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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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グッド・バイ。

▲その日、枕元の時計が0時になったのを見て、ああ、今年も2月7日がやってきたなあ〜とjのことを思ってた。あれからもう(まだ)3年だ。
長いつきあいの間(いや、ほんまはもっと長く続く〜と二人共おもってた)いろんなことを話したけど、なつかしく、おかしくて、そしてちょっとせつなく思い出すのは、あほな話ミーハーな話をしては、おっきな口あけて「わははは〜」と笑ってたとこで。

▲ええ歳になっても、話し始めるとすぐに十代にもどって、はしゃいだり胸をときめかせたりしてたんよね。
それでも、根がまじめなわたしらやから(ほんま)時々は真剣に政治や社会を語り、怒り、話すうちに自分の「知らないこと」「わかってへんこと」に、それこそ十代の頃何度も言い合ったように「かしこくなりたい」と唸ってた。

▲初めて出会った18歳の春、まだ名前も言い合う前、まっさきに話したのはお互いがすきだった「描く」「書く」について。このことはその後 jが「漫画家うらたじゅん」としてデビューしたあともずっと、何度も何度も話すことになるんだけど。
何度も、といえば、かの女にはお気に入りの話がいくつかあって。「あ、またあれやな〜」と苦笑しながらくりかえされる熱弁を聞かされることになるんよね。中でも忘れられなくて、わたしもすきだった話は共通の友人(というか、彼もまたjが繋いでくれたひとり)のことばで。

▲ながく音楽を演っていた彼が曰く「いまぼくは音楽からは離れているけど、ぼくの背骨は音楽で出来ていると思う。それは小指の先っぽほどのちっぽけな、小さな骨かもしれんけど。たしかにそれは音楽で出来ていて。で、じゅんの背骨はマンガで出来ているとおもう」というもので。
この話をわたしにするとき、きまってj はちょっとお姉さんみたいな口調でこう続けるのだった。「クミ、あんたの背骨は書くことで出来てるねんで。せやからな、それ、だいじにせなあかんねんで」「せやからお互いに描く/書くことを手放したらあかんねん」と。

▲この話でおもいだすのは3年前 jのお骨上げのときのこと。
女性の職員さんが、おちついてしずかに〜まるで茶道の流れる所作のようにお骨のひとつひとつを丁寧に説明してくれるのを、みな、こどもみたいに「へぇ〜」とか「はい」とか頷きながら、その指先をじっとながめてたんだけど。
やがて順にお骨壷にお骨をおさめてゆく間に、だれに、ということなく「この方は痩せてはったんですか?」と職員さんが尋ねはったんよね。

▲みんな口々に「え?あ、はい・・」と小さく応えたんだけど。何故そんなことを言わはるのか?と、おもいきって「なんで(わかるの)ですか?」と聞くと「お骨がね、白くてかたい方はお痩せになってる方が多いんですよ」と返ってきて、一同「ほぉ〜」と改めてjのお骨をながめるのだった。

▲火葬場からの帰り乗せてもらった乗用車で、後部席ではわたしの足が痛いだろうからと広い助手席に座らせてもらい、jの夫君は後ろにお孫さんたちと座ってくれた。
が、ちいさいひとらが動きまわるので、手に持っていたお骨壷の入った袋をひっくり返しそう〜というので、わたしが預かったんだけど。ひざの上に置くや紙袋からあのこの温もりがつたわってきて、泣きそうになった。

▲そうしていつものお気に入りの話を思うのだった。
「クミ、あのなあ、Jさん(←名前が二人とも「じ」なので)が言うにはなあ〜」と細い小指を立てて話すあのこの声が耳元できこえてくるようやったから。わたしは「うんうん」と返事したあと、キミノホネハ シロクカタカッタラシイ〜とひとりごとみたいに言うた。

▲思い出は思い出を呼んで、そして、この日のこともようやく書けるかもしれないなあ〜と思いながら。しかし、どんどん目がさえてきて眠れそうになかったのに。知らんまにぐっすり寝入ったらしく。
スマホの音でびっくりして飛び起きた。6時ちょっとすぎ。目覚ましのアラームではなくそれは電話の呼び出し音だった。

▲早朝の電話で良いことなどなくて。姉から母の死のしらせだった。
朝5時の看護師さんの見回り時には亡くなっていたそうで。眠るように、というか、眠ったまま母は永久の眠りについたらしい。
高齢だし、去年暮に病室を見舞ったときの母のようすからも、いつか、こんな電話があると、覚悟はできていたはずなのに。スマホを持つ手がふるえた。

▲去年の暮、ここに「友よ、いつの日か母やわたしがそっちに行ったら、キミが道案内してや〜。たよりにしてるよ。よろしゅうたのみます」と、jに向けてのことばを書いたとこで。
まさか、こんなに早く道案内をおねがいすることになるなんて。わたしのたいせつなひとの旅立ちの日が、わたしのたいせつなひとの旅立ちの日になるなんて、ね。

▲jはいくらなんでも、なんぼおもっても早すぎたけど、母は「行年百歳」やそうで。それでもまだまだいてほしかったけど。長生きしてくれたおかげでいっぱいいっぱい話せたしね。おおきにお母さん。
「クミ、あんたがここに来るまで、おかあはんのことはまかしとき〜」と得意そうにわらうjがうかぶよ。じゅん、よろしゅうたのみます。

母眠るグッド・バイってよいことば。



*追記
その1)
母の葬儀はコロナ禍ゆえいろいろ不安なこともあったし、息子らも母とつながりのあったわたしの友だちたちも来れず「コロナさえなかったら行けたのに」と残念におもうことがいっぱいありました。何より「コロナさえなかったら」母にもっと会いに行けたわけで。
そうして、いま大変なここ大阪からの参列ゆえ、家族と話し合ってウチからはわたしが代表でお別れに行きました。

前日、棺に入れるのに、母のすきなチョコレートときんつばを買いました。それからもうひとつ、つれあいから託された煙草一本〜忘れないようにかばんに入れて。

以前ふたりで母のホームに訪ねたとき、彼が母娘のはずむ会話に気遣ってか、単に煙草が吸いたかったからか(笑)館外に「ちょっと出てくるわ」と席を立つと、母が「kさん、煙草でっか〜よろしなあ。わたしも死ぬ前にもういっぺん吸うてみたいわ」と言い出して。「ほんなら、ぼくが最後にお義母さんに煙草一本吸わせてあげますわ」と彼が応えて、三人で笑ったんよね。せやからねそんな母との「やくそく」を果たすため。
長いこと煙草から離れてた母だったけど、お母さんひさしぶりの一本入れといたからね。


