でもねハンコを押したような同じ日々の中にも、思い起こせばそれなりにいろいろあって。
▲そうだ。直近では散歩してる途中、つまずいてそのまま前に両手ついてコケたのだった。
一瞬何が起きたのかよくわからなくて。はっとして一番のウイークポイントである膝を見たら、すぼんがみごとに破けていて焦った。
幸いずぼんの下には膝上までの厚手のレッグウォーマーを、両手には手袋をしていたおかげで、擦り傷も出血もなかったのだけれど。
それでも打ったところが痛かったのと、おもいもかけない転倒に動揺して、少しの間立ち上がれなかったんよね。ちょうど通りには誰もいなかったし、道端で座り込んだまま膝をゆっくりさすってたら、立ち上がることができ、それにふつーに歩けた。ああ、よかったぁ。よかったなあ〜と声が出た。
▲打ちのめされた気分で家にむかう道〜街路樹のゆりの木(すき)はお陽ぃさんに照らされてきらきら輝いて、うらめしいほどええお天気の散歩日和で。いやはや、わたしもこうして老いてゆくんやなあ〜とか思いながらとぼとぼ歩いた。
まずは骨折しなかったことに安心したあと、自分のイメージ(こまったことに、これが実年齢よりつねに若い)では、上がってるはずの足がちゃんと上がってなかったことも、戻せるはずだった体勢が、意に反してそのままコケてしもたことも、気づいてはいたもののショックだった。
▲そういえば、義母も母も生前ホームの自室で転倒するたび(何度も転倒してた)痛みや青あざより「コケた」そのことにしょげかえっていたのを思い出した。「ほんま、気ぃつけてや〜」と言い放ってた自分が今、あのときの二人はこんなきもちやったのか〜と「痛」感。
歳を取るって、そしてそれを受け入れるということも、けっこう、いや想像以上にたいへんな作業であることよ。
▲この間ダルデンヌ兄弟監督の『トリとロキタ』(原題:Tori et Lokita)■を観た(by Amazon Prime)。
ダルデンヌ兄弟監督の映画は『イゴールの約束』(1996年)以来ずっと観てる。その作品はいつも痛くてつらいのに、何故観てしまうのかといえば、容赦ない社会や大人たちに押しつぶされそうになっているこどもや若者をごまかしなく映しながらも、愛情をもって深く描かれているからで。観終わったあともしばらくは「で、あなたはどう思った?どう考える?」と、問われるから、で。
▲いつだったか会見の記事中「何故少年少女・・若い人を取り上げるのか?」という質問に「少年や少女には、変われる可能性があるから」と答えた、というのをよく覚えてるんだけど、これはわたしがすきなヤングアダルトの本に感じる希望とも重なっていて。
▲さて、少年トリと少女のロキタはアフリカから地中海をわたりベルギーのリエージュに流れ着く途中に出会う。そんななか二人は生き抜くために姉弟と偽ることになるんよね。トリは施設暮らしでビザがあるけど、ビザのないロキタには正規の職に就くこともできないわけで。
そういう状況に追い込まれた若者がお金を得るため巻き込まれるのは、たいてい不法の、ドラッグの、世界であり。ロキタもまた危険な運び屋をしてお金を稼いでいるんだけど、これはベルギーへの密航の斡旋業者に払うお金や自分が生き延びるためだけでなくて、故郷の母親に送金するためでもあり、つらい。
▲やがてロキタは偽造ビザを手に入れるため、さらに危険な仕事をもちかけられるんよね。この歳の子がこんな決断を迫られることに、胸がえぐられる。
ふたりの夢はアパートを借りてふたりで暮らすこと。ビザを手に入れて働いて祖国に送金すること〜それは「夢」ということばで書くのもためらわれるほど「ただそれだけのこと」であり。十代の子が当たり前に手にできていいはずのことなのに。
▲そうして人としての尊厳も踏みにじられる中で、ときおり見せる年相応の無邪気な笑顔と笑い声に、つかの間ほっとして、そのふたりの絆に、どうかどうか無事に〜と祈るような思いだった。
劇中トリが施設の自転車を借りて夜の街を走る場面が残っている。大きく見えるその自転車を立ち漕ぎするトリのうしろ姿に彼の幼さとロキタを心配するきもちに、映画であることも忘れて見入ったのだった。
▲いや、でも、これは現実から地続きの世界だ。
観終わって何日にもなるけど、今回もまたダルデンヌ兄弟の作品はやっぱり「で、あなたはどう思った?どう考える?何をする?」と、問うてくる。
そして移民難民の問題は遠くの国のできごとではない。
▲以前読んだ『日本に住んでる世界のひと』■(金井真紀 文・絵 大和書房2022年刊)を思い出す。(この本のことは2022.12.1ブログ■にも書きました)
「おわりに」で、著者金井真紀さんは怒る!
