いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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▲もう5月だというのに、朝晩の家の中はひんやりとつめたくて。

パジャマ姿で起きてきた帰省子は(←これ、夏の季語らしい)「この家、ほんま寒いなあ」と首をすくめてウインドブレーカーのファスナーを上まであげる。
というわけで、わたしも相変わらず冬とあんまり変わりない格好のまま過ごしているんだけど。

ひるま買い物に出て、ウインドウに映った自分の冬っぷりに苦笑。いやいや、季節の先取りは若いひとらのもの。わたしは「ぬくい」がいちばんいちばんと背筋をぴんとのばしてみる。
そのくせ、帰り道の上り坂では汗ばむほどで。ほんま今時分の一日の温度差の大きいこというたら。風邪ひかんように気ぃつけんとね。

春になると早足でいってしもた友人らのことを思い出したりして。待って待って待ちかねたはずの春は、しかしいつもすこし憂鬱だ。くわえて寄せては返す大波小波。

そんなこんなで、こどもの頃すきやった爪楊枝の先でつついたら、ぷちっと弾けるまぁるい羊羹みたいに、ここんとこ「きんきん」なきもちを持て余し気味なんだけど。
あかんあかん~ごちゃごちゃ思うてないで、熱いお茶でもいれて、くるんと剥けた羊羹をぱくりと食べようやないの。

▲このあいだ図書館の児童書コーナーで、お年寄りの写真が表紙の絵本と目があった。その本『さいごまで自分らしく、美しく』 (写真・文 國森康弘 農文協)副題にはともにすごした「夢のような時間」とある。

表紙の老婦人は清子(せいこ)さん。夫を癌でなくしてから自宅でひとり暮らしをしていたんだけど、やがて介護が必要になって、娘さんの空美(ひろみ)さんらが週一回泊まりに来るようになり、とうとう2階に一家で越して来てくれる。

余談ながら「空美」という名前はお母さんの清美さんが出産のとき、お父さんが「助産師さんを呼びに走りながら見上げた夜空があまりにもきれいだった」からやそうで。このエピソードからも、仲のよいご夫婦やったんやろなあと想像する。
老いてなおチャーミングな清子さん~若いときは「銀座のOL」で。職場で出会ったおつれあいは、満員電車で押しつぶされそうな清子さんを守ってくれたそうだ。

空美さんは脳梗塞で半身まひしたお母さんの介護をする生活になるんだけど、仕事や家事をしながらのお世話が、だんだん大変になってきて。もう無理かも、というときにホームホスピス『楪』 (ゆずりは)の存在を知るんよね。そうして「楪」へのお母さんの入居が決まる。

「ここにきたときは、家を追い出されたように感じたわ」
「あたしのパンケーキがくずれていただけで、職員さんに文句いっちゃった。胸の奥でね、言葉にできないいろんな気持ちが、ぐるぐるまわっていたような・・・」
清美さんはそのころを振り返ってつぶやく。

人見知りはするし、人前でむじゃきに笑うのも苦手なの」

「気むずかしい人と、思われてるかもしれないわね」

初めて「他人と暮らす」毎日。けれど、そんな共同生活の中で清子さんは喜代子さんというかけがえのない友だちを得るんよね。

年老いて「出会えた」友だちとは「娘にいえないことまで話しちゃう」関係に。ふたりが話し込んでる写真は、ほんまにええ感じ。いくつになっても友だちってええもんやなあ。よかったぁ。よかったですねえ~と声をかけたくなる。

でも、そんなふたりにも別れの日は来て。
ねむる喜代子さんの手をにぎり「もう、お別れしなくちゃならないの?」と洟水の清子さんの写真がつらくてせつなくて。図書館ということもわすれて立ったまま泣いてしもた。
やがて清子さんも、とわのねむりにつく日が来て。娘の空美さんが狭いベッドに添い寝する姿に胸がつまる。

▲図書館からの帰り道も、家に着いてからも、この本の写真やことばが忘れられず、翌日もまた図書館に。おなじシリーズの『月になったナミばあちゃん』~「旅立ち」はふるさとでわが家で~も見つけて二冊借りてきた。