その2)
お母さんを亡くした友人知人から「母親がいなくなったら、そら、さみしいもんやで〜」と何度も聞かされて。とはいえ、ウチは長生きやから〜と応えてたんだけど。別れに「もうじゅうぶん」はないんよね。父なきあと35年の間、遠く離れて暮らしていたときも、母とはずっと電話ではがきで、つながってたから。
夕方の台所で「あんたとこ今晩なに?また鍋でっか?」と言われて「あははは。ご名答!」とわらった日が、いとおしくなつかしいです。
そして、友の不在も母の不在もほんまにさみしい。

その3)
きょうは母のすきだったフォスターを聴きながら。
こどものころ夜中にトイレに起きたら母がひとり「おうせつま」でフォスターのLPを聴いてた。あのころの母は座ってごはん食べてるの見たことないくらい忙しく働いてたから。夜中に「座ってる」母の姿に、びっくりしながらもこどもながらうれしかったのを思い出します。お母さん〜ゆっくりやすんでください。
「折鶴は紙に戻りて眠りけり」( 高橋修宏)

Stephen Foster - Beautiful Dreamer 
# by bacuminnote | 2022-02-16 13:56 | yoshino
▲67年前のその日も日曜日だったらしい。
母のおなかの膨らみ具合を見て、お産婆さんを始め近所のおばちゃんらも皆声をそろえて「こんどこそ、ぼんぼんでっせ〜」と言わはったとか。その程度のことばに、すがりたいほど「ぼんぼん」が望みやったんやろか。
とにかく父も母も祖父母も従業員のひとらも、もう家じゅうが「長男」の誕生を今か今かと待つ日曜の午後だったそうで。
やがて「また、いとちゃんでしたわ〜」のお産婆さんの声に、果たしてみなさんどんな表情だったか〜記憶にないはずのそんな場面を、わたしは誕生日がくるたび映画のいち場面のように「思い出」すのだった。

▲その後小学校入学前まで「せめて〜」と男の子の格好で大きくなったことは、ここにも何度か書いたけれど。
むかしはそういうこと(反対に男の子に女の子の服を着せることも)よくあったらしいよ〜と聞かされても、気持はちっとも晴れなかったし。何より、わたしが生まれたことを、映画やドラマでみた出産シーンのように「ああ、よかった!よかった!」と全身で喜んでくれるひとは、だれもおらんかったんやろか〜と思うのだった。

▲それでもまあ「男の子のかっこう」の四女は、それゆえにか、末っ子ゆえか、ウチでも近所のひとらにも可愛がってもろて大きぃなったから。いまさらだれかを恨むきもちはないけれど。前回書いたイ・ランさんのエッセイにも出てくる「男児選好思想」を思いながら、こどもの(ひとの)性別にこだわるひとや、その考えには「大きな声でno!」と言いたいです。

▲このあいだのこと。
散歩道で、下校途中の小学生の女の子ふたりが前を歩いていたんだけど、どうやら日記の話をしていているようで。「日記って、ほんとのことかくんよね?」と聞こえて思わず笑いそうになった。というのも、わたしが女の子たちのころはガッコ用と家用の二重帳簿〜いやいや、二重日記だったことを思い出したから。
あと、なかよしの友だちと交換日記とかもしてたことあったから三重やろか?(苦笑)。ガッコに提出用以外は「ほんまのことをかく」日記だったけど、たぶん大量にあったと思われるあの日記帳はどこに行ったんかなあ〜といまは手元にないそれらの内容を想像しては赤面する。

▲こどもの頃の物もよく残していた旧友のjが(そういうたら、誕生日がきて、あのこよりもう3つも年上になってしもた)いつだか「ええもん見せたるし」と持ってきてくれた『マーガレット手帳』(1965年版)を思い出す。これ、たしか『週刊マーガレット』(集英社)に付いてるシール何枚か+いくらで買えたんや〜と思う。
この手帳がほしくて大阪と吉野に住む少女ふたり、それぞれせっせとシールとお小遣い貯めてたこと想像すると可笑しい。

▲「1月9日 わたしはとうとうこの手帳を手にいれた」と 大真面目にjはこの手帳のはじめに書きこんである。
《”じぶんだけのひみつのノートをもつ”それは、なんとすばらしいことでしょう。なんだか、ちょっと大人になったみたいで、胸がときめくかんじですね》と、漫画家・わたなべまさこさんが書いてはったのと合わせて「だいぶ大人になった」二人で大笑いしたんよね。しみじみなつかしい。

▲日記といえば、もう何年も前にwebで出会って以来ずっと楽しみにしている「フクダカヨの絵日記」というのがあって。いつだったかフクダカヨさんは高校生から毎日絵日記を描いてる〜と知ってカンドーした。
《高校一年からずっとただ絵日記を描き続けている。 同じ事をやっているだけ。でも生きていると色んなものがやって来る。ただ、それを描き写す》(youtube movie 2012.12.13 フクダカヨ より)

▲そう、そうなんよね〜毎日おなじだけど毎日ちがう、とおもう。最近わたしは足のために、ほぼ毎日歩いてるんだけど。いつも同じコースで(不調の折はショートカットで)同じ道を歩いていても、途中の風景や行き交うひとやこどもの、何かどこかちがう表情に会う〜ていうか、そういうちいさな変化に気がつく/気がつくようになったことが、たのしいし、うれしい。
はじめはイヤホンの音楽がないと物足りなかった道なのに。

▲先日『シモーヌ』という雑誌を息子2が貸してくれた。vol.5の特集【「私」と日記 生の記録を読む】は、どれもみなよかった。
小林エリカさんの「戦争と日記」は、かつて父親(精神科医・小林司氏)の80歳の誕生祝いに実家に戻ったとき、16〜17歳のときの父が書き記した日記を見つけた話。それは1945年から1946年にかけてのものであり。つまり第二次世界大戦中と敗戦後の日々の記録だったんよね。敗戦間近のこの国でお父さんは学徒動員で富山県の井波の飛行場で飛行機を作っていたそうで。日記のなかには著者の知らないお父さんの姿があって。

