水が跳ねる ぱちぱちと。
2011年 07月 15日
そうこうしてると、お隣りさんが庭木にホースで水やりをしてはる音がしゃー、しゃーと聞こえてきた。葉っぱにあたった水が跳ねるぱちぱちという音も。なんだかわたしも緑たちと一緒にシャワー浴びてるようで、ほんの一刻(いっとき)涼風がすうーいと通る。ああ、きもちのいい夏の朝。
▲ 今日は母の88歳の誕生日。
電話ではしょっちゅう話してるけど、長いこと顔もみていない気がするし、この間「いっぺん帰ろうかなあ」と言うと、予想通り?「こないに暑いときやから」「肩まだ痛いんやろ?」「あんたも忙しいねんから」・・・つまり、無理して帰ってこんでよろし、というわけだ。別に無理してないのになあ。すなおに「わあ、うれし」「帰って来て」と言うてくれたらええのに。ほんまにもぉ、お母さん言うたら、すんなり人のきもちに甘えらへんていうか、クッセツしてるねんから、とムスメは受話器を置いたあと一人毒づいている。
▲ いや、わかってる。それはへそ曲がりとかクッセツとかやなく。ずっとずっと、そんな風に、自分の思いより周囲のことを先ず考えるクセがついてるんよね。それに会ったら会ったで、あとが寂し、ということも。わかってるんやけど。しゃあないから、そのうち、予告なしで会いに行くことにしよう。
▲ 今冬のこと。どなたのブログで出会ったのか忘れてしまったが、山田恵子さんという方の詩「独りに慣れているのに」(2011.2.21神戸新聞「読者文芸」に掲載 /選者は安水稔和氏)が転載されていて、思わずノートに書き留めた。老いた母をたずねた娘は こんな場面を何度も思いながら帰途につくのだろうな。
『独りに慣れているのに/ 寂しさを思い出させに/ 帰っているようで/ ベランダで見送る母に/ 明日また来るみたいに/ 素っ気なく手を降った』
▲さて、母は88歳になった今も好奇心旺盛で、知らないことを見たり聞いたり教えてもろたりするのが大好きだ。いつだったか、ツイッターのことを話したら「それはどういう字書くの?」と、きた。わたしの大阪弁的発音では「突いた」とでも聞こえたのかも。ひとしきり大笑いしたけど、そんなわたしもエラソーなことは言えない。「新しく」知ったことばを覚えて、自在に使えるようになるのは(年とってくると)ほんまにたいへん。
▲ このまえ読んだ 『君がいない夜のごはん』(NHK出版)の著者・穂村弘さんはわたしより7つも若いけど、新しいもの(ことば)が登場するたびに奮闘してはるようで、苦笑のち爆笑。曰く
『私はパスタとの苦しかった戦いを思い出す。 ナポリタンとミートソース、その二種類のスパゲティを食べ続けて我々は何十年も平和に暮らしてきたのだ。ところが或る日、カルボナーラとかボンゴレなどというものたちが現れた。それらはパスタという食べ物だという。(中略)やがてタリアテッレ・ゴルゴンゾーラとか、アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノなどというミドルネームだかをもつものたちが現れたのだ。私は歯を食いしばって覚えた。ところが、さらに数年後、ペンネ、ラヴィオリ、コンキリエ、ファルファッレたちに紹介された。ショートパスタという一族だ。(後略)』
▲ そういえば、わたしは長い田舎暮らしのあと、大阪に戻って来て初めてスターバックスに入ったとき何を注文していいかわからなかった。(ほんま言うと今もあまりわかってない・・)だから穂村さんの『ミルク・コーヒーとカフェ・オ・レとカフェ・ラ・テとカフェ・クレームは四人姉妹かと思ったら、化粧がちがうだけのなんと同一人物だった』には笑ってしまった。
▲『ヴィシソワーズに初めて会ったときも驚いた。確かに以前どこかで・・・。そうだ。私が子供の頃、家にあった「暮しの手帖」の記事で「じゃがいもの冷たいスープ」として紹介されていたのだ。』(以上「ショコラティエとの戦い」より抜粋)にも納得。
本を読みながら、せや!そのとおり!なんでも横文字がええかっこやと思うんやないで~と一人声をあげている。そのくせ相方(わたしより7つ上)が「今風」なことばがわからなくて、とんちんかんなことを言うと、ここぞとばかりに息子(十代)と一緒にあはは、と笑ってる。(すまん)