いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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濃い色から淡い色に。

空が急に暗くなったので、軒下の洗濯物を家の中に入れた途端、雨が降り始めた。いきなりの大雨と雷は空が割れるんやないか~と思うほど大きな音で、洗濯物を腕にいっぱい抱えたまま立ち尽くす。ちょっとした雷でも、きゃあきゃあ大騒ぎするこわがり(←わたし)は、こわすぎると逆に無口になり、くっと息を潜めて「嵐」が通り過ぎてくれるのを待つのだった。

▲幸いはげしい雷雨はいっときで終わって、雨のあがった後、辺りはしーんとしてる。短時間とはいえ一気に水浴びした緑たちが、薄暗い庭のむこうで、今にもごそごそと動き出すんやないか、と思うほど生物(いきもの)らしい表情を見せており、ちょっとこわいようなうつくしさに見入っている。窓からは涼風(すずかぜ)がすいーっと入って来た。

▲ぼんやりしている間に7月になった。
ケッコンしてから7月は二人の母の誕生月になり、いつも何を贈ろうかとあれこれ悩んだものだった。
義母に初めて誕生祝いをしたとき~たしかそれは白地に紺のシンプルな幾何学模様のブラウスだったとおもうんだけど~包みをバリバリと開け(義母はいつもゴーカイに包装紙を破き、リボンでくるくる巻いてゴミ箱に。母はというと、留めたセロテープさえも爪の先でそろりと剥して包装紙もリボンもぜんぶ取っておくタイプ)ブラウスを胸に当てるや「うれしい」と泣き出さはったんで、びっくりしたりカンゲキしたり。

母の誕生祝いを娘らが贈るのはごく自然のことだったけど、義父もつれあいも義母にそういうことはしたことがないらしく「ウチとこは、だーれも祝ってくれへんから、わたし自分の誕生祝い用に毎月掛け金してたんよ。一年たって満期になったら、それで自分で何か買うてお祝いしててん」と泣き笑いしながらその場ですぐにブラウスを着てみせてくれて、うれしかった。

▲なんというても「自分のための掛け金」というのが新鮮で。なかなか「自分のため」にお金を使わない母にも教えてあげなあかんなあと思ったものだ。そんな義母の誕生祝がいらなくなってもう三回目の7月だ

そういうたら、母のことは「母の日」に誕生日に、と忘れたことなかったけれど、父のことは時々知らん顔で過ごしたっけ。とりわけ「母の日」には娘らから何やかやと送ってくるのを「おまえはええなあ」と羨ましがっていたらしく。いつだったか母から「(お金は)わたしが出すし、お父さんにも父の日に何か贈ってやって」と電話がかかったことがある。

果たして、そのとき父に何か買うて送ったのかどうか全く記憶にないんだけど。母が娘らからの贈り物の包みを開けるそばで、拗ねたように新聞読みながらその様子をちらちら見ている父の姿が浮かんで、今更ながら笑うてしまう。

この間、三番目の姉がこどものときの写真をメールで送ってくれて、その中の一枚はわたしもだいすきな写真なんだけど、残念ながらわたしと母は写っていない。(わたしが生まれてまもない頃やろか)コート姿の父がしゃがんで、姉二人が両脇に、三番目の姉が父の膝に小さな片手を置き座って笑っている。父は若いときの佐田啓二みたいに、ちょっとおとこまえで「マイホームパパ」みたいにやさしく微笑んで。姉と「写真はうそつきやなあ」と笑う。


▲時代も家業も「成長期」で、とにかく年中忙しい家やったから、お客さんや近所の人に娘四人のことを「お嬢ちゃんばっかりで、にぎやかでよろしおまんなあ」とか言われると、いつも「つまらんけど、まあ、女の子やさかいに(家業や家事手伝いに)よう間に合いまっせ」と、父が答えていたのが、こども心に腹立たしかった。

▲思春期になると「待ってました」とばかりに父に反抗しては、そんなとき決まって返される「だれのおかげで学校に行かせてもろてるねん!?」には、よけい反抗心を燃やしてた。(一度「お母ちゃん!」と応えて、激怒されたっけ)

先日、是枝監督のエッセイ「父の借金」を読んだ。(是枝裕和対談集『世界といまを考える』第三巻 PHP文庫 所収)

是枝氏がお父さんのことを語っている文章は何度か読んだことがあって。だから【台湾で生まれ、従軍し、満州で敗戦を迎え、進駐して来たソ連軍に捕虜にされ極寒のシベリアに連行された。そこでの三年近い強制労働を何とか生き延びた末に初めて本土の土地を踏んでいる】(p385)ということは知っていたのだけれど。

タイトルにある「借金」の大変さは、だれよりも氏の母親が何度も味わうのだが、大人のしんどい状況は、たいていこどもにとっても辛い状況なわけで。ふいっといなくなる父親と、借金の不安はいつまでも消えない。そうしてお父さんは八十歳のとき、自宅からバス停に向かう道で突然倒れて亡くなる。

遺族にとって、一番心配だったのが、どこからか大きな借金が出てくるのではないか?ということだったそうで。母親には内緒で氏はお姉さんと父親の持ち物を探り、一枚の消費者金融のカードをみつける。

▲借り入れ額は、意外に少額で146130円だったらしい。ところが7年ちょっとの間に200回以上も返済と借り入れを繰り返してることがわかる。八千円返済して同時に五千円借りて。九千円返して六千円引き出し。九千円返して一万円借りる・・・というふうに。

▲消費者金融の分厚い明細を首をかしげながら息子が繰ってるようすは、なんだか是枝監督の映画の一場面を観ているみたいだ。可笑しいような哀しいような。それでいてやっぱり訳わからんお父さんのエピソードだけど。ひとはわからなさの中で生きているんやろな~としみじみ思う。他人のことも自分のことも。

そうしてわたしが父親にたいするきもちも、訳わからんまま、許せないと赦すを行き来しつつ、でも少しづつ色が変わってきてる気がする。寒色から暖色に。濃い色から淡い色に。

【僕が描いてきたのは、不在の父の役割を担い、子供時代を奪われたまま成長する少年や、家の中での居場所を失い、自分が稼いで建てた家を孫からは「おばあちゃんち」と呼ばれることに不満を抱く引退した医者の父でしかない。父は常にどこかで屈折し、居心地が悪い。そして、そんな父の苦悩は周囲からは理解されず、謎として処理される。それが、僕の父に対する実感なのだと思う。】(p384

【僕の父は死してなお謎のままではあるが、しかし、それは闇の中に不安や恐怖とともに存在する謎ではもはやなく、どこか暖かさを感じる光のようなものに変質している。それは僕が父になったこととどれ程関連しているのか?僕自身にも未だわからない。】(p392


*追記

その1)

是枝監督の対談集は1~3まであって、対談の相手もさまざまでおもしろく読んでいます。今回エッセイ(初出は『考える人』2015年冬号)にはお父さんの話にビクトリ・エリセ監督の『エル・スール』(←だいすきな作品)を重ねていて、この映画もまた久しぶりに観たくなりました。

この第三巻の最後は鴨下信一氏との対談「ホームドラマにおける芝居とはなにか」には、山田太一脚本の『岸辺のアルバム』から懐かしい『天国の父ちゃんこんにちは』まで語られていてうれしかったです。


『天国の・・』は1966年から放映されていた連続ドラマで、わたしは小学生の頃観ていたのですが、大人になって、「ひととき会」(朝日新聞「ひととき」欄に掲載された人たちの会)に一時期入り名簿に原作者の日比野都さんのお名前を見つけて、おお!とカンゲキしたことを思いだします。

ドラマのなかで何度も出てきた詩(主人公の「パンツやのおばちゃん」が亡き夫からプロポーズされたときの詩)もよく覚えています。

*このテレビドラマの一部(動画)を見つけました。劇中(3分あたりから)~園佳也子さんがこの詩を朗読してはります。→ もう主演の森光子さんもこの園佳也子さんも故人となられましたが。


【貧しいから あなたに差し上げられるものといったら

やわらかな五月の若葉と せいいっぱい愛する心だけです。

でも、結婚してくれますね。】


その2)

ペーター・ヘルトリング が亡くなられたそうです。

大人になってから、こどもの本を読むきっかけになった作家でもあり、いっときはわたしだけやなくて、息子も夫もよく読んでいました。『ヨーンじいちゃん』『ヒルベルという子がいた』『ひとりだけのコンサート』『クララをいれてみんなで6人』・・・と思い出す本がいっぱいです。(ここで少し書いたのは彼の自伝的な本『おくればせの愛』→


その3)

今回書けなかったけど読んだ本。
『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女』(上間陽子著 太田出版)→


その4)

観た映画。(よかった!)たいてい観たいと思う映画は、わたしが諸々の事情で行きにくい映画館でかかってて、いつも諦めてるのですが、これはわたしでも「行ける場所」だったので、迷わず行ってきました。

「トランプ政権がイランをふくむ特定7カ国へのビザ発給制限と入国の一時禁止を検討しているとの報道を受けて、主演女優タラネ・アリドゥスティとアスガー・ファルハディ監督も〈もし私の渡航が例外とされても到底許せない〉と声明を発表」~授賞式を辞退ということで話題にもなりましたが。

『セールスマン』


その5)

きょうはこれを聴きながら。
Patrick Watson - Shame


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by bacuminnote | 2017-07-11 09:21 | 本をよむ | Comments(0)

今月三度目の遠出。
いつも家に篭ってるから、外出が続くと自分やないみたいで、なんだか落ち着かないんだけど。この季節の吉野方面への道中は車窓からの景色を見ているだけで、緑がからだの中に入ってゆくというか、自分がどんどん緑になってくようで、気分が昂揚してくるのがおかしくて。
窓に額くっつけてひとり、くくくと笑うてしまう。いま暮らしてる町もけっこう緑は多いんだけど。ここ通ったあとに見たら、きっと映画のセットみたいに感じるやろなあ。