▲それから少しして著者は「アンネの日記」のアンネ・フランクと父親が同じ1929年生まれだと気づく。むかし、わたしも「アンネの日記」は読んだのに、それはどこか遠い国の「本の中のひと」であったのかもしれなくて。わたしの母よりまだ5歳も若い方だったのだ〜と今ごろになって知り、ズキンとした。

《ナチ・ドイツと同盟国だった大日本帝国で生きのびたひとりの少年。ユダヤ人として収容所へ送られ死んだひとりの少女。ひとりは私の愛する父で、もうひとりは私の尊敬する作家であった。
そのときはじめて私は、アンネも八〇歳になっていたかもしれないのだ、と考えた。私はおばさんに、おばあさんになったアンネの言葉を読みたかった》
(p22)

▲そうして、著者はアンネ・フランクの足取りを死から生へ向かって遡るように辿る旅に出る。父とアンネの日記を手に。そのときの旅の日記は『親愛なるキティたちへ』(リトル・モア2011年刊)という本になっているらしい。読んでみたい。

《私は今もときどき父の日記を、アンネの日記を読み返す。そこには、ある一日が書き記されていて、私はいま、ある一日を生きている》(「戦争と日記」小林エリカ p23)



*追記
その1)
この『シモーヌ』には「くらしと日記」〜「メイ・サートンのこと」(栩木玲子)や、論考「記録する術を奪い返していったおんなたち 部落女性と識字運動」(熊本理抄)も印象深く。とりわけ識字学級については以前読んだ絵本『ひらがなにっき』(若一の絵本制作実行委員会 著, 長野 ヒデ子 著 解放出版社2008年刊)を思い出して。それで調べて、お話のモデルとなった𠮷田一子さんは2019年に亡くなられたことを知りました。
もうずいぶん前のことになりますが「なまえをかいた~吉田一子・84歳~」というNHKのドキュメントを観たあとにこの本読みました。(当時ここにも書きました。2010. 2.7)
𠮷田さんの日記には学ぶことの尊さたのしさ、何より字やことばに対する愛にあふれていて。あらためて「学習権」の保障を、そして言葉をだいじにせなあかん〜と思っています。


その2)
いくつになっても「おめでとう」を言うてもらうのは、ちょっとはずかしくて いっぱいうれしいです。あったかメッセージもすてきな贈り物もぎょうさんもろて、シアワセな誕生日でした。
そして、67年前にもわたしが知らんかっただけで、こころから祝ってくれたひともいてくれたかもと思うわけで。何よりいちばん大変な思いをした母にありがとうと伝えたい。そういうたら、三人の姉たちは「いもうとのたんじょう」をどんなふうに記憶してるのかなあ。いつか聞いてみよう。


その3)
Twitter友が韓国の詩人・趙炳華(チョ・ビョンファ)の詩(茨木のり子訳)をおくってくれました。とてもよい詩なので、シェアします。長くなりますが書き写してみます。


  別れる練習をしながら  趙炳華

別れる練習をしながら 生きよう
立ち去る練習をしなから 生きよう

たがいに時間切れになるだろうから
しかし それが人生
この世に来て知らなくちゃならないのは
<立ち去ること> なんだ

なんともはやのうすら寒い闘争であったし
おのずからなる寂しい唄であったけれど

別離のだんどりを習いつつ 生きよう
さようならの方法を学びつつ 生きよう
惜別の言葉を探りつつ 生きよう

人生は 人間たちの古巣
ああ われら たがいに最後に交す
言葉を準備しつつ 生きよう
(茨木のり子『韓国現代詩選』花神社 より)



その4)
きょうはだいすきなこれを聴きながら。サウダージの意味をかみしめながら。
Pierre Barouh - Saudade
# by bacuminnote | 2022-01-31 21:36 | 本をよむ
▲布団に入ってからも寝付けぬままグズグズしてるうちに新しい年はやって来たらしく、はっと気がついたときには去年今年(こぞことし)の線をするり越えてしもたあとで。
朝はいつものようにパンと珈琲。お昼はお雑煮を〜これとご近所さんちでもらった庭の千両を活けたのだけが、2022年のわが家のお正月だったけれど。家族みな〜東京組も大阪組も、そして治療中の母も姉も友もみな。ぼちぼちゆっくり越年できたことがうれしいおおきに。

▲そして、今日はもう14日だ。「寒中見舞い」のはがきが届くいまごろになって、越年とかいうてる場合やないよね〜
この前スーパーに行ったら「恵方巻」の予約受付のポスターが何枚も貼ってあって、前を通るだけでもうおなかいっぱいな気分で。それでなくてもコロナ禍以降、時間の感覚が変なのに、こうやってどんどん季節の早送りみたいなことするの、やめてほしい。

▲ていうか、そんなに背中押してくれなくても、窓の外〜「自然」は黙々と自分の役目を果たしていて。気がつけばちゃんと「そこ」にしずかに居てくれる「季節」に、いつもどこでも身勝手な人間(のひとり)として、ほんまこころからありがとうとごめんなさい、のきもちでいっぱいだ。

▲このところ洗濯物を干したあと日課のように見上げる梅の木の蕾〜すこしづつ膨らんで。冬空に春の兆しの紅い粒は「咲くことは笑ふことにて福寿草」(鷹羽狩行)の俳句みたく、ちいさくほほえんでいるようで、かいらしく、いとおしい。
花が咲くのは「やむにやまれなくなって蕾を破る」と、どこかで読んで、以来 蕾を見るとそのちいさな器の中で日々溜めているエナジーを想像し、じいっと見入るようになった。

▲さて、今年いちばんに出かけたのは整形外科医院だった(かなし)。
新年初の開院日はいつも決まって混んでいるのに、早く出たのがよかったのか、その日は思いの外空いていて助かった。元日から久々の痛みでけっこう凹んでたんだけど、施術のおかげでずいぶん楽になり、帰る時分には空もきもちも晴れて、こんな日の寄り道はやっぱり本屋さんだ。

▲こどもの頃はお正月休みがあけると、待ってましたとばかりに本屋さんにお年玉の袋にぎって出かけたもんだった。つい数日前の「去年」にも来たはずなのに、新年の店内は何かどこか清々しくて、それに「今日はお金もちやし、買いますからね〜」の気分が反映するのか(笑)堂々と立ち読みもして本をえらび長居したんよね。そうして翌日は電車に乗って3つ駅むこうの街の本屋さんまで遠征〜がわたしの恒例の迎春行事だった。