『月になった・・』は、かつてわたしらがパン屋をはじめた滋賀・愛知川(えちがわ)の、川の最上流にある君ヶ畑という集落で生まれ育ったナミばあちゃんが、ひとり暮らしの後、娘さんの家にひきとられ、ふたたび君ヶ畑に戻って旅立つまでの記録だ。

▲歳とって人生最後の住処が施設でもふるさとでも。見守ってくれるひとが娘や息子でも、友人でも、他人であっても。ふたりのおばあちゃんのお顔の清らかなこと。

この写真絵本をこどもたちはどんなふうに見るのだろうか。
生まれてやがてはだれもが死んでゆくひとの一生を、わたしがちいさかった頃みたく、こわいような物語の世界のような温いような冷たいような、ふしぎな感覚で読むのかなあ。

▲いや、そのまえにわたし自身が経験することであって。

そう思うと、ふだんは「じきおむかえがくるの、こないの」「おとうさんがなかなか来てくれへんし」とか、母と冗談言い合って大口開けて笑うてるくせに。本を読んだあと、胸の底からゆさぶられてる自分にちょっと戸惑うている。おとうさん、呼びにくるならゆっくりにしてね~

【いつか死ぬ。それまで生きる。】
『父の生きる』伊藤比呂美著 光文社刊 ~帯の惹句(以前
ここにも)



*追記

その1)
清子さんと喜代子さんの友情はやがて、喜代子さんの娘・恵子さん、そして空美さんと恵子さんの関係もいたわりあう仲になったといいます。このあたりのお話は10巻におさめられてるそうで、ひきつづき読んでみたいです。→

その2)

前回につづき、あまり本も読めていないのですが、「待っててね」とねかせてる(!)本を何冊か書いてみたいです。
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』115号の「親になるまでの時間」(浜田寿美男著)『ちいさい・・・』(略して「ち・お」といいます)の発刊は息子2がうまれた年なので、よく覚えています。それまでにない雑誌だったからです。育児雑誌というのはあったけど、こどもをとりまくいろんなひとたち、親や保護者も、そうではないひとたちも共に考える雑誌やったから。

今回はだいすきな古書店カライモブックスの奥田直美さんが編集人となった記念すべきリニューアル第一号で、その姿カタチもみごとな変身ぶり。かろやかなイエローのカバーもすてきです。雑誌というより大きなひとつのテーマの単行本のスタイルです。ふろくの「chio通信」というのが、附録なんて言うてええのか?というくらいのボリューム。ずばらしい。おすすめです。くわしくはカライモブックスのブログで→


『ちいさい言語学者の冒険』(広瀬友紀著 岩波書店)→

『ウィル・グレイソン、ウィル・グレイソン』(ジョン・グリーン、ディヴィッド・レヴィサン作 金原瑞人、井上里 訳 岩波書店)→

映画も観たいし本も早う読みたい。

その3)
今日はこれを聴きながら。フランス語はぜんぜんわからへんけど、聞いてると映画観てる(わかってる)気分になったりして(苦笑)カナダのケベックのバンド~ギターとヴォーカルはユベールとジュリアンのチアソン兄弟。
↓うたは英語。2'30"くらいから始まります。

The Seasons - Apples→






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by bacuminnote | 2017-05-02 22:02 | 本をよむ | Comments(0)

しかられて。

▲めったに外食しない相方が、このあいだ出先でうどんを食べたというので「(味)どうやった?」と聞くと、厨房で店主が母親や従業員を怒り飛ばしてるのがまる聞こえだったらしくて、味がどうのこうのと言う前に「もう食べた気ぃせんかってん」と、こぼしてた。
怒ってたのは、たまたまなのか、いつもなのか。どんな事情があるのかは、「一見の客」にはわかりようもないけど。そういうときの気まずさって、たまらんなあと思う。