今回はつれあいとふたり。彼もまたこの前の息子みたく久しぶりの近鉄南大阪線~吉野線の景色にじっと見入ってる。
窓の外、ぽつぽつ見える建て替えの新しい家がある他は、わたしの高校の電車通学のころ(1970年代)とほぼ変わらず。ただただ山と少しの畑がつづく景色が沁みる。

いや、走る電車の中から通り過ぎる景色に、余計なものが何もない、と感動してるのと、そこで留まり暮らすひとの思いが重なるか、というのは、幾度か経験した田舎暮らしで少しは想像できるから。ときに「余計なもの」も生活を潤わせてくれるから。単純に「田舎はいいなあ」「住んでみたい」とは言えないんだけど。それでも。やっぱり、ついつい、なんべんも。「ええなあ、ええなあ」とつぶやいてしまう。

見舞いに行った先の病院もまた緑緑緑のさなかにあり、病窓から山の稜線がそれはみごとで、きもちがしんとする。
携帯用の絵の具セットでそんな山々を描いてるらしいと聞いてうれしかった。
そのむかし辰巳浜子さんの料理本でおいしいもんを拵えてくれたひとに、その娘辰巳芳子さんのスウプの本をもって来た。「ほな、またね」と握手(おもいきりハグしたいとこやけど傷口に堪えるし)して。お見舞いのつもりが、山々と澄んだ空気に見舞ってもろぅたきぶんで病室をあとにする。

オンバサラダルマキリソワカ。
(まえに旧友jと行った京都三十三間堂でであった真言。「いのりましょう。大切な人のために。そして、生きとし生けるもののために。」

次はいま走ってきた電車で何駅かもどって母のホームに。

午後のホームも電車もがらーんとして。停車のたびに車内をええ風が通ってゆく。なつかしい駅名に、ここからはあの子、次の駅ではあの子、と電車通学のかつての同級生の名前が(もうすっかり忘れていたのに)自然に口をついて、おどろく。
さてようやく最寄り駅に到着するも、タクシーも出払って、バスも次の出発まで45分もある。困った。つれあい一人だったら歩いて行ける距離なんだけど、わたしにはちょっとキツイんよね。

しばらくの間、母に要るもの聞いてコンビニで買い物したり、その辺うろうろして待ってみたけどタクシーは戻ってくる気配がない。

結局、停車中の行き先のちがうバスの運転手さんのアドバイスで、ひと停留所分そのバスに乗って残りふたつ分を歩く、という方法をとることになった。

その日は夏みたいに暑くて、ふたつめの訪問ということもあって、がっくりきてたけど、バスに乗るや「あ、やっぱり歩かはりまっか?」と運転席からバックミラーをみて運転手さんが声をかけてくれて。「他所から来た人」と思わはったんやろね。続いて「◯◯☓☓カードは持ってはりますか?なかったら、190円まわりしといてくださいや」と。

その親切な応対もうれしかったけど、何よりわたしは「まわりする」に、じんとくる。「まわりする」とは奈良県(主に南部?)で「支度すること」なんよね。ここでこんななつかしい言葉聞くとは思わへんかったから。一気に疲れがとんでいくようで頬がゆるんだ。
バス停ひとつ分はあっという間にすぎたけど、坂道だったので助かった。降りる時も「この道、まーっすぐ、まーっすぐですさかいに」と教えてくれて「おおきに~」と下車した。

部屋でじっと待ってられへんかったのか、母は押し車を押して玄関ホールまで降りてきており、苦笑。そういうたら、つれあいのお母さんもわたしらが滋賀や信州の家から車で帰省のおり、何度も玄関の外まで出て(携帯電話のない頃やから何時に着くかもわからへんのに)待ってはったようで。
そんなお義母さんをみんなで笑うてたのに、今はわたしが息子らが帰ってくるとき、おなじようなことをして「いさこさん(義母のなまえ)現象」と家族にからかわれている。

長生きしてよかったことも、しんどいことも。母の喜怒哀楽も日替わりだけど、ここに来てもやっぱり好奇心旺盛で、若いスタッフに「ずっとこの仕事してはるの?」とか話を聞いたりしてるようで(苦笑)。
「なんか営業の仕事してたらしいけどやめて、僕には介護の仕事が合うてると思います~って、言うてたわ」とか「今日は100歳のひとが前に座らはった。100歳のひとなんて初めてや」とコーフン気味に話す母も、一ヶ月後には94歳になる。自室の壁には、わたしが出したポストカードと、習字教室で書いたというじまんの一枚(たぶん)が貼ってあって。「五月晴れ」と書かれてた半紙が風でゆれていた。

*追記(いつものことながら、長いです)

その1

この日のおともは『もういちど自閉症の世界と出会う 支援と関係性を考える』2016年刊)という本でした。この間読んだ『ち・お115号』「親になるまでの時間」前編(浜田寿美男著)がとてもよかったから、自分のなかで反復したり、書かれたことについてつれあいとご飯たべながら、のみながら、話したりして。いろいろ考えていたとこに、ツイッターでよくやりとりしてるkさんがこの本に言及されていて。ああ、その本つれあいが買うてウチにあったなあ~と思い出して、読み始めたのでした。

ツイッターのたのしいところは本や映画をきっかけに、それが広がり深まる「きっかけ」を得られるところ。あとは自分しだい。そのまま忘れてしまうこともあるし、本や雑誌なんかは知って、「おお!」とおもって即注文、ってこともある。自分では用意できなかった種をもらってる感じ。

『もういちど・・』は何人かのひとが書いてはるんだけど、とりあえず関心をもった浜田寿美男氏の頁(第三章 自閉症という現象に出会って「私たち」の不思議を思う~わかりあうことの奇跡と わかりあえないことの自然)から読み始めましたが、車中で何度も隣席に「ちょっと聞いて」と読み聞かせ(笑)をしました。このことは(さっき書きかけたけど、めちゃ長くなりそうやから)次回に書こうとおもいます(つもり・・)

そのまえに『ち・お115号』です。

いくつかこころに残ったところを書いてみますが、ぜひ読んでみてほしい一冊です。7月には116号がでます。たのしみ。

【あえていえば、人は発達のために生きているのではありません。どんなにささやかであれ、手持ちの力を使って生き、それぞれの生活世界を広げていく。新しい力が生まれてくるとすれば、それはその結果でしかありません】(p37

【実際、ことばが出てきてはじめて人同士のコミュニケーションができるかのように思われがちですが、ことばはむしろことば以前の身体でのコミュニケーションがあってはじめて出てくるもの、それを逆立ちして考えてはいけません。】(p46

【ことばを乗せるコミュニケーションツールが地球規模で蔓延するいま、ことばの空回りもまた蔓延しています。人類はどうしようもなくおしゃべりなのです。だけど、おしゃべりがほんとうに意味をもつためには、そのおしゃべりがテーマとする現実世界を、まずは身体で共有すること。そのためにはときとして沈黙して、互いの身体を見つめ、その表情を読みとることも大切ではないかと思います。】(p48

その2

引用文のなかの「そのためにはときとして沈黙して・・」は「どうしようもなくおしゃべりな」わたしに沁みることばでありました。

そういえば、そんなわたしがほんまにしゃべることができなくなった時があります。

時期的にいえば、下の子が小学校入学前だったことから、耳鼻咽喉科ではあっさり「ストレスかなあ」とドクターに言われたのですが。自分では保育園と小学校のちがい(たとえば食物アレルギーでお昼は別に作って持って行ってたことも、本人が入学前から「ぼくガッコに行かんとこかなあ」と登校に乗り気やなかった!ことも、保育園のときから「引き続き」という感じやったし)への不安も特別なかった気がするのですが。


何より、風邪でもない、扁桃炎でもないのに、なぜ声がでないんだろう。ていうか、ふつうはどうして声が出るんだろうと、生まれて初めて「しゃべる」ことへの疑問をもったことを思いだしました。

結局わたしの場合「声帯に隙間ができて震えない状態」やから声(音)にならないのだろう」ということで、一応なんか薬は出たけど、ドクター曰く「一番有効なのは沈黙です」とのことでありました。

これ、なかなか苦行やったんですが、黙ってると見える(感じる)こともあって、ええ経験でした。(しらんうちに治ったので、また忘れてしもてる・・)

その3

ここ二ヶ月ほどいろいろあって、容量のちいさい頭とこころがパンク寸前でしたが、ようやく山ひとつこえたかな、というとき。おもいきって映画館に行ってきました。たった2時間ほどだけど、暗闇で、ひとり、黙って(!)観て。
とてもとても佳い時間でした。映画館でたあとも、エンドクレジットのバックで流れ続ける海の音がずっと耳元で聴こえてた。ああ、海のそばに行きたくなりました。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』


その4)

『図書』(岩波書店)前からの連載(梨木香歩「往復書簡」)も、新連載(ブレディみかこ「女たちのテロル」などなど)~おもしろいです。4月号は本屋さんで本買ったときもらって、5月号はもらいそこねて図書館で借りて、6月号からとうとう定期購読注文。はやく届かないかなあ


その5)

長くなりました。さいごまで読んでくださって、おおきにです。

もう、日々煮えくり返るようなことばっかりですが。知る、考える、怒る、は手放したらあかんと思う。
きょうはこれを聴きながら。

Max Richter - Dream 1 (Before the wind blows itall away)



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by bacuminnote | 2017-05-31 18:53 | yoshino | Comments(0)

電車は臙脂色で。

夕方、母に電話をかける。 デイサービスに行く日は、母が家に帰って一息ついてる頃。家にいる日は、所在なげにベッドにごろりと横になってるであろう頃。そして、わたしは夕飯を拵え始める頃。おどけて”Hello! ”と声をかけるときもあれば、「今日はどんな感じ?」で始めることもある。