▲田舎の小学生やから、電車に乗ることも、何より一人で出かけることにも、まだ不安もあって、いつも行きはドキドキ落ち着かなかった。
中学生になると、本屋の隣の時計屋さんで深夜ラジオで知った洋楽のレコードも買った。まだLPは買えずドーナツ盤。ほしかった本とレコードを手に、帰りの電車の中のまんぞく感はいまでもはっきり思い出すことができる。
生家の近くの本屋さんはもうとうに店じまいしはったけど、隣町の本屋さんと時計屋さんはいまも健在のようで、さっきストリートビューで見て、むかしと変わらない店先の写真に、思春期の入り口で足踏みしてたころの自分が写ってる気がして、ちょっと泣きそうになった。

▲《本屋は友人であり、家族である》という書き出しで始まるその名も『本屋図鑑』(夏葉社2013年刊)という全国の本屋めぐりのたのしい本がある。
《基本的ルールは二つ。四七都道府県、すべての県の本屋さんを紹介すること。もう一つは「図鑑」と銘打っているのだから、いろんなタイプの本屋さんを紹介するということ。(洗練された本屋さんも好きですが、同じくらい、そうではない昔ながらの本屋さんが好きです。もちろん、大きな本屋さんも大好きです)》(「はじめに」島田潤一郎 より)と、最初からストレートな「本屋愛」が伝わる夏葉社らしい本だ。
買ってからだいぶたつけど、いつまでも「読了」感がないのは、タイトル通り「図鑑」ゆえ、何かのおりに思い出してはパラパラ見て、行ったことのない町のごくふつーの・・かつてわたしが通ったような店先の雑誌のラックやそれに店内のレジ台や棚の絵に、ほっとする。

▲そう、この本、写真やなくてぜんぶ得地直美さんによる緻密な絵(イラスト)なんよね。色がついてるのは表紙カバーの大分・佐伯市の「根木青紅堂書店」だけ(この本屋さんのことは2015.2.15ブログにも書きました。→)で、ほかはみなモノクロ。
ときたま描かれる町ゆくひとや立ち読みのひと。それに駅前やったり商店街やったり、美術館や病院内の(これ、いいなあ!)あと、人里離れた山の中にあるお店まで〜。

▲その緻密さに棚の本のタイトルを追ってしまったり。それぞれのお店の周囲の音や空気、においまでも立ち上がってくるようで。色がない分、脳内でイメージはどんどんふくらむ。
けど、いったん本を閉じるとしばらくは忘れてしまって(すまん)あるとき、ふとまた初めてのきぶんで本を開いて。あ、こんど遠出したら寄ってみようかな〜とか夢想してる。(せやから、早うコロナの嵐よ、去ってくれ!)
こういうかんじ、なんかええなあとおもう。ええ本やなあ〜とおもいます。

▲新年初の本屋さんでは『なごみ』(淡交社)という雑誌の1月号を買った。淡交社の本を買うのは、若いときにお茶を習いに(ちょっとだけ)行ってたころ以来やとおもう。わたしにとって、淡交社といえば茶道の専門書〜というイメージが強く敷居が高くて、ほんま言うと立ち読みするつもりだったんだけど(すまん)。手にした『なごみ』はベースは茶道だけど、わたしが思ってたよりうんと身近で、目的の記事以外にもおもしろい記事がいくつもあった。

▲いちばんの目当ては、木ノ下裕一さん(木ノ下歌舞伎主宰)による連載【物語の生まれる場所へ「生まれ直す場所」――『義経千本桜』[前編]】。そう故郷吉野のことを旧知の木ノ下さんが書いてはる〜と聞いてたから。この連載、手にとったら8頁の長文で、木ノ下さんらしい丁寧な文章(毎日新聞連載『古典・街あるき』のファンです)やなつかしい吉野の川と山の写真に〜しかもわたしを待ってたかのように?棚に一冊こっちを見てはったのも「ようこそ」と言うてもろてるようで(おおげさ)家に帰ってからゆっくり読んだ。

▲もう長いこと「帰って」いない吉野〜そこにはわたしが知らなかった、知ろうとしなかった吉野の歴史が綴られていて、自分の歴史の基礎知識のあまりにお粗末なのには今更ながら呆れるし恥しいけれど、所々によく知ってる地名がでてきて「ああ、あそこの」と暗い道に灯りがともった気持になって読んだ。
筆者の木ノ下さん、今回初めての吉野行きだったらしく、ふと吉野産のわたしのことを思い出してくれたそうで。「あんなところに育ったら、僕、一生吉野から出ないんやないかと思うくらい聖地でした」とのこと。そうか〜吉野気にいらはったんや。うれしいなあ。うれしいけど。〜つい「けど」がついてしまうんよね。

▲以前『丹生都比売』(梨木香歩)が出たときも、すきな梨木作品だというのにすぐに手が伸びなかったのは、吉野が舞台の物語だったから。
吉野というと、この本の背景にある「壬申の乱」のように「皇位継承」にまつわる争いの話がよく出てくるのが、にがてやったから〜なんだけど。数年後『丹生都比売 梨木香歩作品集』(新潮社2014年刊)となって出たときにようやっと読んで。
自分にとって何かと「出会う」旬を感じたんだけど。(この本のことは2015.3.12ブログに書きました)地元(故郷)というのは、どこか肉親に似て。《肉親は知らなくてもいい事を知ってしまう集団なのだ。》(『シズコさん』佐野洋子)みたく。褒められても貶されても、どっちにしてもなんだかいつも居心地が悪くて、つい目をそらしてしまい、見逃していることもけっこうあって。そして、ある日それに気がつき始めるんよね。

▲この『なごみ』には、思いがけずその梨木香歩さんが「野山花花雑録」というエッセイ第一回で「ヤブツバキ」について書いてはったり、「東京の茶の湯菓子」第一話「みのわ」というお菓子屋さんを訪ねる〜という(職人さんの登場する話はだいすき)おいしそうで!とても興味深い記事を渡辺尚子さんが〜と、新年初の本屋さんでのよい出会いにまんぞくしてるところ。次号もたのしみです。