▲わたしも、いつのことやったか外出中、お昼を食べそこねて歩いてたときのこと。
おいしそうなにおいが外まで漂ってたから、吸い寄せられるようにある食堂に入った。
カウンターにも、テーブルの上にも丼鉢や割り箸やらコップが散らかってて、昼時の忙しさが想像できたから。「けっこう人気の店なんかもなあ」と、ほくほく店内みわたす。もう2時前で、客はわたしと先客のおっちゃんとふたりだけだった。
わたしはオムライスを注文したんだけど、そのとき威勢のいい店主の返事に被るように小さい女の子のぐずる声がカウンターの中から聞こえたんよね。

▲わたしも旅館とたべもの屋で大きいなったから、その状況はほぼ飲み込めた(気がする)
いっときになる昼のお客さんの波がようやく引いて「さあ、遅うなったけど、わたしらもお昼にしよか」というタイミングに、客が一人入り、娘が拗ねて。「もうちょっと待っときや」となだめられ、こんどこそ自分の番が来た、と思ったのに、またおばちゃん(わたし)が入って来たんやろなあ。たぶん。ごめんやで~

▲母親が「すんません。すぐ下げますんで」と、脇にお盆挟んで布巾片手にテーブルの食器を片付けに来て。女の子も母親のそばにくっついてる。そして「ねえ、ねえ、○○のオムライスは?」と、ぐずったあげく、エプロンの端を引っ張ったので、コップの水が床にこぼれてしもたんよね。
その瞬間「うるさい!二階に上がっとけ!」と店主がケチャップライスの入ったフライパン振りながら怒鳴ったのであった。

▲もぉ、うるさいのはあんたやろ~(と、心の中でいう)
先客のおっちゃんは、素知らぬ顔してスポーツ新聞読みながらラーメンすすってはる。わたしのんは後でええし、早うこの子の作ったげて~と(心の中でいう)
けど、ほんまに言うてみたとこで、そんな申し出を受けることはないやろしなあ、と思いながら、わたしは俯いて飲みたくない水をのんでオムライスが出てくるのを待った。

▲スーパーのお菓子売り場の前で、レジ前で並んでるときも、エレベーターの中でも、しょっちゅうこどもは親に怒られてる。いや、こどもだけやなく、妻が夫に怒られてるとこも、この間はパパがママにぼろくそに怒鳴られて、間でこどもがオロオロしてるとこも見たけど。
どんなときも、自分が怒られてるみたいにしょんぼりしたり、腹が立ったりする。かと思ったら「ちゃんと怒らなあかんやろ」とおもうこともあって。「叱る」というのは、ほんまむずかしくて、ややこしい。

▲「叱られて次の間に出る寒さかな」(各務支考『枯尾花』所収)というすきな俳句がある。
これは江戸期の「かがみ・しこう」という俳人の作なんだけど、こどもの頃親に叱られて、その場にいられず、となりの部屋に出たときのひんやり畳のつめたさが浮かぶようで。
せやから、ずっとこの句はこどもが怒られてる俳句とばっかり勝手に思いこんでたんだけど。

▲今回しらべてたら、この句は芭蕉死去の前日、元禄七年(1694年)10月11日大阪御堂筋の花屋の貸座敷、師の病床につめていた門弟たちが夜伽の句を詠んだ、その一句やそうで。ある方のブログにその時の様子がこんなふうに綴られていた。
【当時、三十歳の支考は、伊賀から芭蕉に随従しており、師が病床に臥してからもまめまめしく看護に尽くしていた。 が、時には芭蕉の機嫌をそこなって叱られることもあったのであろう。そうした折、師の枕元からすごすごと引き下がって次の間へ出てゆくと、夜の寒さがひとしお身に沁みる、という句である。】
(ブログ「壺中日月」→より抜粋)

▲そうか~支考さん、病床の師匠から叱られはったんか。
こどもが叱られるのもせつないけど、大のおとなが叱られるのも、つらいなあ。そういえば、わたしも父のさいごの入院中、見舞うたび、ようおこられたなあ。

▲そのころ病室を訪ねるのはパートの仕事が休みの土曜日で、朝ゆっくり目に大阪を出て着くのは、お昼すぎ、父が見るともなしにテレビつけてる頃で。
その日は好物の木村屋のあんぱんをおみやげに、エレベーターが来るのも待ちきれず、三階まで階段をかけあがり、はあはあ言いながら病室のドアを開けた。