《日本に住んでる世界のひと、わけても「難民認定されないひと」「働くことが許されないひと」「入管施設に収容されるひと」「仮放免者」という理不尽な状況に置かれたひとたちについて知るにつけ、こりゃあとんでもないことだ、と引っくり返った。この国の外国人に対する処遇はひどすぎる。それぞれの人生の持ち時間をなんだと思っているんだろう》(p238より抜粋)
▲『トリとロキタ』の公式HPにあった監督のことばをいまあらためて噛みしめている。
《このふたりの若い亡命者とその揺るぎない友情に深い共感を覚えた観客が、映画を観終えた後で、私たちの社会に蔓延する不正義に反旗を翻す気持ちになってくれたら。それが、私たちの願いです。 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ》
*追記
その1)
年明けからいろいろ思う日々が続いています。そんななか、前に読んだ本を何気なく開いて「わあ。いま、まさに会いたかった」という文章との「再会」にカンゲキしつつ、これこそ本がそばにあるしあわせやな〜とおもいます。
このところ一冊の本をなかなか読了することができず、あっち読んでこっち読んで〜みたいな読み方をしていて。どこかうしろめたいような(うまく言えないけど)気持ちがあったんだけど。「道草」ゆえに出会えるたのしさ、をおもっているところ。
そういうたら、今年はじめ『水牛通信』「水牛のように」1月号で映画監督の越川道夫さんが『「道草」の「道」』■というエッセイをこんなふうにしめてはったんよね。共感!
《一冊の本を読み始める。読み始めれば、あちらこちらを刺激され、連想のようにその本を読み終わらないうちに別の本に手を出すことになる。別の本を開けば、そこからまた別の本へ…。こうして一冊の本は読み終わることがない。そんな読書が面白い。読み終わったらからといって、それがどうだと言うのだろう。そんな読書が面白い。》
その2)
というわけで「再会」のよろこびに満ちた一冊は『さみしさは彼方 カライモブックスを生きる』■(奥田直美・奥田順平 岩波書店2023年刊)でした。新しい本が出るとネットであちこちからいっせいに声があがっては、その内パタリと「声」が消えてしまうけど。そんな中だいじに読みたいとおもう一冊です。で、立ち止まったところは何箇所かあるんだけど、とりわけ付箋がいっぱいの直美さんの「頼りなく外に出る」の最後の一文から。
《思いを言葉にすること、自分の思うままに生きようとすることは、自身の安定のために必要なことだけれど、それは一方で、自身を規定する檻でもある。自身をわかりたい、現在をつかみとりたい、未来を支配したいーー。どうしたってわたしはこれからもそれらを求めつづけるだろう。それでもできるだけ、自身の及ばないものにひらかれていたい。その引き裂かれたあいだを、わたしは勇敢に生きていきたいと思う》(p178より抜粋)
その3)
きょうはひさしぶりにキヨシローを聴きながら。
《どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?どれだけ金を払えば満足できるの?どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?》
風に吹かれて -RCサクセション■