*その1)
今月は整外科に行くたび、つい本屋さんに寄ってしまい、いろいろ買ってしまったから、今月はもうこれでおしまい〜と自分に言い聞かせています。こどものときみたいに「お年玉成金」はないもんね(苦笑)そのかわり、こどものときみたいに「○冊まで」と親に怒られることもないのはありがたい。

『文藝 2022年春季号』は特集「母の娘」〜イ・ランさんのエッセイ「母と娘たちの狂女の歴史」(斎藤真理子訳)を立ち読みのつもりで(←こんなんばっかりですが・・)最初に開いたら《お母さんは私を、自分の感情を捨てるゴミ箱として使う》から始まる文章にドキドキしながらレジにむかいました。
家に帰ってすぐに読んで、しばらく立ち上がれなかったし、今もまだことばにできない塊が胸のなかにあります。
先日このことをTweetしたら、ものすごい勢いでRTといいねが増え続けてとまどったのですが。あらためて母との関係でしんどい思いしてる(してきた)娘って、たくさんいるのだ〜と痛感しました。そして、わたしも母の娘。

イ・ランさんのエッセイは母と娘の関係の、その元になるものを母親から「聞いて」「書く」〜それはもしかしたら「ゴミ箱」である以上に重くしんどいことかもしれないと思いました。

《家父長制と男児選好思想に染まった大家族の家に生まれた母キム・ギョンヒョンの「狂女の人生」は、お母さんのせいではない。お母さんのせいではないが、お母さんが狂女になるしかなかったその残酷なくびきの中で、私もまた狂女に育った。それでも私は、自分の物語を世の中に差し出せる狂女でよかった。だけど、私だけではなく、お母さんの狂女の歴史もとても重要だから、広く世に知らせたい 》(p166)


その2)
『書痴まんが』(山田英生編 ちくま文庫2022年刊)は本や本屋をテーマにしたアンソロジーで、1.愛書狂 2.本が運ぶ 3.奇書と事件 4.漫画愛〜の章立て。そして、2「本が運ぶ」の冒頭はうらたじゅん「新宿泥棒神田日記」が収録されていて(扉絵もうらたじゅん)〜目当てはうらたじゅんだったのですが、他の作品もみなええ感じで〜。くわえて、じゅんの漫画も既読ながら、そんな中で出会うのはまたちがったたのしさがあり。「アンソロジー」のおもしろさを味わう一冊となりました。ああ、あのこに届けたい〜とおもいました。

前述の木ノ下裕一さんもこの本、読まはったそうで《うらたさんはじめ、なかなかいい作品揃いで、本好きにはたまらない感じになっています》と。うらた作品との再会も《単行本で、既に読んだことのある作品なのですが、とても新鮮に読めて、うらたさんは、作品を通してまだ生きておられるのだなぁ》と書いてきてくれはって。落涙。


その3)
そしてきょうはこれを聴きながら。윤슬(ユンスル)というのは、韓国語でさざ波の表面に太陽や月の光が反射してキラキラする光の波のこと、やそうです。きれいなことば。ああ、川とユンスル、見に行きたいなあ。
折坂悠太 - 윤슬(ユンスル) feat. イ・ラン(Official Visualizer) 
# by bacuminnote | 2022-01-14 21:24 | yoshino

あんたも歳とったなあ。

▲毎月言うてる気がするけれど、ほんま今月の早さは「センセ」の駆け足どころか〜ジェットコースター並みとおもう。上昇と降下をくりかえしたあと、いまは一昔前に流行ったあのパタパタと数字が変わってゆく時計のように、ぱたぱたと2021年がしらんかおして暮れてゆく。(いま調べてみたらあの時計、その名も「パタパタ時計」と呼ぶそうで。笑う。)

▲そうして、スーパーもデパ地下も例年はクリスマスが終わってから迎春商戦にスイッチしてたのが、今年はコロナ禍の波が小さいうち、いまのうちの集客を〜と目論んだか、すでにクリスマスの前から品揃えも価格も!迎春特別モードに入っており・・・参った。売上の落ち込みや、それに伴う人件費削減など、その裏にある問題が頭をよぎるけど。結局いろんなことのしわ寄せは 全部弱いもの、持たざるものに来てるんちゃうん?と。一番問題なのは「持てる者ら」が動かしている政治〜と、わたしでもわかる。

▲この間ものすごく久しぶりに遠出した。思い起こせば、地下鉄に乗るのも電車に乗るのも2年近くぶりであり。
つまり母に会うのもそれくらいぶりであり。コロナ禍以前は乗換の大きな駅で、特急電車の中でわたしが食べる軽食や母のすきなもの買ったりして〜ちょっとした遠足気分だったけど。今回は家を出るときに早目のお昼ごはんをかけこんで来て、電車も区間急行にして、もう一回乗り換えて、ホームではなく入院中の病院まで。いつもの癖で遠出の日の必携本も、何度か、何度も、開くものの、すぐまた閉じて結局膝の上に置いたままだった。

▲その病院にはやっぱり母を見舞うのに以前行ったことがある。が、その2回とも同行者にしっかり頼り切ってたから。ハンパない方向音痴のわたしは、改札を出るとき病院までの道を駅員さんに確かめるつもりだったんよね。
ところが、最近の駅には駅員さんがほんまに少なくなっていて、この駅にも見渡したところだれもいなくて。しかも出口は二つあり、さてどっちから出るのがよいか?

▲「しぐるるや駅に西口東口」(安住敦)である〜いや、俳句思い出してる場合やないが、この日はぽかぽか陽気だったから「心身とも」に助かった。
なんというても、あまりに遠出が久しぶりなもんで、スマホの地図アプリの見方も忘れてしまっており、「よし!」と勘を働かせて出てみたものの、果たしてそこは見たこともない場所だった。
えらいことした〜と思ったものの、改札口に戻るには今しがたようやっと上がってきた階段を、降りることになるわけで(以前に比べたらだいぶよくなってるけど、階段はいまも昇降ともに膝に堪えるから苦手です)。

▲で、ちょうど前を通った女子高生二人に「すんませーん。○○病院って知ってはります?」と尋ねたら、二人とも首を振るや「え〜っと調べてみますね〜」と即リュックからスマホを出してくれた。この「間髪を入れない」!スマートな立ちふるまい〜いやあ若いひと、やさしくてかっこええなあ(わたしも道たずねられたら、こうありたい)。で、あわてて握りしめていたわたしのスマホ(目的地の地図を出すとこまではやっていた)を見てもらう。
「ああ、ここ。わかりました。この道をまっすぐ行って左に曲がってみてください〜」と教えてくれた。おおきに、ありがとう〜なんべんもおじぎして、いっぺんに元気もりかえし(単純)知らないまちをさっさか歩く。

