それぞれが それぞれの場所で。
2006年 10月 05日
デパートはだいぶ前からすっかり秋冬物一色で。
若いコに到ってはブーツにタイツ、ショートパンツ、ニットの半袖には毛皮が付いてたりして。・・・と、夏も秋冬もクロスオーバーした格好やし。
ま、昔のこと思えば、夏だから、秋だから、ということもだんだんなくなって。
みな、それぞれに思い思いに すきな格好をしているのはええなあ、と 人通りを眺める。
▲ただ、こうして、いつのまにか四季のうつろいはどんどん曖昧になってゆくのだろうけれど。
暑くても 寒くても エアーコンデションされるてるわけだし。それを「当たり前」のことのように思って子どもは大人になってゆくのだし。
駒沢氏は「いつも不思議に思う」こととして、すし屋での会話を挙げる。
▲【常連客がお薦めのものを尋ね、職人はそれに対して旬の走りを薦める。
「何か夏らしいもの、ないかなあ」
「それならイサキの早いのが入っていますよ」
などという会話だ。そしてこのときに必ず付け加えられるひと言が「日本には四季がありますからねえ」だったりする。】
▲そのやりとりが想像していた通りの展開なので、おもわず笑ってしまった。
このあと駒沢氏は
【職人も客も、四季があるのは世界で日本だけであると、なかば本気で思っている。
考えるまでもなく、北半球の中緯度に属する国はどこにでもはっきりと四季があり、陸地の総面積は少ないものの、それは南半球の国にもあてはまる。】
と、続ける。
▲う~ん。たしかに。恥ずかしながら 結構な年になるまでわたしも「日本だけ」の四季 を何の根拠もなく「なかば本気で思って」いた一人だったし。
【アメリカ人は鮮やかな紅葉に秋の到来を、やがて来るクリスマスのことを想い、フランス人であれば焼き栗の香りに冬を抱きしめる】・・と、彼が言うように
当たり前のことだけど、それぞれがそれぞれの場所で季節を感じ、たちどまり。
俳句に、詩に、歌にきもちをのせるんよね。
▲服の話にもどって。
いまも四季がはっきり存在するのは着物の世界で。それは四期どころか、もっと細かく分かれているらしい。
けれど、着物の美しさはその細かな「きまりごと」ゆえに守られているのかもしれない。
それに、もしかしたら「きまりごと」にしばられる快感、というのか、決められた中での自己主張の愉しさ、というのもあるのだろうか。
そもそも「きまりごと」って、はじめは、それなりにきちんと理由のあったはずのものが いつのまにかカタチだけ残って、従う方も「何故かよくわからへんけど」「昔からそうやし」「皆してはるし」・・・となってる気もして、ひっかかるんやけど。
▲さて。
お店にはもう来年のカレンダーや手帖が並び始めている。
ふと見上げたカレンダーはうすっぺらで。ちょっとあせってる自分が何だかおかしい。
ほんまに一体何を焦る、というのだろう。
あ~あ。 いくつになっても、夏休みのあとの高校生の気分なんやなあ。