▲ノブを持った手をぱっと離すと、思いもかけずバターンと大きな音が響いてドアが閉まるのと「だれやねん!」と父が怒鳴るのが同時だった。
まさか前夜不調であまり眠れず、やっと寝入ったとこ・・・やなんて、知らんかったしね。
水差しから水をのませるのも下手やったから、むせて真っ赤な顔してものすごく怒ってたし。初めて尿瓶をもっておしっこの手伝いしたときも、布団にちょっとこぼして怒られたなあ。

▲いまはもう目ぇ大きいして怒ったその顔さえ懐しく、父との思い出のだいじな時間になってしもたけれど。
当時は、わたしもまだまだ若く、傷つきやすく。
病室ではようしゃべってよう笑ったものの、そんな日は、父のわがままにがまんがならず、何よりじぶんの不器用さが腹立たしく。しんそこ悔しくて泣いたりもした。

▲この間『みまもることば~思春期・反抗期になっても いつまでもいつまでも』(石川憲彦著 ジャパンマシニスト社2013年刊)という本を読んだ。この本のなかにも何度も「叱る」ということばが出てくる。こどもを育てるなかで「叱る」は避けて通れないしね。まったく叱らない親も、叱りすぎの親も、かなんなあと思うけど。大事なことはこれ↓に尽きると思う。

【こどもを最低限かつ絶対的に、叱り教えていかなければならないことは、「自他の命を傷つけない」、「弱いものをいじめない」こと。これだけは、あらゆる手段を駆使して伝えていく必要があります】
(p143~144より抜粋)

▲そうそう、この本のなかに石川氏が小さいとき、どうしてもほしいものがあり、自分でお札作って(!)買いに行ったというエピソードが語られていて。
案の定、店のおじさんにものすごい勢いで怒られ「警察に連れて行く」とまでいわれて、ほんとうにこわい思いをして、結果「社会のルールを骨身にしみて理解することができた、とあったんだけど。
「警察に~」とまで言われるほど、自作のお札が精巧な出来やったんやろか?(苦笑)とか、思ったりしつつ。

▲以前ここ(2012.8.28)に書いた井上ひさし氏が中3のとき、本屋で万引きが見つかったときの話を思いだしていた。
本屋のおじさんが「警察に・・」というのを制して、おばさんが井上さんをどんなふうに叱ったか。
その深い知恵とやさしさを、ほんとうにすごいなあと思うし、あらためて「叱る」ことの意味を思うているところ。
(未読の方はぜひ、すでに読んだ方ももういっぺん読んでくださるとうれしいです。)


*追記
その1)
↑で書きそびれてしまったけど、『みまもることば』の中に「約束」について書かれた一文があります。ちょっと長くなるけど引用してみます。

【こういうと、「約束を守るのは最低限のしつけ」という人もいるかもしれません。でも、約束とは、対等な力関係のなかで成り立つもの。少なくみても七歳ぐらいまでは、親子関係は対等ではありえない。親は絶対的な権力をもっている。「約束」とはじつは、親の一方的な押しつけです。力ある者におとなしくしたがうか、たくましく反抗するかは、そのこどもの個性、性格によるもの。
さらにいえば、おとなしくいうことを聞いたとしても、それは、親が期待するような「約束を守る」という論理ではありません。「どうも、この雰囲気では要求しないほうがよさそうだ」という、いわば「生き物」としての、身を守る感覚で行動しているだけのことです。】(p86より抜粋)


その2)
しゃがめないので、先日迷ったすえ安くて、けっこうパワーのある草刈り機を買いました。うぃーんうぃーんと機嫌よく草刈りしてたら、あとでおもいっきり筋肉痛と膝痛になってしまい。
腕の筋肉痛はすぐ回復したものの、膝痛がぶり返して凹んで、こもっていましたが。
ちょっとましになってきたので、たまには出かけようと、この間ええお天気の日におもいきって映画(『この世界の片隅に』)を観に行ったり、べつの日には絵本作家のあべ弘士さんのお話を聴く会にも出かけてみました。