▲ところが、少し行くと前方にある地名の書いた看板が、どうも病院とはちがう方角の気がして(一応、元奈良県人やから地名にはおぼえがある)歩行者に聞くも「知りません」の返事。次に買い物帰り風の自転車の女性に聞いたら「あかん、あかん。○○病院やったらこっち歩いてたら反対方向やわ。ほらあっちに向いてまっすぐ行って・・それから・・」という返事。まいった。でも地図アプリより地元の「病院に行ったことある」おばちゃんの方が確かかもしれんし(苦笑)と、回れ右して「ふりだしに戻る」の巻。

▲そんなこんなで、病院HPの「アクセス」にあった「駅より徒歩7分」の道を行きつ戻りつ、病院入り口まで(これがまた現在一部工事中のため、ややこしかった)7人もの方に聞いてぶじ?病院に。めちゃ余裕もってたてた計画だったのに、面会予約時刻きりきりセーフの到着と相成った。
まあ、ここから病棟と受付の連絡ミスもあったりで、ようやっと母の病室の前に立ったときには、ぐったりしてたんだけど。
案内されたベッドに寝てるひとが一瞬マイ・マザーとは思えず。お母さん、どないしたん?病人みたいやん。という思いをぐっと飲み込んだ。

▲転倒で入院したとき、見舞ってくれた甥とのツーショットを見たのは、ついこの間のことで。わずか一ヶ月ほどの間の変化に(いや、実際に会うのは2年近くぶりなのであって・・)胸がいっぱいになった。それでも、マスクの「わたし」も、わたしとわかってくれて。まっすぐ視線をむけてくるのは、いつもと変わりないしっかり者のお母さんであり。わたしはとたんにおしゃべりの末娘となる。

▲姉1から聞いていたように、母は夢の中にいるかと思ったら、ピタリ焦点が合うて「リアルな世界」にすいーっと降りて来る。わたしの家族の話にもびっくりするほど、かくじつに「反応」しており、つれあいや息子らにその様子をつたえたいほどだった。
そして「仕事せなあかんのに。こんな、寝てばっかりいてたらあかんのになあ・・」と小さくため息をつく。「お母さんはもう十分すぎるほど働いてきたんやから、ゆっくりしぃや」と、この母の子とは思えんなまけものの娘が言うけど。なっとくできない、というふうに母は頭を振るのであった。

▲そういうたら、お母さん〜わたしがこどもだった頃、ちょうど今時分はお節料理の準備にてんてこ舞いやったよね。例年お得意さんからの予約のお重がいくつもあって、大晦日のその日に作るものも、前もって下拵えしておくもの、卸売市場への買い出し・・と「ああ、もうせんならんことが、次から次に浮かんでくる」と、ため息ついてた姿を思い出す。
「早う寝なさい」と言われてもいつまでも起きてるこどもらに「ああ、わたしもいっぺん”早う寝なさい”と言われてみたいわ」とこぼしてた母なのに。せつない。

▲大晦日の夜、ようやっとお重ができて、父や板場さんやぼんさんがそれぞれに配達に出ると、母は住み込みのおばちゃんと一緒に調理場の片付けして。寒いなか戸を開け放し土間に水を流してた。
こどもらはおこたの部屋でほっぺた真っ赤にしてみかん食べながら「お母ちゃん、早う。早う来て。紅白歌合戦終わってしまうで〜」とのんきに呼びかけてたんよね。
(そのむかしの大晦日のことはここにも書きました。2006.12.28「千両一枝買ってみた」→

▲そうだ。昔話もしていたいけど、会ったら伝えようと思ってたこと〜母の手芸(刺繍やぬいぐるみ)の写真をsnsにアップしたら知ってるひとも知らないひとも、たくさんの方が「いいね」してくれはったことを、スマホで写真をみせて話すと「おぼえてる。おぼえてる」と画面に顔近づけてうれしそうに頷いて。
以前からネットでひとが繋がる〜ということを「そうか〜外国のひとでも遠いとこのひとでも見てはるんや」と好奇心旺盛の母がきっとよろこぶだろうと思ってたから。伝えられてよかった。

▲帰り際「お母さん、わたしも来月はもう67になるんよ」というと「へえ〜そうでっか。あんたも歳とったなあ」と98歳の大先輩に言われて苦笑〜いろいろ言いたいこともあったけどのみこんで、一言「ほな、またな」と手を振る。「ほな、ちょっと休ませてもらいますわ」とベッドの母の細い手が少しあがった。

▲帰りは受付で入館証を返して、来たときとちがう正面玄関から。(つまり来たときとはちがう道)受付の男性職員さんに駅までの道を聞いたら「自分は電車に乗らないからよく知らないのですが、その国道をまっすぐ行ったら駅だと思います」と、ちょっと自信なげに答えてくれて。玄関出たものの、しばし突っ立てたら、その職員さんが走ってきはって(気になって、他のスタッフに聞いて来てくれたらしく)案内してくれはって。ぶじ(ほんまは帰途もうひとりに尋ねた!)駅に到着。

▲なき友 jにはよく「クミはほんまどこに行くのも一大冒険やなあ」と笑われてた。
jの個展のときも、かの女のブログに「方向音痴のひとのために」と、道中数ポイント写真入りの丁寧な道案内を書いてくれたっけ。せやからね〜この日のことも、遠いとこから呆れて見てたかもしれへんな〜「ほんまクミらしいわ」と笑う声が聞こえてくるようだ。

▲3年前の12月のこと。
jの通う病院の待合室で母へのはがきを二人で書いたんよね。jは(たぶん、あの日もしんどかったはずなのに)絵がすきでならないこどものように「まずは雪だるまを描いて、ほんで次は・・」とか、ひとりごとを言いながら、それはたのしそうにスノウマンとトナカイと女の子の絵を描いてくれたんよね。
まだ母が自宅にいるときも、ホームに入居してからも、ときおりたよりを出してくれた jのそれは最後のはがきになったのだけど。
友よ、いつの日か母やわたしがそっちに行ったら(母娘とも方向音痴やから)キミが道案内してや〜。たよりにしてるよ。よろしゅうたのみます。



