ゆりの木。
2009年 05月 25日
そう言うわたしも毎年この時期は花粉症(イネ科)でマスクは手放せないんだけど、自分の吐いた息が熱を帯びてもあ~っと戻ってくるわ、眼鏡は曇るわ、の不快感。きっとわたしもこわい顔して歩いてるんやろな。
▲せっかくの上天気の中 そんなこんなでうっとうしい気分の帰り道、道沿いにつづくゆりの木を見上げる。
日々大きくなる葉っぱが五月の風にさわさわ揺れて、見え隠れしているのはクリーム色に朱色のラインの入った特徴のある花で、ちょうちん袖みたいにぷっくりしてかいらしい。そして、わんさか茂る掌形の葉っぱのまだ若いみどり色に、そのわずかなすきまからもれる空の水色にも、思わずマスクを外し買い物袋を下に置いて見入る。きれい!
▲この木の名前を知ったのは去年の5月のことだ。
ガッコで連休の間の課題として「木を(文章で)デッサンする」というのが出た。それは各自身近に観察できる木を選びデッサン(文章化)して、夏にはその変化を見ながら、こんどは原稿用紙二枚の超短編小説を書く、というものだったんだけど。
吉野で生まれ育ち、木曽で十数年も暮らしたクセに、わたしは木々にも草花にも疎くて。いつも「関心は自然より人やねん」と言うてごまかしてるけど、ちょっと情けないくらい 知らないことが多い。ほんまに あんな木だらけのところで、何見て大きいなってん?である。(そら「ひと」やろ~と、もう一人のわたしが答える・・苦笑)
▲で、その課題には唸った。
ここに越してからは一度も車の運転をしていないし、最近は自転車も乗らないから、たいていはあっち見て、こっち見て、ゆっくり歩いている。だけど街路樹はどの木も「木」でしかなかったんやろね。
ただ、そんなわたしにも名前は知らないが、なんとなく「いい感じ」という木はあったから、その木のことを書くことにした。
▲それは歩道橋の階段脇にそびえる木で、52段の階段をのぼってもなお 橋の手すりから二メートル近く上まで伸びる背の高い木だ。家に帰って相方に話すと「あの木は『ゆりの木』やで」と言うのでおどろいた。だって、わたし同様に(以上?)「知らん」人かと思ってたから。聞けば、ずいぶん前に散歩途中に木の名札が掛かっていたらしい。
▲そういうわけで、ここに越して5年目の春にその木の名前を知った。ふしぎなもので、名前のついた木はその日からわたしにとって ちょっととくべつな木になった。課題の「デッサン」には泣かされたけど、以来 歩道橋の階段をのぼるときも降りるときも、あるいは道沿いにつづくこの木の前で 立ち止まる。そして、今日のように荷物を置いて仰ぎ見て、そしてまた歩き出す。
▲それにしても。
こんなにも木に惹かれるのは、名前を知ったからか、まちで暮らすようになったからだろか。
そんなことを思いながら今日はひさしぶりに 『森の絵本』(長田弘・作 / 荒井良二・絵)をひらいてみる。開田村で住んでいた家の窓から見えた山がしみじみとこいしい夜だ。
『森が息しているのは ゆたかな沈黙です。
森が生きているのは ゆたかな時間です。』(本文より)