その日のお天気、母の健康状態、家族やご飯の話・・・と、たいていは、とりとめのないことを、菜っ葉茹でながら、煮物しながら、ちょっと一杯ひっかけながら、聞いたり、しゃべったり、笑うたり。
ときには母が興味もつような記事や、本の中の一文を電話口で読み上げることもあるし、このブログを更新すると「朗読劇場」と称して(笑)読んでみたりもする。

最近は活字を読むことが苦になっているようす。でも、まだまだ好奇心旺盛な94歳(誕生日までは93や~と返される!)が受話器のむこうで、前のめりになって「聞いてる」のを感じると、うれしくて頬がゆるむ。
自分の母親ながら、いくつになっても、知らないこと、新しいことを吸収しようとするところは、ええなあ、すごいなあとおもう。

で、その朗読劇場の最初のうちは「はいはい」「ふーん、そういうことか」という相槌に「あんた、うまいこと言うなあ」と、褒めことばもあったりで、ちょっとええ気になってると、そのうち「ふううう~」と長いため息が漏れ聞こえてきたりして。やがてガサガサと何かやってる音が聞こえ始めたりするんよね(苦笑)
たった一人のリスナー(!)が、うわの空なのがまるわかりなんである。

そのあまりに正直な反応に、拗ねるというより笑いがこみ上げてきて。そういうときは早々に「ご清聴ありがとうございました」と朗読劇場をお終いにする。すると「なんや?今日はもう終わりでっか~?」と返ってくるけれど。
母よ、それ、本心やないよね(笑)

でもでも。
やっぱり、声だけではね~ってことで、きのうは顔を見に、息子2と二人でよしのにむかった。そんなふうにしょっちゅうしゃべってるから、久しぶりの気がしないんだけど、考えたら半年ぶりだった。(すまん)

いつもの時間の特急はいつのまにか「青のシンフォニー」 とかいう特別観光列車になっており。その名前も姿もちょっと気恥しくてまよったけど、ちょうどよい時間に着くのがなくて「これで」と窓口で告げる。が、即「満席です」と言われてびっくり。「この電車は一ヶ月前から予約が入ってますからね」自信たっぷりの返事がかえってきた。

しかたなく次発の急行に乗ることにして、分着、となんども時計を眺めながら待っている(はずの)母に変更をしらせる。
臙脂(えんじ)色の近鉄電車に乗るのは久しぶりだ。昔この駅で高校の制服のまま友だちと(よしのから高校のある駅までの定期券はあるので)一駅分の切符買って、改札入ったとこで駅員さんに「キミらどこまで行くの?」と呼び止められたのだった。

その後、構内を見渡せる高いとこにある部屋に案内され「キミらのその制服は高校のやね。これからどこに行くの?」と再び聞かれ、おろおろと、しかしとっさに券売機でみた一駅むこうの駅名思いだして応えたんだけど。

そうして生まれて初めての「きせる」は未然にあっけなく失敗し、たまたまジッカのこともよく知っていると言う駅長さんに「お父さんが泣かはるで~」とお説教されて。定期券のある駅までの乗車券を買い直した(乗る前やったし、罰金はなしってことで)。ガッコ帰りに(反対方向の)大阪に出て高揚してた気分も一気にダウン。友だちとふたり、しょんぼりと吉野行きの電車に乗ったんよね。

駅長さんと知り合いとわかったから、あとで怒られるより、と思って家に帰って父親に話したら、あんのじょう顔まっかにして「あほか!」と大声で怒鳴られた。その父が亡くなってもう30年になる。あの日の帰り道は半泣きやったのに。あとで思い出すたびに大笑いした友だちも去年かえらぬ人となってしまって。しみじみさみしい。
けど、臙脂色の電車は今もかわらず走ってる。


▲これまで吉野行き特急に乗るときは(「シーズン」以外は)空いてることが多いから、いつも息子とは各自別席に座り、目的の駅に着くまで、ゆったり座席で本読んだり寝たりするんだけど。
きのうは急行の長椅子に横並びに座って、ぽつりぽつりと映画の話や本の話をし始めた。お互いこの間観たところやった『オーバーフェンス』
での蒼井優の話から息子が「いちばん」という『そこのみて光輝く』、わたしが「やっぱりこれ」という『海炭市叙景』へ。ドキュメンタリーは『Fake や『はじまりはヒップホップ』 のことなど。

電車が停まるたびに駅名をたしかめた。
「尺土(しゃくど)」「葛(くず)」「薬水(くすりみず)」「大阿太(おおあだ)」・・と、改めて駅名(地名)の語感をたのしむ。わたしには馴染み深い駅名も彼には初めてのようで。
そういうたら「浮孔(うきあな)」って駅から乗ってくるクラスメイトもいたなあ~とおもいだす。

車内は中高年のハイキング客のグループが乗ってはる他は空いており。
そのうち緑濃いまちへと入って。家を出るときは青空やったのに、どんどん灰色のしずんだ空にかわってゆく。ときおり見える山のなかの桜のほんのりピンクとか、薄曇りの吉野川とか。ちょっと時間はかかったけど、わたしのすきな風景とともに思いの外たのしい道中となった。

母は会うたびに小さくなる。

電話でしゃべってるとき、わたしはもうちょっと若いころの母を思い描いてるんやな、と気づく。背中はまるく、歩幅もせまくなって、手がつめたくて。椅子にちょこんと俯きかげんに座ってるのをみると、なんだかせつなくなる。

部屋のベッド脇の壁にはわたしの旧友の描いた絵が掛けてあった。
そのむかし「あんたも、あんたの友だちも変わってる」と苦笑いしてたその友だち(
うらたじゅん)の作品「中之島図書館」だ。じぶんの娘のように母が彼女の画業や手紙のことを、誇らし気に話すのを聞いてうれしい。

70歳のとき、13年ぶりに10人目の孫(つまり息子2)が生まれて。世話をしに厳寒期の信州 開田高原に来てくれたときの話は、会うたびに登場する。
何回も何回も聞く「ほんま寒かったなあ」という思い出話は「あの廊下とトイレの冷えたこというたら」「この子ほんまにかいらしかったなあ」「大きいなったなあ」「元気にしっかりきばってや~」とつづくのであった。

▲やがて帰りの電車の時間になって、わたしも、息子も母とハグ。「送っていきたいけど、ここでごめんやで」と別れる。そういうたら、この家に越してきたころは橋を渡ったとこまで歩いて送ってくれたんよね。

玄関を出て、ふと上を見上げたら2階の窓から身を乗り出すように母が「気ぃつけて帰りや~」と手を振って。庭の桜古木はまだ蕾だった。

*追記

その1

今回のよしの行きでは、もうひとつ「ええ時間」がありました。
2
年前、中学校カンレキ同窓会で40数年ぶりに再会したクラスメイト~なんとその息子さんと、SNSを通じてつながって何度かメールのやりとりをしたのですが、ふと思いだして某所をたずねたら会うことができました!

共通項は音楽で。

初対面で243262歳が「話せる」んやから、音楽ってすごいね、ええねえ。うれしい。おおきに。よしの行きのたのしみが増えました。

その2

帰りの車中ではふたりとも爆睡。
途中駅で息子は京都に。わたしは何度目かの『トリエステの坂道』
(須賀敦子著 新潮文庫)を。読みながら坂のある街で育った遠くに住むふたりの友人のことを。それから、須賀敦子や内田洋子の本がすきやったイタリア好きの高校の友だち(前述の)を思っていました。

【丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。(中略)
軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし。】
(同書 表題作p1920より抜粋)

その3

↑にも書いた映画『はじまりはヒップホップ』~

「音楽」や「ダンス」で、自分を表現すること、それを観て(聴いて)もらうことで、若いひとたちとも同じ場所に立ってつながってゆける~まえに観た(よかった!)『ヤング@ハート』のようなドキュメンタリー。

印象にのこったのは、メンバーの中、最高齢(94)のメイニー。シングルマザーで5人のこどもを育てた彼女~若いころ核武装に反対のピースウォークにNZワイヘキ島から500人を連れてアメリカ・ワシントンDCに行ったというエピソード。頼もしい!
公式HPのなか「登場人物」を見るだけでも、ほんまにいろんなジンセイがあるなあと思う。おもしろいです。


その4)

地下鉄にのりかえた頃からぽつりぽつり雨で。この動画おもいだしてた。(前にもはったことあるけど再度)

Sparklehorse - Apple bed


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by bacuminnote | 2017-04-01 11:04 | yoshino | Comments(3)

会ひたき人に。

▲久しぶりに母の顔を見に。
母の体調、わたしの足調(苦笑)、温くうなってから、涼しいなってから、とか何とか。お互いにいろいろ言うてるうちにあっという間に半年(以上)経ってしまって。
しょっちゅう電話で長話してるしね、そんなに時間がたってるとは思いもしなかったんだけど。
今回はわたし以上に「おばあちゃん」に会うのんは、ひさしぶりの息子2も途中合流しての吉野行きとなった。

▲「秋晴れや会ひたき人に会ひに行く」(西村麒麟) ~なぁんて思ってたのに、この日もあいにくの雨。
しかも家を出るときはけっこう強い降りだったけど、ジッカのある駅近くになると、灰色の雲と雲のすきまから少ぅし青空が見え隠れし始めた。
近鉄特急は吉野に近づくと、カーブの多さもあってキューガタンガタンと、特徴のある電車の音が響くんよね。線路際にも、線路内にも、彼岸花の束がぽつぽつ~敷石の茶色や灰色に、彼岸花の赤が妙に映えて、そのうつくしさにどきっとする。
駅に着くと、迎えに来てくれた姉が車から降りて「こっち、こっちやで」と大きく手を振ってる。 Y姉ちゃん、ただいま~。

