長いつきあいの間(いや、ほんまはもっと長く続く〜と二人共おもってた)いろんなことを話したけど、なつかしく、おかしくて、そしてちょっとせつなく思い出すのは、あほな話ミーハーな話をしては、おっきな口あけて「わははは〜」と笑ってたとこで。
▲ええ歳になっても、話し始めるとすぐに十代にもどって、はしゃいだり胸をときめかせたりしてたんよね。
それでも、根がまじめなわたしらやから(ほんま)時々は真剣に政治や社会を語り、怒り、話すうちに自分の「知らないこと」「わかってへんこと」に、それこそ十代の頃何度も言い合ったように「かしこくなりたい」と唸ってた。
▲初めて出会った18歳の春、まだ名前も言い合う前、まっさきに話したのはお互いがすきだった「描く」「書く」について。このことはその後 jが「漫画家うらたじゅん」としてデビューしたあともずっと、何度も何度も話すことになるんだけど。
何度も、といえば、かの女にはお気に入りの話がいくつかあって。「あ、またあれやな〜」と苦笑しながらくりかえされる熱弁を聞かされることになるんよね。中でも忘れられなくて、わたしもすきだった話は共通の友人(というか、彼もまたjが繋いでくれたひとり)のことばで。
▲ながく音楽を演っていた彼が曰く「いまぼくは音楽からは離れているけど、ぼくの背骨は音楽で出来ていると思う。それは小指の先っぽほどのちっぽけな、小さな骨かもしれんけど。たしかにそれは音楽で出来ていて。で、じゅんの背骨はマンガで出来ているとおもう」というもので。
この話をわたしにするとき、きまってj はちょっとお姉さんみたいな口調でこう続けるのだった。「クミ、あんたの背骨は書くことで出来てるねんで。せやからな、それ、だいじにせなあかんねんで」「せやからお互いに描く/書くことを手放したらあかんねん」と。
▲この話でおもいだすのは3年前 jのお骨上げのときのこと。
女性の職員さんが、おちついてしずかに〜まるで茶道の流れる所作のようにお骨のひとつひとつを丁寧に説明してくれるのを、みな、こどもみたいに「へぇ〜」とか「はい」とか頷きながら、その指先をじっとながめてたんだけど。
やがて順にお骨壷にお骨をおさめてゆく間に、だれに、ということなく「この方は痩せてはったんですか?」と職員さんが尋ねはったんよね。
▲みんな口々に「え?あ、はい・・」と小さく応えたんだけど。何故そんなことを言わはるのか?と、おもいきって「なんで(わかるの)ですか?」と聞くと「お骨がね、白くてかたい方はお痩せになってる方が多いんですよ」と返ってきて、一同「ほぉ〜」と改めてjのお骨をながめるのだった。
▲火葬場からの帰り乗せてもらった乗用車で、後部席ではわたしの足が痛いだろうからと広い助手席に座らせてもらい、jの夫君は後ろにお孫さんたちと座ってくれた。
が、ちいさいひとらが動きまわるので、手に持っていたお骨壷の入った袋をひっくり返しそう〜というので、わたしが預かったんだけど。ひざの上に置くや紙袋からあのこの温もりがつたわってきて、泣きそうになった。
▲そうしていつものお気に入りの話を思うのだった。
「クミ、あのなあ、Jさん(←名前が二人とも「じ」なので)が言うにはなあ〜」と細い小指を立てて話すあのこの声が耳元できこえてくるようやったから。わたしは「うんうん」と返事したあと、キミノホネハ シロクカタカッタラシイ〜とひとりごとみたいに言うた。
▲思い出は思い出を呼んで、そして、この日のこともようやく書けるかもしれないなあ〜と思いながら。しかし、どんどん目がさえてきて眠れそうになかったのに。知らんまにぐっすり寝入ったらしく。
スマホの音でびっくりして飛び起きた。6時ちょっとすぎ。目覚ましのアラームではなくそれは電話の呼び出し音だった。
▲早朝の電話で良いことなどなくて。姉から母の死のしらせだった。
朝5時の看護師さんの見回り時には亡くなっていたそうで。眠るように、というか、眠ったまま母は永久の眠りについたらしい。
高齢だし、去年暮に病室を見舞ったときの母のようすからも、いつか、こんな電話があると、覚悟はできていたはずなのに。スマホを持つ手がふるえた。
▲去年の暮、ここ■に「友よ、いつの日か母やわたしがそっちに行ったら、キミが道案内してや〜。たよりにしてるよ。よろしゅうたのみます」と、jに向けてのことばを書いたとこで。
まさか、こんなに早く道案内をおねがいすることになるなんて。わたしのたいせつなひとの旅立ちの日が、わたしのたいせつなひとの旅立ちの日になるなんて、ね。
▲jはいくらなんでも、なんぼおもっても早すぎたけど、母は「行年百歳」やそうで。それでもまだまだいてほしかったけど。長生きしてくれたおかげでいっぱいいっぱい話せたしね。おおきにお母さん。
「クミ、あんたがここに来るまで、おかあはんのことはまかしとき〜」と得意そうにわらうjがうかぶよ。じゅん、よろしゅうたのみます。
母眠るグッド・バイってよいことば。
*追記
その1)
母の葬儀はコロナ禍ゆえいろいろ不安なこともあったし、息子らも母とつながりのあったわたしの友だちたちも来れず「コロナさえなかったら行けたのに」と残念におもうことがいっぱいありました。何より「コロナさえなかったら」母にもっと会いに行けたわけで。
そうして、いま大変なここ大阪からの参列ゆえ、家族と話し合ってウチからはわたしが代表でお別れに行きました。
前日、棺に入れるのに、母のすきなチョコレートときんつばを買いました。それからもうひとつ、つれあいから託された煙草一本〜忘れないようにかばんに入れて。
以前ふたりで母のホームに訪ねたとき、彼が母娘のはずむ会話に気遣ってか、単に煙草が吸いたかったからか(笑)館外に「ちょっと出てくるわ」と席を立つと、母が「kさん、煙草でっか〜よろしなあ。わたしも死ぬ前にもういっぺん吸うてみたいわ」と言い出して。「ほんなら、ぼくが最後にお義母さんに煙草一本吸わせてあげますわ」と彼が応えて、三人で笑ったんよね。せやからねそんな母との「やくそく」を果たすため。
長いこと煙草から離れてた母だったけど、お母さんひさしぶりの一本入れといたからね。
その2)
お母さんを亡くした友人知人から「母親がいなくなったら、そら、さみしいもんやで〜」と何度も聞かされて。とはいえ、ウチは長生きやから〜と応えてたんだけど。別れに「もうじゅうぶん」はないんよね。父なきあと35年の間、遠く離れて暮らしていたときも、母とはずっと電話ではがきで、つながってたから。
夕方の台所で「あんたとこ今晩なに?また鍋でっか?」と言われて「あははは。ご名答!」とわらった日が、いとおしくなつかしいです。
そして、友の不在も母の不在もほんまにさみしい。
その3)
きょうは母のすきだったフォスターを聴きながら。
こどものころ夜中にトイレに起きたら母がひとり「おうせつま」でフォスターのLPを聴いてた。あのころの母は座ってごはん食べてるの見たことないくらい忙しく働いてたから。夜中に「座ってる」母の姿に、びっくりしながらもこどもながらうれしかったのを思い出します。お母さん〜ゆっくりやすんでください。
「折鶴は紙に戻りて眠りけり」( 高橋修宏)
Stephen Foster - Beautiful Dreamer ■