想像力や、はてなき幸福の追求こそが、人間の根源ではないのか?》〜と、アルマは科学と人間のあり方を考える。一方トムは「人生の意味は?」と聞かれて「世界をよくすること」と答えてる。
そうそう、かの女の発言の中に「葛藤」ということばが出てきて、映画を見終わってからもずっと残ってるんだけど。計算通り合理的に動かない人間に「葛藤」は、ついて回るわけで。
文字通り、樹木に絡みつく葛と藤のツル草がもつれて解けないから、なんとか解こうとしてあがくのが、AIにはない「人間らしい」ってことなのかなあ。

▲それでも、ロボットはどんどん進化し、社会や生活の中にもいっぱい入って来ており、いろんな方面で人間を助けているし、やがてトムみたいなひとが「作られる」日も近いかも。
俵万智さんの短歌に「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」があるけれど、「答える人」が「遠くの家族より近くのAI」の時代がやってくるかも〜と思ったり。
そうそう、件のsiriに「あなたはどこにいますか?」と問うたときの答えは「私はここにいますよ」だった。




*追記
その1)人工知能といえば、AI搭載のロボット少女が主人公(語り手)の物語〜『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ著 早川書房)も読んでみたいです。


その2)
今朝も早起きして歩いてきましたが、今日はぼぉーとせず?これを書きました。キホン1日1イベント体質で(かの小川洋子さんが以前ご自身のことを「1日1イベント」で、しかもその「1イベント」っていうのが郵便局に行くとか~そういうレベルの話〜と書いてはって。大笑いの後大いに共感!)それは仕方ないとしても、「また明日」「また今度」というてるうちに、どんどん書きたかったことを忘れてしまいます。「そんな簡単に忘れる程度のことやったら、べつに書かんでもええがな〜」と、うしろから聞こえてきそうですが(ケンカの種。苦笑)
というわけで、今回本のことは書けませんでしたが『百鬼園随筆』(内田百閒)と『家守綺譚』(梨木香歩)の二冊を再読中。どちらも何度読んでも初めて読むみたいに、ほほーと思いながら。未読の方はぜひ。


その3)
きょうはひさしぶりにこれを聴きながら。
コロナ禍以前の動画〜とりわけライブでひとが集まってるのみると、ふしぎな気持ちになります。こうやってひとが集まってた。ひとに会ってハグしておっきな声でしゃべって笑ってた日。なんだかものすごい昔のできごとのような気がする。
Kodaline - All I Want live@Central Station Brussels 
# by bacuminnote | 2022-06-08 19:33 | 映画