▲川沿いの道を走りながら、前回ここに台風のことを書くのに、ネットで見た伊勢湾台風の被害の写真を思い浮かべてた。
あのころ(というかわたしの子どものころ)から思えば、うんと水量の減った吉野川は、川原がどんどん広くなって。ああ、この橋もあの橋も崩壊したんやなあ~と改めて、しずかで寂れた感じの川に見入る。

▲お昼は息子とふたりで、焼き鮎ずしとおかいさん(茶粥)を食べた。
ふたりとも好物の焼き鮎ずしはもちろん、久しぶりのおかいさんがしみじみと旨かった。
ふだんは無愛想な息子やけど(!)このときは終始えがおで、何べんも「うまい」「おいしい」と言い合うては、おかわりした。

▲ウチにもかつて母が縫ってくれたサラシの「ちゃんぶくろ」(茶袋)がある。いま吉野に住んでる人たちだけやなくて、郷里が吉野の人はどのお家にもあるのとちゃうかなあ。
この袋に番茶(粉茶)を入れて炊き出すから、使うごとに深いええ茶色に染まるんよね。息子が小さかったころもよく拵えたっけ。
子どものころから食べてきたもんの記憶って、ふしぎやね。長いこと食べてなくて、すっかり忘れてても、口にすると一気にからだじゅうのスイッチ入るみたいな。
また、ちゃんぶくろ出してきて拵えよう。

▲家に入ると、母が立って迎えてくれた。きっと今か、今かと、待ってたんやろね。
息子2は母が70のときに誕生したラスト(!)10人目の孫で。お産のあと厳寒期の信州・開田高原に、しばらく手伝いに来てくれたときのことは、今でもよく母の話にでてくる。
曰く、えらい寒かったなぁ。-20℃越えた日もあったなあ。雪もすごかったし。薪ストーブのそばから離れられへんかったなあ・・・。(←思い出のほとんどが「寒かった」~よっぽど堪えたんやろね)
48で初めて「おばあちゃん」になってからも、母はつねに、ずっと、先頭に立って仕事して来たから。なかなかできなかった「孫の沐浴」もこの子のときには毎日してくれたのだった。

▲ふだん電話でしゃべってると、頭も口も冴えわたってるけど(苦笑)、じっさい会うてみると「会わなかった七ヶ月分」母は歳をとっていて。ちょっとせつなかった。(もっとも、わたしだってプラス七ヶ月分だが・・)
部屋に入ると、作ったもの書いたもの描いたものが一杯あって。
ふと、棚のところに貼った半紙が目に入る。書道のすきな母がいつも何か書きつけていて、たしか前に来たときは芭蕉の俳句だったんだけど。

▲今回は、また新しく書き直したみたいだ。
ん?あれ?これ、どっかで・・・ひゃあ!!そして、ごていねいにこの駄句の作者の名前まで最後に書いてあって。
前に電話で「わたし今日こんなんつくってん」てな感じで、調子にのって言うたんやろけど。まさかそれを書き残してたとは。まさか芭蕉大センセのあとに、こんなもんが登場するとは。びっくりしたなあもぉ。
なんちゅう親バカぶり(苦笑)。ほんで、もうほんまにあほらしすぎて、大笑い。

▲わたしが姉フウフとしゃべってる間、母は孫に漢字ドリルを見てもろて。(母の方が息子よりよう知ってると思うけど・・)それから息子のガッコの話をうんうん頷いて聞いている。若い子の話聞くのが好きやからね、母のうれしそうな顔をちらちら見て、わたしもうれしかった。

▲とはいえ、母に会うたら、あれしよう、これしたろ~と思ってたこと、いっこもできんまま電車の時間がきてしもた。帰りは義兄が駅まで送ってくれることになって、外に出たら雨がぱらぱら降り始めてた。
車窓からみえる川と辺りの山々が黒くさびしくて、わびしくて。そんで、きれいやった。
おおきに。また(帰って)来ます。つぎは晴れた日に。




*追記
その1)
息子とは会うなり、この間観た映画『怒り』の話に。そもそも、こわがりのわたしが殺人事件をもとに・・とかいうストーリーそのものが、ふだん観ない映画のジャンルなのですが。
パンフと原作本(上下二巻)持って来てくれたので借りて、帰り、息子が別の線に乗り換え、一人になってから読み始めました。

映画を観たあとに原作本読むのと、本読んでから映画観るのとでは、おもしろさがちがうよね。
監督がどの場面をカットしたのか、ふくらませたのか、とても興味深く。この上下巻の長編を一本の映画(それでも2時間20分と長いですけど)にまとめる力もセンスも。出演者の演技ももみなすごかったし。もちろん、すべての基になってる原作の(ことば)の力も。
何を今更と言われそうやけど、いろんな「表現」が詰まった「映画」の世界を、あらためて思いながら読んでいます。

『怒り』は東京、千葉、沖縄と三ヶ所でそれぞれのストーリーがあるのですが、どれもが一話でも作品として成り立つ深さがあり。そのどれもが底に怒りや痛みが在って。知らんふりができなくて。おまえはどうなんだ?と突きつけられてるようです。
とりわけ沖縄編のことは今もなお。

帰途バスの車窓から見える景色が、行きとちがって見えたのは、時間の経過だけやなくて、映画を観たあとやからやね。
長時間おなじ姿勢で座ってると膝と腰が堪えることもあって、いつもはDVDやけど。
映画館の帰り道のような時間は、映画館に行かないと得られへんよなあと思いながら。
また、行ってみよう。(ところがバス一本出いける映画館にはわたしが観たいのんが、なかなか掛からへんのです~無念じゃ)

その2)
『選んだ理由』(石井ゆかり著 ミシマ社刊)→
石井ゆかりさんによるインタビュー集。
【どういう仕事に就くか、誰と一緒に生きるか、どこに生きるか、どう生きるか、誰もが、人生で幾度も選択を重ねていく】(同書p3より抜粋)

一番印象に残ったのは写真家の「吉田さん」(Akihito Yoshida→)の巻。

【多くの人が、「やりたいこと」を探す。「何がやりたいか解らない」と悩んでいる。でも、本当に見つけていなければならないのは、「やりたくないこと」なのかもしれない。自分の中の「NO」を知っていることが、羅針盤となることもあるのだ。】(同書p132より抜粋)

番外編いれて8人の「選択」を、わがジンセイの幾度もあった(苦笑)選択期を思い出しつつ、おもしろく読みました。


その3)
今日はこれを聴きながら。
Gallo Rojo - Sílvia Pérez Cruz→
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by bacuminnote | 2016-09-30 23:42 | yoshino | Comments(4)

大きな硝子戸から。

▲朝、目がさめたら窓の外が薄暗かったので。
えっ?もう夕方なん!?と、ねぼけて一瞬あせった。けど、じっと耳をすますと幹線道路を走る車のしゃーしゃーという音にぽつぽつと雨音が重なり。昨夜みた台風のニュースを思いだしてなっとく。湿気て重たい雨戸をいちにのさんと勢いつけて開ける。

▲窓の外~雨にうたれた木々と草ぼーぼーの庭はじつに緑あざやかで、なんやズームアップしたみたいにせり出して見えて。灰色の空の下、大きくなった緑たちが今にも歩き出しそうで、どきんとする。
そうして、あらためて、植物は生き物やなあとおもうのだった。

▲川のそばで大きいなったから、台風は思い出というより、いつもその背景のようにわたしの中に在る。雨が降りはじめ、急に空が暗くなり、そのうち雨脚が強くなって、ガッコは給食を食べて早帰りの集団下校になるんよね。その時点では、午後からの授業のないことを子どもらは、無邪気によろこんで列に並ぶんやけど。

▲家に帰ると、親も従業員の人らも台風で家業は暇かと思うのに、なんやバタバタしており。うれしかったはずの早帰りやのに、わたしはじきに退屈を持て余し、放課後に対戦のやくそくしてたドッジボールができんかったことばかり思ってた。

▲当時旅館やったウチは、台風が近づくと、川辺に繋いである鮎舟が流されんように、河川敷に上げるのが定例で。(このことは前にもここで書きました)10人乗り、16人乗り、20人乗りの舟と鮎漁用の舟と合わせて5隻。川辺にあった大きな欅の木2本に、太い麻縄で繋ぐんやけど、小さい舟も引き上げるとなると力持ちが10人がかりやったそうで。

▲そうは言うても、台風前の(どこのお家もたいてい川べりで慌しいときに)その10人余りの人を集めるのが大変やったようで。そのたびに「無理言うてすんまへんなあ。ほんま、すんまへん」と、船頭さんしてもろてる人たちに、電話にむかって何べんもお辞儀してた母の姿が浮かんでくる。

▲旅館は川に沿うように客室が並び、途中長い渡り廊下の間に大浴場や娯楽室があって。その廊下の行き止まりには二階建て~上下三室ずつの客室があったんだけど。
いつだかの台風がきたとき、母たちが舟の引き上げに外に出ている間(たぶん、じっとしときや、と言われたんやろけど)わたしはそこの二階の踊り場に走ったんよね。

▲川に面した大きな硝子戸からは、眼下に怒り狂ったように、ごぉごぉ音たてて波高く流れる濁った川が間近に見えて。倒れた木や、大きな枝、畑の作物、一斗缶に箪笥や自転車まで流れてきて。
夏じゅう泳いで遊んだときとはまるで違う川のその顔つきも、覗き込んでたら飲み込まれそうな濁流も、しんそこ怖かった。

▲わたしの記憶では、これまで台風でジッカやご近所さんが大きな被害をうけるということはなかったと思う。ただ伊勢湾台風のときは橋が崩落し、町なかの家の崩壊もあって、それは大変やったらしい。そのときわたしは四歳で、家の中でも外でも大人たちがバタバタしてた様子の記憶しかないんだけど、ずいぶんあとになって当時の写真をみて、改めてその被害の大きさに驚いた。