*追記
その1)
この日は久しぶりの母に会えるよろこびと心細さを抱えての遠出でした。元々の出不精にくわえてこの2年はコロナ禍で籠もっており(出かけなくても済む、というのは喜ぶべきことと思いますが)道に迷ったことや、駅の階段の昇降にもくたびれ(慣れた駅だったら、エスカレーターやエレベーターの位置など把握できてるけれど、めったに行かないところではわからず)、くわえて空腹のあまり駅に着くなりたこやき購入!(←残念ながら足腰の痛さに、急遽リハビリ科に寄って施術を受けたから、食べたのは帰宅後であった)

そうそう帰宅途中ポストの前で立ち止まって。いつもこのポストに母宛てのはがきを投函しに来てた。もうおしまいかなあ〜とおもうとすこしさみしい。
むかし入院中の父やjに宛てて毎日はがきを出していたこともあったけど。まだ携帯やスマホのなかった頃〜看護師さんや看護師長さんがベッドまで毎日届けてくれたそうで。今はもうそういうことも叶わず〜便利なものが出てきて、なくなってゆくものもあり〜時代、やね。


その2)
今年最後のブログになりました。
最近は本もあまり読めてないし、読んでもあれこれ考えるばかりで、文章にできなかったり〜では日々わたしは何をしているんやろ?と、それこそ働き者の母が元気やったら、活を入れられそうな毎日ですが。はああ。
コロナ禍のせいにするまでもなく、わたしもこのブログもかわりばえのしないこと甚だしく。それでも数えてみればブログをはじめて18年、その前のHPや紙の通信から数えたら30年以上になりました。ひぇー。飽き性かと思ったら案外しつこいのかも(笑)
回り道寄り道ばかりのこんなブログを読んでくれはって、ほんまおおきに〜うれしいです。
今年も一年ありがとうございました。

ああ、それにしても。
はやく、目の前の濃い霧が晴れてほしい。安心してだいじなひとたちに会い、ハグして、しゃべって、食べてのんで、おっきな口あけて、わははは〜と笑いたい。そんな日が早くきますように。そして弱いものが「なかったこと」にされない社会に〜とつよく願いながら。
年の暮れにいつも思うことひとつ〜来年こそ来年こそよい年になりますように。


その3)
きょうはこれを聴きながら。たぶん前にも貼ったことあるけど、歳とったときのレナード・コーエンのうた。
しみます。
Leonard Cohen - Hallelujah (Live In London) 
# by bacuminnote | 2021-12-30 11:18 | 出かける

みんなもってる。

▲お昼ごはんを食べた後、まんぷくと暖房でちょっとぼんやり(うとうと!)してたら、あっという間に日が陰り始めており。あわてて庭に出たら、乾いてたはずの洗濯物がしゅんと冷たく湿気ってた。
しらんまに日は短くなり、朝晩の冷えにストーブをつけてる時間も長くなって。ああ、そら、もう12月も半分以上すぎたもんなあ。てことは「来年」もすぐそばまで来てるんや〜と薄い灰色の空見上げてためいきひとつ。

▲暗くなるのも早うなったから、膝痛のエクセサイズのために歩き始めた当初は、夕飯後のほろ酔い散歩だったのが、そのうち夕食前になり、いまでは3時前には早々と家を出てる。
ちょっと時間帯が変わるだけで、冬の空も街もひとも、色も空気も聞こえてくる音もちがっており、そんなちいさな変化もおもしろくて、いつのまにか足のための時間は、毎日のたのしみの時間になりつつある。

▲そんなわけで、この間までは中高生の下校時と重なることが多かったんだけど、いまは小学生の低学年のこどもらが、串団子のようにくっついては、ぞろぞろ前をゆく。かと思ったら、突然わあ〜っと大声上げておっきなランドセルを揺らして走り出したりする〜時間帯である。
この子らのわけわからん こどもパワーは、そばを通るだけでも元気の粉ふりかけられたような気がして。まぶしくうれしく、そしてやかましく。時にその粉にむせたりして(苦笑)なかなかの時間だ。

▲そういえば、おなじ時間帯に別コースを歩いてるつれあいが「今日はものすご寒かったのに、自転車の前に乗ってるちいさい子が向かい風で冷たいやろうに、すやすや眠ってるねん。なんか生命力感じたわ」としみじみ言うて。うんうん〜と頷きながら聞くわたしも、二人とも、ちいさいひとらを見る視線がすっかり「老人」やなあ〜とおかしかった。
前回書いた『遠慮深いうたた寝』(小川洋子)の中《幸福な子どもがすぐそばにいるだけで、幸福を分けてもらえる。自分以外のだれかのために祈りたい気持ちになれる》(p84)をふっと思い出す。

▲この間は小学1〜2年の男子ふたりが前を歩いてて。背の高いほうの子が「そりゃね、うまくいかないこともあるよ」と慰めてる風で。ほほぉ〜と聞くともなしに聞いてたら「ぼくの弟なんかさ、前は大成功ばっかりだったのに、この頃失敗が続いてるんだよ」〜と言うてて、通りすがりのおば(あ)ちゃんはちょっと笑いそうになったんだけど(ごめん!)、その大真面目な言い方と弟君の大成功って?と「つづき」が気になりつつも、追い越して歩いた。

▲そうそう、この子らだけやなくて、散歩道で出会うこどもらが喋ってるのが大阪弁やないんよね。一瞬「ここはどこ?」と思うくらい、そのアクセントに「関西」は不在なのであって。もともと転勤族の多い街やから、あの子らのママやパパもこんな感じでお家で東京風にしゃべってはるんやろなあ〜と何棟もつらなるマンションを見上げながら、大阪やのに大阪っぽくない街を歩く。

▲いつだったかは、小学3年生くらいの女の子ふたりが前を歩いてたんだけど(下校はなぜか二人組か五人組というのが多い)おっ!と思ったのはふたりともランドセルではなくリュックを背負っていたからで。
持っていたのはたぶん有名なアウトドアのブランド品とかじゃなく、ふつーに売ってるリュックで。ひとりは紺色、ひとりがベージュ〜どちらもよく似合ってて、それにかっこよかった。

