いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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ひきだしをあける鍵。

▲蝉の大合唱と、パジャマの襟の汗のつめたさに、今朝もアラームの鳴る前に目が覚めてしもた。夜中には暑いのとトイレで何度も起きたから。寝不足でぼぉーっとしながら雨戸を開けたら、思いがけず涼しい風がすいーっと束で入ってきて、ああ、ええきもち~と深呼吸ひとつ+大あくび。

洗濯物を干していたら、百日紅の花がいっぱい咲いているのに気がついた。

前は、昔の絵葉書みたく濃い青空を背景に、やっぱりつよい色調のピンクの花が苦手やったから。なんでお義父さん、こんな木植えはってんやろ~と思ってたんやけど。いつのまに、いつからか、気になる花になって。
「さみしさは空の青色さるすべり」(拙句なり~)

そういうたら、いま読み始めた『俳句と暮らす』(小川軽舟著 中公新書)の冒頭「金盥(かなだらい)傾け干すや白木槿」(軽舟)の一句のあと、「俳句とは記憶の抽斗を開ける鍵のようなものだ」ということばに、そうそう!と声をあげる。この白木槿からも、ウチにもあった木槿の~高いとこで咲く花をいつも首をぐっと伸ばして見上げてたこと。根腐れして植木屋さんに切ってもらった日のこと。義父のすきだった木槿や百日紅の花や俳句・・と抽斗の中にいろんなものが詰まってたことに、この一句から気づく。

▲さて。
大阪の日中の暑さは日々もうハンパなくて。いつも通る歩道橋でも立ち話してる人はだれもいない。顔見知りに出会っても、みなさん立ち止まることもなく「暑いねえ」「ほんまになあ」で済ませてはる。きもちのええ季節やと「もうちょっと隅でしゃべって~」と思うほど、老若男女「立ち話のスポット」(苦笑)なんだけど。


信号待ちの横断歩道では、じりじり照りつける暑さに堪えてか、口をぎゅっときつく結んでる人、あくびしてはる人。そんで、そんな知らない人らにさえ、つい「たまりませんねえ」と同意を求めたくなるような(実際求められることも時々ありマス)毎日である。ということで、こころから暑中お見舞い申し上げます。

そんなどこにも出かけたくないよな暑さの中、この間ひさしぶりに隣町のレンタルショップまで足をのばした。

『みかんの丘』(ザザ・ウルシャゼ監督)と『とうもろこしの島』(ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督)は上映時に行けなかったので、二枚とも棚に見つけて小躍りする。そして、これまたひさしぶりに、フウフで(各自!)鑑賞のあと、食べながらのみながらの感想大会となった。

映画のチラシには二作とも「世界は閉じたままで、いまだに出会うことがない」と大きな文字が入る。どちらも簡単に言えば傷ついた兵士を匿って世話をすることになるんだけど。戦争に「簡単に言えば」はなくて。つねに複雑で理不尽で不条理の世界だ。

▲どちらも、深くいい映画だったけど、きょうはそのタイトルからもよい風の吹いてきそうな『みかんの丘』の感想を書いてみようとおもう。この映画は木工の場面から始まる。
ジョージア(グルジア)のアブハジア自治共和国でみかん栽培の村は、エストニア人の集落だったが、ジョージアとアブハジアに紛争が起きて、殆んどの人たちは帰国。居残ってみかんの木箱を作るイヴォ(これが冒頭の場面!)と、みかんの収穫をする友人のマルガス。

ある日彼らは家の近くはげしい銃撃戦で負傷した二人の兵士(亡くなった人たちには、土を掘って埋葬する)を、自宅に連れ帰り手厚く介抱する。

この二人の兵士、一人はチェチェン兵(アブハジアを支援)のアハメド、もう一人はジョージア兵のニカ。

瀕死のときは、まさか同じ家に「敵」がいるとは知るよしもないけれど、少し怪我が落ち着いてきてそれを知ったとたん、お互いに殺意をむき出しにするのだった。そこで、イヴォはこの家の中では絶対に戦わせないと宣言。

画面のむこうのやりとりを見ていると「敵」って何なんよ?と滑稽ですらあるんだけど。それでも、ちょっとしたこと(本人たちには「ちょっと」ではないのだろ)で、文字通り一触即発状態が続く。

マルガスには、とりあえず今はみかんを収穫したいという理由があるものの、イヴォの家族はすでに帰国しているようなのに、なぜ彼はひとりこの地に残って、みかんの木箱を作り続けるのか~よくわからないまま物語はすすみ、終盤アブハジアを支援するロシア兵たちがやってきて、また銃撃戦が始まる。


