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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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あればあるほど みえなくなるもの。

▲いったん家の中で室内物干しに洗濯物を干して、それをさっさっと外に持ち出し(その際ぼーぼーの草は見ないようにする)庭の真ん中にぽんと置いて、ソッコウ 家の中にとんで入る、というのがこの夏のわが家の洗濯干しスタイルだった。
けど今日は朝から涼しい風にさそわれて、ひさしぶりに外でゆっくり洗濯物を干す。淡いブルーの空高くヘリコプターがぱたぱたと。近所の新築工事の電動ドライバーとトンカチの音。上と下で「そこ、○番で頼むわ~」「よっしゃ~」というかけ声がとびかい。郵便配達のバイクが停まり、また出てゆく。遠くできゃんきゃん犬の吠えるのが聞こえてきて。ああ、ようやく、の秋である。

▲しかし、まあ、ほんまに暑い日が長く続いた。
汗だくになっては着替え、洗って、干して、乾いたらそれをまた着ていたから。じつに「たんす要らずの夏」(苦笑)だった。
そんなわけですっかり色あせてしまったシャツを干しながら、ふと足もとを見る。素足に朝の空気がちょっとつめたい。夏じゅうおんなじサンダルで通したし、サンダル脱いでも履いてるみたいにくっきりと日焼けのあとがついてしもた。けど、もうそろそろソックス履かんとね。

▲ちょっと涼しくなっただけなのに、ずいぶん動きが軽くなってきた気がする。せやから本が「すすむ」。図書館に予約して借りてきて読む。返しに行ってまた借りて読む。
さて、この間から続けて読んだ本がまだずっと残ってて、夕方ご飯ごしらえしているときにふっと思い出したりする。
それは『10歳の放浪記』『せっちゃんのごちそう』という本で。
たまたま なんだけど、どちらも貧しさと父親のお酒と母への暴力の中で、子ども時代をすごしたおんなの子の話だった。
『10歳の・・』は上條さなえさんという児童文学作家の、『せっちゃん・・』は人材育成コンサルタント 辛淑玉さんの自伝である。

▲1960年、なこちゃん(上條さなえさんの呼び名)が10歳の頃、一家は借金取りから逃れるために、家を転々とする事になる。そのうち母や異父姉妹の姉とも別れ、父と二人一泊百円の簡易宿泊所を泊まり歩くんだけど、現住所が借金取りにわかるといけないから、と学校にも行けない。だから父が日雇いの仕事をしている間 なこちゃんは公園で水を飲んだりしてすごす。中には一日一食の日もある。

▲なこちゃんより9歳年下になる 在日コリアン三世の少女 せっちゃん(辛淑玉さんの日本名「節子」から)は「我が家では、食事の基本は自己調達」という。口を開けて待っていても、食べ物は飛び込んではこないから。迷子と思われないよう、お客のふりしてデパートの試食を回る。食べるものがない、お金がない、とお母さんが訴えると「だったら、布団を売ってこい」とお父さんが言って布団はお米にかわる。その日、ごはんは食べられたけど夜に布団がなかった。
そしていろんな場面で「差別」はせっちゃんの頬を思いっきり叩いてゆく。

▲この二冊の本に共通しているのは「食べる」にまつわる話が多いこと。
「食べる」ことで傷つき「食べる」ことで夢見心地になって。
満足に食べられないひもじい思いも、食べられたときのうれしさも、そして親子やきょうだいが食卓を囲むよろこびも。
そのときの様子がこどもの目や耳や舌、そしてこころを通して語られ、それがもうじんじんと伝わってきて。せつない。
ああ、食べるってことは生きることやもんね。

▲子どもの頃 わたしは「夕ご飯やで~」と呼びに来てくれる家の子がうらやましかった。鍋一つの煮物に家族全員がちゃぶ台囲み、ごはん食べてる友だちの家がうらやましかった。子ども心に「お金なんかいらん。家族一緒にご飯食べられるとええなあ」と思ってたけど、ほんまにお金がなかったらご飯も食べられへん、ということまで、そのときは想像力が及ばなかった。

▲満足に食べられない、ということはもちろんだけど、両親のけんかや暴力も子どもにはつらく痛い経験だ。お金がないからけんかする、けんかするから又お酒に走る。お酒に走るから暴力をふるう。そして暴力をふるうから夫婦はどんどん冷えてゆく。
二人の少女はそんな中でもやさしく暖かな人にであい、やがて自立し、すばらしい仕事もしてはる。そして、いまこれを書いてるのは大人になったお二人・・・というのがわかっていても、本を読んでいると文章の間から「お父ちゃん、お母ちゃん、もうけんかはやめて」と子どもたちのすすり泣きが聞こえてくるようで、胸がしめつけられる思いだった。

▲それでも、子どもは親がすきなんだと思う。上條さんは「はじめに」のところでも「おわりに」にも今は亡き両親への愛を語り「父と母が生きているうちは、二人がかわいそうで、とても書けませんでした。だれが好きこのんで十歳の子どもをホームレスにしようと思うでしょう」と書いている。

▲辛さんは亡くなったお父さんのことをこう語る。
弁護士を目指し苦学して中央大の法学部に入ったのに、敗戦で日本での司法試験受験資格をなくし、差別と貧しさの前で父は「弱く哀しく不器用な人だった」と。
けれどもし生まれかわるのなら「今度もまた、在日朝鮮人として、父の娘で生まれてきたい。そして今度は、今度こそ失敗しないで、父にもやさしい言葉をかけてあげる」と。そして「父の手を引いて、町中で一番暖かい洋服を買って着せてあげて、おいしいものをお腹いっぱい食べさせてあげて、十万円を思いっきり使わせてあげる・・・。」と。
(生前お父さんが「十万円を思いっきり使ってみたい」と言うてはったらしい)

▲「お金や力があればあるほど見えなくなる、人の「良心」にこれほど巡り会えた人生は、極上のものであろう」という辛さんのことばを読み返しながら、いま、どこかで声も上げられずに泣いてる子どもたちにも、どうかそんな出会いがありますように。そして、なこちゃんがもぐりこんだ映画館でいろんなことを学んだように、本や映画や音楽にも、出会えるものがありますように、と思う。
子どもを取り囲む環境はどんどんひどくなってゆく、とんでもない世の中だけれど「なにより大切なのは子どもが元気で楽しくいること」(『子どもとゆく』より)それが可能な世の中を作るのは大人やということ、忘れたらあかんとあらためて思う。
by bacuminnote | 2007-09-12 13:54 | 本をよむ