▲服も靴も髪型も各自すきな格好(本人がすきかどうかはわからないけど)してるのに、公立校で決まりでもないランドセルがなんでこんなにも長く熱く支持され続けてるんやろ〜とは常々思ってることなんだけど、たぶんガッコでは少数派であろうふたりのその軽快な背中!を、少しの間うれしく眺めていた。

▲女子は赤、男子は黒のランドセル〜というわたしのこども時代みたいなことがなくなって久しくて。性別など関係なく、ランドセルにいろんな色が登場したのは大きく一歩前進〜と思うけれど。
相変わらず重たく、値段も高くて、1年〜6年までの間ほぼその身に沿わない大きすぎる/小さすぎること、くわえて「ラン活」なるものの話やそのフィーバーぶり(←古い?)を見聞きしたりすると、せっかく一歩進んだのに二歩下がってるやん〜とおもう。

▲いまネットで見たら《通常の予約は7月から9月ごろ》《6月ごろから秋にかけてランドセルの販売数がピーク》《 人気モデルは毎年予約件数が多く秋にはほぼ完売》とか書いてたけれど。
売らんかな〜の大波小波にのまれず、「みんな持ってるから」に惑わされず、こどものきもちや体に合った通学カバン選びを〜と思う。

▲けど、校則や決まりごとには「それはおかしい!」と、こども自身や、こどもが年齢的に無理なら親が声を上げて「改革」を求めることができるけど、基本的には個人の自由なのに慣習的に「みんながやっていること」から離れるのは勇気がいることかもしれない。

▲とりわけ親は不要と思っているのに、こどもが欲しがるとき〜「学校」を背景に親がこどもから言われる「みんな持ってる」「みんなしてる」はじつに悩ましいことばであり。
かつてウチでも身近なところでは習字セットに絵の具セットに裁縫セット〜の教材の問題、宿題や成績表のことから「学校」に行く/行かない、「国旗掲揚」「国歌斉唱」まで〜。

▲そのつど何度も話し合っては、考え、言い合いになって。途中こどもが泣き出して、終いにはおかあちゃん(わたし)も泣いてしまって中断。そしてまた振り出しにもどってリ・スタート(苦笑)。
それでも「おかしい」「わからない」と思うことは黙ってないで声にだすこと、考えて、話し合うことの大切さをこどもらには伝えてきたつもり。

▲ただ、今になって思えば、わたしたち親の「伝え方」も若さゆえ未熟で荒っぽかったかもしれず、たぶん子らはつらい思いをしたこともあったはずで(ごめん!)二人共「めんどくさい」親だった〜とおもうけど。家を出た後もよい大人たちやよき友人たちに出会った彼らの中に、「考える」も「声にだす」も根付いていることを何かのたびに感じて、うれしい。

▲ ずいぶん前に読んだ『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(梨木香歩著/ 理論社2011年刊)にあった《大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。自分基準で「自分」をつくっていくんだ。他人の「普通」は、そこには関係ない》の「普通」を、こどもだけやなく、わたし自身の周りにも埋め尽くされ、すきを狙っては迫ってくる数々の「普通」を考える。 

▲そうそう、いっとき(今も?)ガッコや教育機関で、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」の詩から「みんなちがって、みんないい」の一節を引用しての挨拶や文章を、うんざりするほど見聞きしたものだけど。
規範を設け競争すること、それに勝つことを求めながら、一方で「みんなちがって、みんないい」を安直に引用して(遠いとこから金子みすゞさんも怒ってはると思う)聞かされたこどもらは混乱するよね。「個性を大切に」と言いながら「みんなと同じ」を求める人たち。

▲こんなふうに、上っ面、形だけ、格好だけのことばを使う人ら(・・と書きながらぱっと浮ぶのはこのくにの政治家たち)のせいで、どんどん言葉が空疎になり、その言葉が本来もつ力が失われてゆくのは、腹立たしさをこえて怖い。
じっさい「丁寧に説明」という言葉の、「真摯に向き合う」という言葉の、いま何と虚ろに響くことか〜改めて、言葉を大切にするのは「考える」ことを怠らないことだと思う。

《どうか、一つひとつの言葉を蔑ろにせず、大切にしてください》(p18)《自分の気持にふさわしい言葉を、丁寧に選ぶという作業は、地味でパッとしないことですが、それを続けることによってしか、もう、私たちの母語の大地を再び豊かにする道はないようです》(p19)『ほんとうのリーダーのみつけかた』(梨木香歩著 岩波書店2020年刊)より抜粋



*追記
その1)
今日引用した2冊の本のことは以前もここに書きました。『僕は、そして僕たちはどう生きるか』は2012.12.24「てばなさない」に
『ほんとうのリーダーのみつけかた』は2020.07.20「ほな、また」に。


その2)
いま『小鳥たち マトゥーテ短編選』(アナ・マリア・マトゥーテ 宇野和美訳 東宣出版2021年刊)を読んでいます。スペインの作家による短編21篇がおさめられたこの本は、タイトルといい、本のサイズといい(四六判変形というらしい。文庫本を一回り大きくしたような)小さくて、こどもも出てきてほのぼの物語か〜と思いきや・・
ひとの死がすぐそばにあったりするのに、どこか寓話のようなあかるさもあって。ほんの数ページなのに時に重厚なので、一篇一篇ゆっくり読んでいます。
わたしはどれも書き出しが〜これから始まる細いけど深いところまで灯りのとどく、ときどき不穏で幸福な物語をおもわせてるそれがすきです。

「訳者あとがき」にあった著者の少女時代の話にはふかく頷きました。まだたった数篇読んだきりだけど「そんな気がしてた」から。
マトゥーテ(1925-2014)はバルセロナの中流家庭で五人兄弟の二番目として、生まれたが体が弱く、発災のときにスペイン北部の村にある母方の祖父宅に預けられたそうで。

《もともとぼんやりしていて、兄弟の中ではみそっかす、学校にもなじめない孤独な子どもだったとマトゥーテは回想している。
だが、誰にもまともに相手にされない内省的な少女は、人に気づかれない場所で周囲の大人のやりとりに耳を傾け、研ぎ澄まされた完成と深い洞察力でまわりの世界を観察していた》(p251)


その3)
今日はこれを聴きながら。
No Sleep, Walk-Surface of Atlantic 
# by bacuminnote | 2021-12-18 15:07 | 本をよむ