チェンバロの演奏(カッチーニのアヴェ・マリア)をバックにあべさんの朗読で聴く『旭川。より』(宮澤賢治の「旭川。」をモチーフにした絵本)が、じんとしみました。あべさんというと動物の絵本、の印象しかなかったのですが、この本にであえてうれしかった。


その3)
今読んでいる『現代思想』10月号(特集・相模原障害者殺傷事件)→のなかで熊谷晋一郎さん(以前、ここにも書きました→)が、この事件のあといただいたメッセージの中、カナダのライナスさんという方から寄せられたものを紹介してはりました。ライナスさんはご自身も慢性疼痛繊維筋痛症という慢性疼痛を持っているソーシャルワーカーをしてはる方だそうです。

そのなかでも【There was no others in this community】をあげて
【私たちが住むこの社会には他者は存在しない、全てが他者ではない、我々なんだっていうふうなことを述べているんですね。】(同書p68~p69より抜粋)とあり、心に残っています。

その4)
観たDVD『メニルモンタン2つの秋と3つの冬』~なんてことないけど、よかった。


その5)
きょうはこれを聴きながら。
スミ・ジョーって、最近どこかで聴いた(観た)気がしたなあ、と思ったら、映画『グランドフィナーレ』最後に"Simple Song #3"をうたいあげてた方でした。

Sumi Jo - Caccini (Vladimir Vavilov) - Ave Maria→

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by bacuminnote | 2016-11-27 20:43 | 本をよむ | Comments(0)

かさこそと音がする。

▲ りりィの訃報におどろいた次の日レナード・コーエンが、そして一昨日はレオン・ラッセルが亡くなってしまったと知る。
十代のころから今に至るまで、聴いたり観たりの人らの訃報に、しょんぼりしてたら、ひさしぶりに幼なじみから電話がかかった。
てっきりロック好きのかれのことやから、レナード・コーエンやレオン・ラッセルを偲んで・・の話かなあと思ったら、思いがけず中学校の同級生の死を知らされた。

▲そうして、今日出かけるまえ何気なくのぞいた郵便受けに「年賀欠礼」のはがきが入ってた。
パン屋のころのお客さんのおつれあいからだった。
パンから始まったけど、パンをこえて~こどものこと、食べもの、福祉や原発のこと・・・手紙をやりとりもした方。わたしらが店を閉めてからも、毎年グッドセンスな年賀状にご自身の活動やご家族の近況をユーモアたっぷりしらせてくれて。いつもたのしみにしてた。一度もお会いすることはなかったけれど。さみしい。さみしいです。

▲11月は義父が急逝し、パン焼きをやめてしまった月でもあり。
人には誰の上にも、いつか終わりがくるのはよくよくわかってる。(つもり)
けど。みんな早すぎるよ~
紅葉した街路樹の脇を歩いてるといろんなことを思いだして、足元に散らばった葉っぱみたいに、心の中にも、かさこそと音がして。
なんども立ち止まっては、そのつど見上げた空がどきっとするくらいにきれいな青色やったから。よけいに胸がつまった。

▲いっぽう、11月はだいじな人たちの誕生月でもある。
友よ、姉よ、みんな。ばあさんになっても、いつまでも少女のようにうきうきと互いの誕生日を祝おうね。
なぜか出会えたわたしたちの「偶然」になんべんでも乾杯しよう。

「歯が大事友だち大事冬林檎」(火箱ひろ)

▲・・というわけで、11月生まれの一人、旧友Jはいまから3ヶ月近くはわたしよりひとつ年上となる!(笑)
赤ちゃんのころの3ヶ月は大きいけど、ええ歳してそれくらいの差が何やねん!・・・やけどね。こどもみたいにムキになってそんな話ができるのも、またたのし。