▲さっき、これを書くのに確かめたいことがあって、母に電話したら、当時の舟や船頭さんのこと客室の位置やなまえ・・・と、具体的な数字まですぐに返ってきてびっくりする。「すごいなあ」というと「そら、わたしの命みたいなもんやからなあ」と言うて、すぐにそのせりふが恥しくなったのか「あはは」と照れ笑いしてたけど。

▲「いのち」と聞いたんは初めてだったので、そうかぁ、としみじみ思う。
相手(つまり、わたしの父親)のこともロクに知らずに、お見合いのあと一回か二回会うただけで、親や周囲の勧められるままにした結婚はイコールそのまま「嫁ぎ先」の働き手で・・。それでも当時は多くのひとがそんな結婚やったのかもしれないけれど。

▲そういえば、相方のお母さんもまたそんな一人で。
「わたし節分に結婚したんやけど、それまでいたお手伝いさん、おヨメさんが来るから、いうて1月いっぱいでお家に帰らさはったらしいんよ。わたしは正味お手伝いさんの代わりや。結婚式までおとうさん(相方の父)とも2回しか会うてへんし、式までに顔も忘れてしもてたし・・」と笑いながら、よくこぼしてはった。

▲この間(というても、もう先月末のことになるんやけど)『屋根裏の仏さま』(ジュリー・オオツカ著 岩本正恵・小竹由美子訳 新潮社2016年刊)という本を読んだ。これは母や義母より一世代~二世代前の20世紀初頭「写真花嫁」としてアメリカに渡った日本人女性たちの話で。写真だけをたよりに長い船旅を経てアメリカに暮らす日本人男性の元にむかうのだった。

▲どの男性も送ってきた写真はかっこよくて。
船内で「わたしたちは」少女のように(じっさい初潮もまだむかえていない十二歳の女の子もいた)その写真を見せ合ってはしゃぐ。
「彼らはハンサムな若者で」「故郷の兄や父に似ていたが、もっと身なりがよく、グレーのフロックコートや仕立てのよい三つ揃いのスーツを着て」「家の前の車回しでT型フォードにもたれて」写真におさまってた。

▲夢みるようにアメリカでの暮らしを語り合う「わたしたち」は、やがて写真のその人とはまるで違う「ニット帽をかぶり、みすぼらしい黒い上着」を着た中年男性たちにサンフランシスコで迎えられることになるんよね。
写真は他人のだったり20年も前のものだったりしたわけだ。そして、すぐに労働の日々が始まる。

▲そうそう、この本は「わたしは」ではなく「彼女は」でもなく、終始「わたしたちは」で語られている。
「写真花嫁」たちが口々にその結婚を、夢を、渡米してからは、いきなり「奪われた」ことを、労働の苦しさを、言葉のわからない悔しさを、絶望を、「わたしたちは」と語るんよね。

▲何度もくりかえされる「わたしたちは」が、あるときは朗読劇のように、詩や音楽のように。そのうち深くかなしく響くようになる。
ときおりテルコ、フミノ、ルリコ、ミツエ・・と「わたしたち」の中の名前がでてくるのに、ちいさなつぶやきもため息もきこえてくるようなのに。
「わたし」はやっぱり不在なのだ。

▲そうして「わたしたち」にも子どもが生まれ育ち、貧しいながらも自分たちの家をもつ。
「子どもらはわたしたちが悲しげにしていると心配してくれた。」「わたしたちの膝が痛んだり、月の障りだったりすると、わたしたちが言わなくても察してくれ」「子犬のように、わたしたちといっしょに寝た」「アメリカに来て初めて、わたしたちはベッドで誰かが隣にいるのを嫌だと思わなかった」

▲子どもらはわたしたちが決して発音しえない「R」と「L」だって難なく言えるようになる。
【ひとつ、またひとつと、わたしたちが教えたかつての言葉は子どもらの頭から消え始めた。子どもらは日本語の花の名前を忘れてしまった。色の名前を忘れてしまった。お稲荷さんや雷さまや貧乏神の名前も忘れてしまった】
ある女の子は自分をドリスと呼び、ある女の子は自分をペギーと呼ぶようになる。
【エツコは学校の初日に担任の男性教師、スレイター先生から、エスターという名前をもらった。「先生のお母さんの名前なのよ」と彼女は説明した。その言葉にわたしたちは「あんたの名前だってそうよ」と応じた。スミレは自分のことをヴァイオレットと呼んだ。シズコはシュガーだった。マコトはまさしくマック。】
(同書「子どもら」p88より抜粋】

▲夫や子どもに思うことはあるものの、仕事も暮らしもなんとか土地に根付きはじめたころ、戦争が始まり「ひと晩で、隣人がわたしたちを見る目が変わった」
やがて、わたしたちは集団移動を迫られることになって。
最後の章「いなくなった」では「わたしたち」がいなくなった町で、彼女たちにかわって町のひとたち(白人たち)が「わたしたちは」と語り始める。
【わたしたちが知っているのは、ただ、日本人たちはどこか遠くのある場所にいて、たぶんこの世ではもう二度と会えない、ということだけだ】(同書「いなくなった」p157より抜粋)

▲表紙カバーの絵がとても愛らしい。
たんぽぽ、アザミ、鈴蘭、菫、れんげ草・・・これ、たぶん「わたしたち」が子どものころから親しんだ野の花たちなんだろな。何も知らずに海を渡った少女たちのようで、その可憐さがよけいにせつない。


*追記

その1)
いま又台風16号が接近してるようで。どうか無事通過してくれますように。

その2)
前回のブログ書いたあとも、膝が不調やったり(ようやく回復しました!)バタバタして、新しい本が読めない(読了できない)ままでしたが、
観たDVD(このまえ書けなかった分も)を備忘録的に。

「人生は小説より奇なり」→
「リリーのすべて」→

このふたつはたまたま、ゲイのカップルの話とトランスジェンダーの話でした。
「性別」(という観点というか、捉え方)って何のためにあるのやろ?と思いました。

「火の山のマリア」→
監督はグアテマラ出身のハイロ・ブスタマンテ~公用語のスペイン語は国民の6割程度が使って、残る4割は主人公一家のように先住民の言語らしい。
公用語が話せないことによる不利益。けどスペイン語は彼らの母語じゃないんだものね。

「スポットライト 世紀のスクープ」→ 
劇中印象にのこったことば。
「これ(文書)を記事にしたら、誰が責任を取るんだ?」
「では、記事にしなかった場合の責任は誰が取るんだ?」

「恋人たち」(橋口亮輔監督)→
長い(140分)映画でした。この監督の映画はいつもひとへの視線がほんまやさしくてせつない。ちょっと考え中のこともあるんだけど。
主役の篠原篤も成嶋瞳子もよかった。重い映画ながら、黒田大輔のちっちゃい目と恥しそうな笑顔、「笑うことだいじだよ」ってせりふも。それから、さいごの空の青も。しみました。

「カミーユ、恋はふたたび」→
40歳がとつぜん16歳の高校生にタイムスリップ~とかいうと、なーんだ、よくあるストーリーか、と思うかもですが。これが、よかったんです。(音楽も!)
若いってサイコー。けど歳とるのも、なかなかええもんや、と思います。

ドキュメンタリーは
「99分、世界美味めぐり」
実はこれ、途中でやめようかと思うほどでした。
ただ一箇所、料理人の作るある料理が気に入らない客が「不味い!」と言うとシェフが「あんたにはね」と返すとこがおもしろかった。 え?それだけ?←はい(苦笑)
ウチのお義母さんは、お義父さんや相方に料理をけなされると「そうでっか~ウチには美味しおます」とさらりと返してはったんを思いだしました。
この「ウチには美味しおます」と堂々と返すの痛快やなあ~と、いつも思って聞いてたんだけど。わたしはこの歳になっても、なかなか義母のようにはいきません。

「美術館を手玉に取った男」
2011年にアメリカの多くの美術館に展示されている絵画が贋作であることが発覚。画家は全米20州に渡り46の美術館を30年間騙し続けてきたんだけど、彼は作品を「売る」のではなくすべて「寄付」してるんよね。

その3)
今回も長くなりました。
最後までおつきあいしてくれはって、ほんまおおきにです。
今日はこれを聴きながら。
Beirut - Cheap Magic Inside - Cliquot→

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by bacuminnote | 2016-09-18 23:10 | 本をよむ | Comments(2)

風倒木。

▲本の少ない家だった。
父が読む活字いうたら新聞と株と、たまに仕事(料理や旅館)の本。それから旅行業者から送ってくる雑誌くらいなもんで。
あ、でも、この雑誌のなかの一冊『あるく・みる・きく』は、ほんまにすばらしくて。これをまだ小学生のわたしに「読んでみ~」と奨めてくれた父(←たまにはええこというやん)には感謝してる。

▲田舎で生まれ育って「井の中の蛙」のわたしに、日本のなかにもいろんな地方があり風土と暮らしがあること、たまに外国編もあって、世界の広さもおもしろさも知ることにもなって。
以来「近ツ」(発行元の近畿日本ツーリストのことを業者間ではこう呼んでいた)から茶封筒が届くと、わたしが一番に見る(読む)ようになった。が、この雑誌、かの宮本常一氏の発行したものと知るのは、大人になってからなんだけど。

▲あかん、あかん。また話が横道にそれてしまうから「本」に戻して。
母に至っては、わたしが物心ついてから、ゆっくり座ってご飯を食べてるとこ見たことないくらいに、仕事仕事のひとやったから。本どころではなかったはずで。かつてブンガク少女やった頃に読んだという古びた数冊が本箱にひっそりと並んでたのをおもいだす。