採る人をなくした鈴鳴りのみかん。死んでしまったひと。遺されたひと。少しずつ解ける謎も、やっぱりわからないままのことも。最後はみかんの黄色が悲しみの中でわずかに希望のようにも感じる。

わたしはずいぶん前に観た『ククーシュカ ラップランドの妖精』という映画を思い出していた。この映画も夫をなくし一人暮らしのサーミ人の女性が、それぞれの事情でそこに置き去りにされたフィンランド兵とロシア兵を助ける話だった。

大きなちがいはククーシュカ・・の三人は言葉もフィンランド語、ロシア語、サーミ語と、まったく通じなかったこと。勘と諦めの中で(あとセックスが介在すること。これがじつにおおらかでええ感じ)ぶつかり、わかり合えないながらも奇妙な三人の共同生活が始まって、(ここにも少し書きました)そして最後はそれぞれの地に戻ってゆくんだけど。

いつも思う。そう簡単にはいかん、ともうひとりのわたしが強く言うんだけど。ひととひとは仲良くわかりあって暮らせるのが一番。でも、その難しさは夫婦だって親子だって、そうそう簡単なことじゃないことぐらい皆わかってる(はず)。まして育ってきた環境も言語も宗教もちがえば、当然価値観も大きく変わってくるだろう。

それでも。
あるキョリを持っての暮らしなら、多少のぶつかり合いや揉め事もありながらでも、やっていけるんやないか~と。じっさいやってきた歴史があるんやないか、と。世界が開けるときがあるんやないか、と。いちばんの問題はいつもそこに他所から「介入」してくる大きな力が在ること。そこに支配や搾取や権力が大きな顔して居座ること。

「王様のなんにもしない涼しさよ」(火箱ひろ)

*追記

その1)

わたしは2010年からはじめたTwitter~すてきでおもしろい友だちといっぱいであえました。で、つねづね「北の友」と呼んで、リスペクトしている(けど、まじめな話から昔からの友だちのように映画に本に音楽に・・と、なんでも話してる)詩人 番場早苗さんがこのたび個人誌『恒河沙』(ごうがしゃ)を発刊されました。


その中~34頁にわたる論考「砂州をこえて 佐藤泰志「海炭市叙景」論」はわたしたちが知り合うきっかけにもなった『海炭市叙景』(佐藤泰志著)についての力強い、そして彼女ならではの視点(くわえて同時代に佐藤氏とおなじ砂州の街で生まれ育ったひとの眼)で丁寧に綴られた力作なのですが。


あろうことか、わたしにも「なにか」とお声がけくださって。

からだはデカイがこころは極小(ほんまです)のわたしは尊敬する番場さんの誌面をわたしなんかが・・・と後ずさりしつつも、このブログの続きみたいな感じの一文「映画の時間」というエッセイを載せてもらいました。


くわえて。

十代のおわりからの長いつきあいで、ふだんはあほなことばっかり言い合うてる旧友で漫画家うらたじゅんが、同誌にとびきりの絵を。彼女のひさしぶりの白黒の絵は、架空のまちの映画館ナポリ座と市電とチャンバラ好きのこどもらが、こちらに語りかけてきます。そんなにぎやかな声まできこえてきそうな温かな、うらたじゅん渾身の一枚であります。


そんでまた、たまたまなのですが。
今月からその
うらたじゅん個展が、番場さんのホームタウン函館で開かれるという。件の映画館の原画も展示されるという・・・

いやあ、ほんま ひととひとが出会ったときにおこる波は刺激的でうきうきします。波というのは、うまく、たのしく乗れるときばかりやないけど。波乗りはやっぱりおもしろいです。(ほんまの波乗りは未経験!)

『恒河沙』 ~すてきな表紙絵は作家 吉村萬壱氏によるもの。


その2

『真ん中の子どもたち』(温又柔著)読了。

残念ながら芥川賞受賞にはならなくて。別にとれなくてもええやん(すみません!)~とか思ってたんだけど。発表後温又柔さんのツイート読むと、せやなあ。取ってほしかったなあ、と改めて。

【日本語は、私たちの言葉でもある。日本は、私たちの国でもある。政治家がそれを言えないのなら、小説家の私が言う」。今夜、テレビで、そう言いたかった。それが叶わなかったことだけが、少しくやしい。だからこそ、これからも書き続けます。今までと変わらず。だれに頼まれなくとも!

その3

きょうはこれを聴きながら。

『みかんの丘』で流れてた曲。 しみじみ いいです。

niaz diasamidze - mandariinid (soundtrack)→


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by bacuminnote | 2017-07-23 21:51 | 映画 | Comments(2)