▲そういうたら、この間読んだ『ハルとカナ』(ひこ・田中作/ヨシタケシンスケ絵/講談社2016年刊)にも、そんな場面があった。
主人公はタイトルの通り、八歳、小学二年生のカナとハルだ。
カナのなかよしのユズは、ハルのことを「かあさんのおなかの中にいたころからの知り合いなんだよ」って言うんけど。
ユズはハルより25日 先に生まれており。
「じゃあ、ユズちゃんは二十五日間、ハルくんより一歳年上なんだ」とカナが言い、
ハルは「そう、ぼくはユズちゃんより一歳年下のときが二十五日ある」と返す。

▲こういうやりとり、たのしいなあ。
そのむかし、四姉妹で、だれが何歳年上で、いくつ年下だのとよく言い合ったっけ。姉たちはいつも自分の方が○歳も年上だといばってたけれど、今では末っ子(わたし)がいちばん若いといばってる(笑)が、オール60代となっては、オールおば(あ)ちゃんなのであって。

▲この本は8歳の女の子カナと男の子ハルの、ちいさな疑問や気づきや思いが、なんてことのない日常のなか描かれるんだけど。
けっこう覚えてるつもりでも、忘れてしもてる「こどもの時間」を、あちこちでみつけては、ほっぺたがぽぉーっと温うなる。
【音楽の時間。『ドレミのうた』をみんなで練習した。カナは、ハルの声はどれかなとさがしていた。】(p110)というとことかね。
お互いになんかわからへんけど、ちょっと意識してしまうとことかね。かいらし。

▲あと、ベランダで洗濯物を夜干しする両親をリビングのソファーでハルがねころんで眺めてる場面がすき。

【ハルがいちばん気に入っているのは、夜の洗濯物干し。すこし冷たい風が吹くと、頭の中がすっきりする感じがして気持ちいい。あちこちの家の明かりがキラキラともっていて、とてもきれい。(中略)ガラスのむこう側。ふたりはハルに背中をむけながら、いっしょに干していく。洗濯物をわたすときとうさんが何かをいって、受け取ったかあさんが返事する。ふたりの笑ってる横顔が、ときどき見える。】(p14)

▲ええなあ~おかあさんとおとうさんが、”○○してくれへん?” でも ”○○してよね!”・・でもなく(苦笑)ごく自然にふたり並んで家のコトしてる姿。(ひこさん本にはこういう場面がさらりとでてきます)
もちろんフウフ(ハルにとっては親)って、こんなにヘイワな時間ばっかりやなくて。
(ふたりは)「顔を見ないで話すことがある。何かいいかけてやめることもある」(p8)んだけどね。そりゃ、大人にもそのときそのときの事情や機嫌や体調ってもんがあるから。
けど、そういうときのふたり(親)の話し声が、微妙に高かったり低かったり・・いつもとちがってることも、こどもはちゃあんと気がついてるんよね。

▲こどもの時間、といえば、いま『8歳から80歳までの世界文学入門』(沼野充義編著/光文社2016年刊)という本を読んでいるところなんだけど、そのなかに「シリーズ 文学のなかの子ども」というのがあって。沼野氏が三人(小川洋子・青山南・岸本佐知子)の作家や翻訳者とそれぞれ対談をしていて、これがとてもおもしろい。
とりわけ小川洋子さんとの話が印象深かった。

▲こどもの頃や若い頃に、一度だけ読んだものや教科書で一部だけ読んだ古典とか(小川さんがやってる本を紹介するラジオ番組で)読み直す機会があって、それはとてもいい経験になっているという話。
【沼野先生がおっしゃったように、文学遺産と呼ばれるものは、何回読んでも、そのときの自分の心の状態や年齢によって、あらたな側面を見せてくれる。えーっ、こんな宝石を隠していたのか、と言いたくなるような発見がしばしばあります】(p75)

そして、過去に読んでその記憶にたよってるけど、そもそもその「記憶を捏造していたということがある」というのも共感!
『走れメロス』がハッピーエンドやったことや、小川さんが長いこと『フランケンシュタイン』を怪物の名前やと思いこんでいたこと(わたしも長いこと誤解したままでした!)