▲せやからね。
なぜか姉妹のなかで四女のわたしが本好きとわかると、母はこと本代だけは、いつも惜しまず出してくれた。
そうはいうても、ちいさな町のことで本屋さんに自分が読める(読みたい)本がいっぱいあったわけではなく。
でも小学校五年生になると、それまでは学級文庫という教室内にある本箱だけだったのが、ようやく校舎の一室に図書室ができたんよね。

▲できたての図書室は、今から思えば本の数も少なかったけれど。床から天井近くまである背の高い本棚がならぶ「本の部屋」は衝撃的で。もう、うれしくてうれしくて。クラスの図書委員というのには、迷わず立候補の挙手をした。
学級文庫とはちがって、図書室の本はただ並べてあるのやなくて、ある決まり事に基いて「分類」してるってことを初めて知ったのもこの年やったと思う。なんせ町に本屋さんが一軒あるだけで、図書館なんてないし、行ったこともなかったし。

▲そうそう、その図書室ができた年あたりに「親子読書運動」というのが起こって、「毎日20分親子で本を読む」という宿題が出始めたのだった。
「週間読書カード」というB5サイズを横にしたちょっと厚紙の用紙があって、親子で本を読むと日にちの下に◯をつけ、自分だけで読んだときは△、読まなかったら☓・・・と記入(たぶん)。最後に親のハンコを押してもらい、1週間の感想を親子それぞれ書く、と、そんな感じのカードやったように思う。

▲はりきってなった図書委員でもあるし(これの回収も委員の仕事やった)とにかく、初めのうちは、それでも母にうるさくつきまとって、本を読んで聞いてもらうという「親子読書」を何度かしてたけど。
そもそもそんな時間が母にあろうはずはなく(そしてなぜ「母子」なのか?とか当時は考えもしなかったから当然父に声をかけることもなく)
宿題を忘れることはあっても(!)本を読まない日はなかったけど、ほとんど毎週自分でええかげんに(ときに母の字をまねて親の欄まで)記入して、自分でハンコ押してた。
「本はすきやのに。ほんま、こんなもん誰が考えはったんやろ」と苦々しくおもってたんだけど。

▲なんとこの主唱者は椋鳩十氏であったことを『移動図書館ひまわり号』(前川恒雄著・夏葉社刊)で知った。
あとで調べてみたら【1960年代初めに鹿児島県立図書館館長であった椋鳩十(むくはとじゅう)によってはじめられた「母と子の20分間読書運動」,1960年代後半からの子どもを対象とした親子読書運動】とあって。
その後この読書運動は全国に波及したそうで。
せやったんか~「こんなもん」を考えはったんは、あの椋鳩十さんやったのか~

▲前川氏は椋鳩十氏を「日本で最もすぐれた県立図書館長の一人」とみとめ、教えを受けたことも多かったとしつつ、しかしこの運動には「ついてゆけないと感じていた」らしい。
わたしは子どもながらに、ずっと胸にのこってた「ふまん」を何十年もたって、やっと理解してもらったような気がした。
曰く
【家庭で親が子とどう向き合うかは、他人が口をさしはさむことではなく、子供がどんな本をどう読むかは、子供自身がつかんでゆくべきで、運動として強制する性質のものではない、と今でも思っている】(同書p62より抜粋)

▲いや、けど、一方ではそうとわかって、よけい納得いかず(椋さんが考えてはったことを知りたくて)もうすこし調べてみる。
わたしにとっての椋鳩十さんとは児童文学作家であり、その功績をたたえて設立された椋鳩十児童文学賞の第一回授賞者はひこ・田中さん(ファンです)の『お引越し』で、第二回は森絵都さん『リズム』とだいすきな作品でもあり。
でも考えたらそれしか知らなかったんよね。

椋鳩十氏(1905年 - 1987年)は小学校や女学校の教員をしながら作家活動をして、敗戦の2年後42歳から定年で退職するまで鹿児島県立図書館長をつとめはったらしい。教員や作家がそういう役職につくことは、珍しいことでもないのだろうけど、氏の活躍ぶりはいろいろ波紋をなげ。
例えば、県立図書館が図書を購入し、市町村立図書館やサービスセンターに貸し出すという県と市町村による図書館運営を推進したそうで。椋氏がはじめたこの運営は「鹿児島方式」とよばれて、後の図書館ネットワーク構築に大きな影響を与えたらしい。

▲敗戦後、子どもをとりまく環境をうれい、教科書以外の本も読む機会を・・ということで、「母と子の20分読書運動」を1960(昭和35)年に提唱。
子どもが読むのをかたわらで静かにお母さんが聞く、というだけやなく、ときにはお母さんに読んでもらって子どもが聞くのもよし。それに20分にこだわらなくてもいい。
親子で本の時間を共有するたのしみ。本は「母と子が共同で読む本」と「子どもが自由に黙読する本」と二種類ある・・・ということも言うてはったらしいんだけど。

▲こういう提唱者の思いは5年たって、奈良県の山間部の小学校に届いた頃には「形」だけが残ってたのか。いや、母校でも、わたしみたいに(あるいは「母」に限定された呼び方に)「こんなもん」と思ってた子どもだけではなく、この親子読書でええ時間をすごした子ども(親)もいたのだろうとは思う。

▲さて『移動図書館ひまわり号』のことに戻って。
この本は1988年筑摩書房から出た本を夏葉社が先月復刊したもので、筑摩書房刊のものは、以前岡崎武志さんが講演会で熱く語ってはったのを聞き(講演会の日のことはここにも)、すぐに図書館で借りて読んだ。(このときは何故か「親子20分読書運動」の記述のこと気がつかなかったんよね)日野市でたった一台の移動図書館から始まり、日本中の図書館に影響をあたえた、前川さんや職員たちの「たたかい」の記録だ。

▲この本を読んでいるとき、何度も自分と図書館のことを思ってた。
ケッコンして、やがて街から田舎暮らしへと移行してからは本屋からも図書館からも遠ざかってしまった。引越し先はどこも図書館のない町(村)で。それでも本を借りることのできる場所をそのつど、役場(教育委員会の管轄だった)に出向いて聞いたりもした。

▲どこでも一応「図書室」やそれに準ずるものは用意されていて。聞くとすぐに子どもを連れて訪ねてみたけど。「あかずの間」のような部屋を開けるとカビ臭く、薄暗いなか電灯のスイッチを入れる。古びた◯◯全集があるかと思うと、となりに「ん?」と思うような流行り本が混じってたりして。棚の隅には未整理の(たぶん)段ボール箱が積み重ってたり。「ごゆっくりどうぞ」と職員さんがにこやかに鍵を手渡してくれたけど、長居しようとおもえる場所ではなかった。

▲いまのようにネットで簡単に本が入手できる時やなかったし、それにもちろん経済的な問題もあり「読みたい本すべて買う」わけにもいかなかったし、図書館のある町がしんそこ羨ましかった。
滋賀県愛知川(えちがわ)のころは、はるばる大津まで遠出して県立図書館に一ヶ月に一度行ってたけれど、それよりうんと近い隣市の八日市(現・東近江市)の図書館は市外の住民にも貸してもらえると知った。

▲親子三人で、八日市にかけつけた日のことは忘れられない。
庭には高さ15mほどもあるメタセコイアがうつくしくそびえ立っており、息子が何度も木登りを楽しんだ低木(なまえ失念!)があり、中に入るや明るくて広いフロアには低めの棚が並んで、これまでの図書館の重厚な雰囲気とはまるで違って、開放的でびっくりした。

▲以来、車で、ときに自転車3台つらねて図書館通いが始まった。
そうそう『移動図書館・・』の著者前川恒雄氏は、日野市での活躍の後、1980年滋賀県立図書館館長となって、滋賀県の図書館を活性化した方で。この八日市図書館もその振興策を受けて1985年に新しくスタートしたそうだ。館長の西田博史さんを中心にスタッフのひとたちも皆さんほんとうにすばらしかった。

▲1階入り口の壁面では企画展があって、今これを書きながら思いだしたんだけど、当時わたしが毎月出していた手書きコピーの通信「ばくばく」も家族新聞の企画展のおり展示してもらったことがあったっけ。
2階にはギャラリーや珈琲をのむコーナーや本のリサイクルコーナーもあって。行くと親子バラバラにすきなところに散らばり長居したものだ。
そうそうギャラリーのなまえが「風倒木(ふうとうぼく)」というんよね。

【森や林の中を歩くと、風に倒された巨木が横たわっていますが、これを風倒木といいます。これは永い年月を経て徐々に土に同化し、やがて次世代の森を育てる土壌ともなります。画一管理された人工林には存在しません。
風倒木があるということは、多産で自由豊穣な森であることを示します。これからの人間社会もこの森のように多様で豊かなものにしていきたいという願いが込められています。】
(風倒木ギャラリー 八日市図書館HPより)

▲椋鳩十さんの運動も、前川さんや、西田さんがしてきはったことも、風倒木みたいやなと思った。
それやのに。
有名無名にかかわらず多くの図書館人たちの変革をよびかける声、その熱い思いや、こつこつ積み上げてきたもの、ようやく豊かになってきた土壌の上に建った図書館がいまは「退行」しつつあるのは何故か。

▲『移動図書館・・』のあとがき「復刊に際して」で前川氏が、かつての日野市の職員に【一人一人の手を取ってお礼を言いたい】を綴ったあとこう言うてはる。

【ここで強調したいのは、職員がどんな苦労もいとわず働いてくれたのは、何といっても利用者が喜んでくれたからである。自分のしている仕事の意味が、利用者の笑顔によって示された時、職員は充分の力を発揮する。私が最も感謝しなければならないのは、日野の市民である。その上で職員が仕事に打ち込めるためには条件がある。それは職員の身分が安定していること、将来に希望がもてること、つまり非常勤職員ではないことである。】(p251)