▲【小説との出会いが、その人の中でいろいろなものを発酵させて生み出している。何年もたって読み返してみると、また違った発酵が起こる。でも、そうなるためにはやはり、小さい頃から本を読んで、発酵のための糠床を用意しておく必要がありますね。素晴らしい児童文学を大人になって初めて読むときに、「あっ、これを、十歳のときの自分に読ませたかった」と後悔することがしばしばあります。】(p77)

▲せやからと言うてガッコや家で「押しつけ」のような読書はおもしろくないもんね。
どうやったら、こどもらに「届く」かなあ~といつもおもう。でもウチの息子たちも、聞くと相方も、十代のはじめ頃までは自発的に本を読んでなかったのに、ある時期から(各自決定的な出会い~があって)モーレツに読み出したみたいだし。

▲小川洋子さんはこどもの頃からほんとうに本好きな少女だったんだなあ~というエピソードがいくつか対談中にも出てくるんだけど、いちばんすきなんがこれ。
学校の図書室で本を借りてきた帰り道~
ランドセル揺らして、はあはあ言いながら走る少女の姿がすぐそこに見えるようで、うれしくなる。

【早く読みたくて走って帰る。するとランドセルの中で本が、急かすようにカタカタ鳴るんです。その音が、子ども時代の幸せを象徴するものの一つです】(p74)


*追記
その1)
りりィ~このひとの声も歌もすきだけど、映画に出てはるときも、目立たない役なのに強い光を放つとこがかっこよかった。『リップヴァンウインクルの花嫁』(岩井俊二監督」の母親役をみたのが最後になってしまいました。

レナード・コーエン~若いときからよく聴いてるけど、歳とらはって枯れた感じが渋くてよかった。せやから、かっこいいじいさんのまま、ずっといいうた聴かせてくれる(じっさい、ついこの前新譜が出たとこやし)と思ってたから。ショック。以前(ここには須賀敦子さんの本にでてくるレナード・コーエンのこと書きました)

レオン・ラッセル~このひとの”my cricket”は大すきな曲→
いつだったかここ「追記」にutube貼ったことありました。

高校生のころのわたしはピアノとうたでは、レオン・ラッセルよりエルトン・ジョンの方をよく聴いてたんだけど。この間ものすごく久しぶりに”a song for you”を聴いて泣きそうになりました。ええ声や。
そして、そのふたり→

その2)
この間から観た映画の中からふたつ。

『孤独のススメ』 (原題「Matterhorn」)→ディーデリク・エビンゲ監督、初の作品やそうです。オランダの緑多い田園地帯にひとり暮らす初老の男性。毎日きっちり6時にお祈りをしたあと夕飯を食べる。日曜にはスーツを着て教会に行く。

この主人公フレッドも、突然どこからか現れることばもろくに話さない無精髭の身元不明な男性も(ほかの登場人物も)どこかなんかヘンな感じなんですが(北欧の映画っぽいふんいき←すき)成り行きでそんな2人が同居生活を始めることになって。フレッドの型にはまった生活が少しづつ侵食されてゆくんだけど。

常識や他人の目やちっぽけなプライド、そして性別・・・いろんな縛りから解放されることで、人は人とむきあえる(愛しあえる)と思いました。寓話的?とおもえる場面もいくつかあって、86分と短いけど、ふしぎな魅力にひっぱられ、観終わったあともしずかな余韻がずっとのこる映画でした。

『ハロルドが笑うまで』(原題”Her er Harold”)
あ、これもさっき書いた北欧の作品です。
こだわりのある家具屋を営んでいた老店主が、店の前にできたノルウェイの(というか日本でも有名ですが)大型家具店IKEAの創業者であるイングヴァル・カンプラードの誘拐計画を決行する~という、やっぱりちょっとヘンでふしぎな、そしてこれまた成り行きで若い女の子(よかった!)も誘拐に加わって。

その3)
そして、きょうはやっぱりレナード・コーエンを聴きながら~R.I.P.
Leonard Cohen - Bird on the Wire 1979

こっちは歳とらはってから。2013年のライブ版。ええなあ。

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by bacuminnote | 2016-11-16 09:20 | 本をよむ | Comments(4)