【数年前から、図書費が全体として削られ、職員の中、非常勤職員が六割に達するまでになっている。(中略)だが、現在、図書館最大の問題は委託である。政府は指定管理者制度をつくり、委託を勧め、マスコミもこれを後押しした。委託された図書館では、職員は殆ど非常勤であるから、使命感は喪われ、長期の展望をもっての仕事はできず、職員は育たない。】(同書p253より抜粋)

▲この本ぜんたいに流れる前川氏の誠実さと怒りに共感する。
かつて某市会議員が著者に言ったという「みんなをあんまり賢くしてもらうと困るんだよなあ」(p152)を思い出す。権力をもつ者が怖がってるのはこれやよね。

【人々が賢くなり知識を持つことを恐れる者たちが、図書館づくりを陰から妨害する。自分の貧しい精神の枠内で人々を始動しようとする者たちが、図書館の発展を喜ばず、人々を図書館から遠ざける。】
(p152より抜粋)

そして、いま、この「図書館」というのを「政治への関心」に置き換えてもまた、と思うのだった。



*追記
その1)
滋賀から信州への引っ越しが決まったとき、荷物を少なくするため、というのもあって、
相方とわたしの本の中から八日市図書館になさそうなものを選んで、車で何度か運んで、貰ってもらいました。
引っ越し前にいただいた館長と職員全員の寄せ書き ”新しい旅立ちの門出をお祝いいたします”は、たからもの。
西田館長が「本屋も図書館もない村で活字中毒が治るといいですね」と書きつつ「開田村から一番近くの図書館は楢川村ですよ」と教えてくれはったのですが。
あれから25年。あいかわらず活字中毒は治らず。はからずも今は図書館のあるまちに住むようになって、案の定ヘビーユーザーで。だからこそ「退行」は許せません。


その2)
おもしろかった本。
『くらべる東西』→まあ、西と東だけやなく(←「西」が先にくる関西人・・苦笑)各地いろんな流儀があって。その「ちがい」よりも、何故そういうことになったのか、というとこが興味深いです。
まさに『あるきみるきく』の世界やよね。

その3)
きょうはこれを聴きながら。
LOLA ARIAS Y ULISES CONTI - LOS QUE NO DUERMEN - TRAILER→
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by bacuminnote | 2016-08-03 14:16 | 本をよむ | Comments(4)
▲誕生日がきて、母はこのあいだ93歳になった。
あちこち痛いとこや、ツライとこもあるようだけど、なんとか元気に暮らしてる。
病院に行っては(「痛い」「しんどい」とお医者さんに訴えても)「まあ、けど◯◯さん、もう歳やからなあ」とソッコウ返されて「ちゃんと話聞いてくれはらへん」とぷりぷり怒ってる。(そのわりには、医師には遠慮して「怒る」なんてとてもできない世代でもある)

▲おもしろいもの見つけると「買う」のではなく、まずは、家にあるもんを使って自分で考えて「つくる」のがうれし、たのし~の工作好き。
最初はまねっこでも、そのうち、けっこうちゃんとしたものを作って「え?ほんまに自分で作ったん?」と娘にびっくりして(ほめて)もらうのがすきなひと(笑)

▲けど、いつやったかの工作~古いハタキの竹の棒を使った鉛筆接ぎ器には、さすがに辛口の娘(!)も唸った。短くなった鉛筆を捨てられないのも母らしいけど、竹の空洞部に鉛筆を差し込む、というありそうでなかったアイデア(笑)と、あの歳で竹の棒をノコギリで切るやなんてね(ノコギリなんて、わたし 何十年も持ったことないし・・)参りました。

▲そんな母の誕生日に、毎日一ページずつ、っていう漢字ドリルと、きれいな一筆箋やはがき(もう長い手紙は書けないというので)、ピンク色のファイルなど文房具セットを贈った。
ドリルが一日一ページでは物足りない(!)きれいなものかいらしいものに心ときめかせる母よ。オメデトウ。

▲そして、今日もまた夕ご飯拵えながら電話。
「暑いなあ」から始まって、お互いの痛いとこの話。それから、わたしがいま読んでる本のことや、今日は沖縄・高江で起こってることの話もした。以前は話の中にわからないことばが出てくると「ちょ、ちょっと待って。いまメモするし。もう一回言うて」と、即 書きつけてたようだけど。この頃は「そうかぁ。もうわたしには何が何か、ようわからんわ」と、ため息をついてる。(←それはわたしも一緒。ほんまむちゃくちゃやもん)
あ、そうそう。昨日旧友Jに会うたことも、もちろん報告する。

▲そのむかしは「あんたも、あんたの友だちも、みな変わってる」とつめたい母(苦笑)やったけど。わたしや「変わってる」と称された(すまん)友だちもみな歳とって、それなりに落ち着いたからか、この頃は「そら、まあ、ちょっと変わってるけど。みな、かいらしい、ええ子や」と評価が変わったんよね。
で、Jはその「かいらし、ええ子」の筆頭ってわけだ(笑)

▲友だちといえば、母にはいまも交流のある小学校と女学校時代の友だちが二人いて。
「あの子ら(←いつまでも少女!)かれこれ80年ほどのつきあいですわ」~なぁんてすまし顔で言うてるのを聞くと「おお80年 !! すごい~」と思う。
わたしも旧友たちとのつきあいをいつの日かすまして誰かに告げてみたい。
「わたしら、もうかれこれ80年ですねん」ってね。

▲いや、そうはいうても、80年になるにはまだ40年もあるのだった。すると母が笑いながら返してきた。
「そんなん~40年ぐらい じきでっせ」

▲さてさて。
このごろ朝早く目が覚めると、寝床でそのまま本を読んでいる。蝉の鳴き声はにぎやかやけど、小鳥の囀りも、涼しい風も心地いい。
今日はそんな寝床読書の『湯かげんいかが』(森崎和江著 東京書籍1982年刊) をようやく読み終えた。

▲著者が生まれた朝鮮でお風呂の思い出、まだお風呂に浸かるというのが贅沢だったころの話、炭鉱町や農村での共同風呂の話・・・。
とりわけ心に残ったのは著者がまだ炭鉱をよく知らなかった(昭和)三十年初期のころ。炭鉱住宅地の共同ぶろに知り合いに連れて行ってもらったときの話で。

▲お風呂の中で「女たちは誰も彼も恰幅がよく、よくしゃべる」大音響の湯けむりもあって、彼女は知り合いともろくに話もできず、落ち着かない。
そのうち、そのひとが湯を汲んできてくれたものの、どの辺でしゃがんだらいいものやら~それさえわからず、とりあえず湯桶のそばにしゃがんだとき。

▲【突然、ざぶりと背に湯がかけられた。
「洗うちゃろう。背中は自分ではよう洗えんもんね」
よくひびく声だった。肩に手をそえ、
「人にこすってもらうと気持ちよかもんね」
泡立つタオルでごしごしと洗われ出した。連れ立って来た女ではない。彼女は湯舟に入ったところだった。わたしはふりかえることもできずに、「すみません」と言った。
しっかり力をいれて、ていねいに洗ってくれる。脇腹も腰もお尻までごしごしとタオルは泡をとばした。
「洗うのも要領のあるもんね。撫でるごとそろそろ洗うたっちゃ音は出らんばい。音の出らにゃ気持ちようなかもんね」】(同書p36「わたしのふろ」より抜粋)

▲やがて、そのひとは石鹸の泡を流してくれて、やっと著者が首をまわし、こんどはわたしに洗わせて、と言ったら
【「よかよか、あたしゃもう洗うてもろうた、上がるとこたい」すたすたと上がり湯へ行った。】 (同書p35~37より抜粋)

▲【老いた人びとの話を聞いてわかってきたのは、大半の人びとが住み慣れた村を糧を求めて出て、各地の炭鉱を転々としていたということだった。(中略)
いわば、古い村と別れて。人びとのいやがる地底の苛酷な職につき、各地から集まった者で新しい村を作り出したわけだった。第二に村づくりには血縁地縁の論理とは別のものが軸になっていたのだ。その論理を越えて直接個人の人間性にふれることがここでは大事だった。湯に沈んでるわたしの心はいつまでも大きくゆれていた。あの人はわたしにたいへんなものを残して消えた。】(同書p39より抜粋)

▲読みながら、わたしも著者の横で、半ばおろおろ、半ばそわそわしながら共同風呂の隅っこにしゃがみこむ。わんわん響く女たちのおしゃべりの声も、湯気でくもった浴場も。脱衣場で裸で走り回る子どもらの姿も、すぐ目の前に浮かぶようだった。

▲そういえば。
信州で暮らしてた頃、大阪から相方の両親が訪ねてくると、きまって村営の温泉に皆で出かけたんだけど。
いつだったか女湯に義母とふたり入って、蛇口のまえで横に並んで顔を洗ったあと、からだを洗おうとタオルに石鹸をつけたとき、義母がとつぜんわたしの後ろにまわって「背中流したろ」と言わはった。

▲森崎さんやないけど、そういうときって、とっさにお礼のことばは出てこないもんで。何よりも、びっくりしたのと、恐縮する気持ちの方が先で。わたしも(森崎さんのように)「すみません」と言うのがやっとだった気がする。わたしはまだ三十代だった。
こういう場面では「おかあさん、背中ながしましょうか」とか、わたしが先に言うもんなんやろか?それって小津の映画の頃の話ちゃうん?(そもそもそんな場面が小津の映画にあるのか?)・・・と瞬時に頭の中が!?でいっぱいになったんだけど。

▲されるがままに、ごしごし大きな背中(!)を洗ってもろて、そんなことは、子どものとき以来かもしれなくて。とてもきもちよかったんよね。
「ひとに洗うてもろたらきもちええやろ」と義母が言うて。ほんまやなあと思った。
仕上げにざあざあとお湯をかけてもろて、
「ほな、こんどはわたしが」と、義母の後ろにまわったのだった。

▲去年誕生日の1週間前に遠いとこにいかはった義母もまた、7月は誕生月だった。
ケッコンしてから毎年7月になると、いちばんにカレンダーにふたりのおかあさんの誕生日◯印をいれてたんよね。
35年の間には(あたりまえのことながら)うれしいこともつらいことも、ほんまにいろんなことがあったけど。
あの日 背中流してくれはったことわすれません。おかあさん ありがとう。


*追記
その1)
森崎和江さんプロフィール~藤原書店HPでの紹介

その2)
この間図書館で借りてきた本。
母と子でみる『「白バラ」を忘れない 反戦ビラの過去と今と』(早乙女勝元 著・久保崎輯 絵 草の根出版会2009年刊)【「白バラ」とは、学生たちによるナチス・ドイツへの抵抗運動のビラの名で、その運動グループの呼称です】表紙の絵はゾフィー・ショル。

この本のシリーズ「愛と平和の図書館」は、とてもいい本揃いです。こういう本に会うと、いつも思うことは、出版の本来の目的である、子どもたちに読ませたい、読んでもらいたい~という思いは、どうやったら届くのかなあ~ということです。
子どもではないおばちゃんが借りてきてすんません~と思いながら。((←これは古書店のHP、目録です)

以前観た映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』を思いだしています。
予告編

その3)
『移動図書館 ひまわり号』(前川恒雄著)が夏葉社から復刊されましたこの本のことはまた次回書きたいと思います(つもり)

その4)
沖縄・高江~
琉球朝日放送・報道制作部(7.22 18:35)のこの記事(とくに一番下の動画)ぜひ→

その5)
きょうはこれを。
わたしも、このなかに入って風にふかれながら聴きたい。
Patrick Watson - Piano des villes, piano des champs→

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by bacuminnote | 2016-07-23 19:38 | yoshino | Comments(2)
▲母に電話しよか、とおもうのはたいてい夕暮れ時だ。
買い物にも行って、洗濯物とりいれて、お米もしかけて。ちょっと一杯(!)を始めたころ。
母の方は、デイサービスに行って来た日なら、帰って来てごろんと横になってひと息ついてるころ。どこにも行かない日は、あーあと退屈している時間帯。
せやからね。

▲その時分ねらって、だいどこでお湯沸かしながら煮物しながら「今日はええ天気やったなあ」「暑いなあ」「で、どない?」とか~そばにいるみたいに話しかけて。
返ってくる第一声がその日の母の調子を現している。
「まあまあでっけどな。なんとかやってますぅ」と明るい声のときも、「それがなあ、あかんねん」から始まって、あとは堰を切ったように体や足腰の不調や日々の愚痴のエンドレスな日もあって。「かけんといたらよかったなあ」とおもうこともあるんやけど。

▲そんなときにも話題が吉野の料理のことになると、このかた、とたんに声のトーンが上がるんよね。受話器のむこうで、“ごろーん”から“しゃきーん”に~きっと背筋まで伸びてるんやろなあ、と母のはりきりようが浮かんできて、わたしもうれしくなってくる。

▲そうして改めて、やっぱり長いこと厨房に立ってきたひとやなあと思うのだった。(→)この間はツイッターで思いもかけず「ゴリの甘露煮」の話が出たので、さっそくその話を。
わたしの生まれ育ったまちにも、昔は川の魚を専門にとる人が何人もいてはって、鮎やゴリキ(「ゴリ」のことを吉野ではこう呼んでいた)がとれると、ウチや他に当時は何軒もあった旅館に売りに来はった。

▲「ゴリキは死んでしまうと味もおちるし、炊いてもぺしゃんとして身が割れるし、活きている間に炊かなあかんから、忙(せわ)しないことやった」と母は懐かしそうに話し始める。
バケツから笊にあげたゴリキはぬめりをさっと水で流し、調味料がくつくつ煮立ったとこに一気に投入。これ書いてるだけでも、そこらじゅうに甘辛いええにおいが広がるようで、魚好きのわたしはごくんとつばをのむ。

▲ゴリキの甘露煮や山蕗の佃煮に、とよく使っていたこの古い大鍋(直径50cm~深さ30cm近くある。いまもゲンエキらしい)も、その前に立つ母の姿も、よく覚えている。
いつもあれもこれもしながらの作業やからね、たまに焦げ付いた大鍋が水はって流しに長いこと置いてあったりもして。
鮎料理では氷割るのにアイスピックで手ぇ突いたり・・。病気で寝込むことはなかったけど、そそっかしい母はケガもよくしていた気がする。

▲娘時分はろくに包丁も持ったことのない「オットリした性格やった」(自称)らしいけど。ほんまやろか。
ぴんぴん跳ね回る大きな鯉やうなぎまで料理してたのに、よく大怪我しなかったことやと思う。何より、母ひとりに忙しい思いさせて父(調理師やのに)は、いったい何しててんやろ?と、昔話に登場するたびブーイングの的は亡き父となるのであった。

▲さて、
その日は相方と夕飯食べながら、さきに電話で聞いた母のゴリキ話から、わたしの子ども時代、吉野川周辺が賑やかやった夏の話になって。
夕方から出る鮎舟も、(→)そうそう鵜飼もしてたことがあったんよ~というと、「鵜ってたいへんやのに誰が世話してはってん?」と相方。そういうたら、誰にでもできることやないよねえ~ということになって、再び母に質問の電話をかけた。

▲「わたしにわかるかなあ?」とか言いながら、どんどんパワーアップして頭もフル回転の母。
当時商工会が中心になって吉野川で鵜飼を始めようということに。最初は岐阜・長良川から鵜と共に鵜匠に夏の間滞在してもらっていたことなど話してくれた。
高度成長の波もあり、春だけでなく夏にも吉野を訪れる観光客も多くて。そのころは何か新しいことをやってみようという気概に町全体が満ちてたんやろね。
そうして亡き父もそんな人たちの中の一人で、アイデアを出してはいろんな交渉に走り回ってたらしいと知る。(せやったんか~おとうちゃん、ええとこもあったんや)

▲結局5年ほどで鵜飼はおわったみたいやけど、鮎舟はその後もしばらくの間続いていたと思う。ウチが旅館をやめたのは(→)もう少し後のことになるんだけど。そして、それからも厨房のひとであり続けたんだけどね。
「どっちにしても、みんな昔話になってしもたなあ」と母がさみしそうにわらう。
働いて働いて、座ってご飯食べてるところを見たことがないほど、忙しくしてきて、「昔はよかった」なんてことはない、と思うのに。

*追記
その1)
これを書く前にちょっと調べてたら「ゴリ」と各地で呼ばれている魚にも色んな種類があることを知りました。
広島市水産振興センターのサイト『ゴリと呼ばれる魚たち』→によると、吉野川(川底)にいたのは”カワヨシノボリ”という魚のようです。

「ゴリ」はその漁法(むしろやかごを仕掛けた方向にゴリを無理やり追い込む漁)から「ゴリ押し」の語源になったとも言われているらしい。
食べるばっかりで(!)こういうこと全然知らんかったなあ。
そして、
ひとつわかると、またひとつわからないことが出てきて。
おかあはん、せやからね。聞きたいこともいっぱいあるし、まだまだ元気でいて、夕方の電話の相手してください。

その2)
郷土の料理というと『聞き書き 奈良県の食事』という本を(そして、その本の中にジッカから資料提供していることも)三度笠書簡のわこちゃんに教えてもらいました。
吉野の鮎漁(あい、と地元では発音)のページに載ってるおっちゃんは、子どものときからよく知ってる方で、久しぶりになつかしく眺めました。

そういうたら、手元に『大阪府の郷土料理』→(上島幸子・東歌子・西千代子・山本友江 著 同文書院1988年)という本があります。
帯には【”まあ、おいしそうやこと”  先人の心と技と知恵が生んだ味を、多くの人から掘り起こし、科学して伝えたい! 】とあって。こういう感じの本に「科学して」とあるのに、びっくりしつつ、しびれます。

今回改めてゆっくり開いて、そのていねいな説明ときめ細やかな取材におどろいています。
大阪いうたら、たこ焼きとお好み焼きやと思われがちですが、なかなか、さすが食の大阪~知らんかったこともいっぱいで、上記の聞き書きの本と共に、とても興味深い一冊です。

実はこの本、著者のおひとりは、わたしが十代のおわりに京都で下宿していたお家の方です。そのころも大学に時々教えに行ってはる、と聞いていましたが。当時小学生だったお子さんやおじさんが寝てからも、夜おそくまで、おばさんの部屋に灯りがついていたのは、講義の準備や研究をしてはったんやなあ。

その頃、はねっ返り娘でわるいこと(ん?)ばっかりしては、おばさんを怒らせたり ひやひやさせてたわたしでしたが、いつも温かくだいじにしてもらいました。そしてその後も「忘れられへん子やった~」(!)と、この本が出たときも贈呈してくださったのでした。感謝。
長いこと連絡してないけど、おたよりしてみよう。

その3)
今回書けなかったけど読んだ本のメモ。
『村に火をつけ、白痴になれ  伊藤野枝伝』(栗原康著 岩波書店2016年刊)→
『群像6月号』群像新人賞「ジニのパズル」(崔 実(チェ・シル))
『ハイスクール1968』(四方田犬彦著 新潮社2004年刊)

その4)
この間みつけた絵本(だいすき!)『ぺろぺろキャンディー』(ルクサナ・カーン 著 ソフィー ブラッコール絵 もりうちすみこ訳 さえら書房刊)の原本の朗読。かわいい!
”Big Red Lollipop”→


その5)
いつものことながら、だらだら長くてすみません。
今日はこれを聴きながら。
Ry Cooder - How Can A Poor Man Stand Such Times And Live →

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by bacuminnote | 2016-05-26 16:08 | yoshino | Comments(6)