ふしぎななぞ。
2012年 09月 27日
▲ そうして、やっと手にしたレコードも、ヨロコビを共有できる友だちがなかなか いなくて。ああ、だれかと一日中音楽聴いてずっとずっとレコードの話ができたらいいなあと思ってた。
だから、ひとつ上のセンパイがいつも気になるレコードの袋を小脇にかかえてるのをみて、もうそれだけで「この人と話がしたい」と、大胆にもラブレタアならぬミュージックレタア(こんなん聴いてる、あんなん聴きたい・・こんど◯◯が出す新譜たのしみ・・・みたいなはがき)を出したりして。
残念なことに現実の世界ではコイなどはるか遠く、しかし「文通」はしばらく続いてた気がする。いま思い出しても、得難い、ありがたい、すてきな「音ともだち」だったなあとおもってる。
▲ さて、昨日イーユン・リーの『黄金の少年、エメラルドの少女』(篠森ゆりこ訳 河出書房新社2102.7刊)を読み終えた。短篇集でふだんだったら一日~二日で読める本かもしれないんだけど。
なんか「そうはさせまい」感じがあって。ゆっくり、ゆっくり。毎日寝る前に一編を行きつ戻りつしながら読んだ。
そうそう、前作『千年の祈り』を執筆中はU2を聴いていたらしい。今作(「優しさ」)ではマーラーの交響曲第一番を聴きながら~とのこと。
▲ 前のも、今のも「孤独」をぎしぎし感じながら読んだ。さみしくてつらくて、でも人が生きてゆく根幹と思える「独りであること」その尊さ。
最後の一編、表題作の『黄金の少年、エメラルドの少女』はこんな風に終わる。
『三人とも、孤独で悲しい人間だ。しかも、互いの悲しみを癒せはしないだろう。でも孤独を包み込む世界を、丹精こめて作っていくことはできるのだ。』
ほぉー、と長い息をついて本を閉じる。
▲ そういえば、と絵本『エミリー』(マイケル・ビダード文 / バーバラ・クーニー絵 / 掛川恭子訳/ ほるぷ出版1993年刊)を。このしずかな絵本にもピアノの音が流れてる。
エミリーとはアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830~1886)のこと。
「わたし」がこんど引っ越した家のむかいに妹と二人で住んでいる女の人は、もう20年近くも家の外に出たことがなくて、知らない人がくると、どこかにかくれるそうで。町の人は彼女(エミリー)のことをいろいろに噂するのだけど。
▲ わたしはピアノの上手なママとパパの三人暮らし。ある日、わたしの家の郵便受け口にエミリーからの手紙が届いて・・・。
この絵本はエミリーが書いたのではないけど、どの頁を開いてもことばのはこびが、とても詩的。
「詩ってなあに?」ときくわたしにパパがこう答える。
『ママがピアノをひいているのをきいてごらん。おなじ曲を、なんどもなんども練習しているうちに、あるとき、ふしぎなことがおこって、その曲がいきもののように呼吸しはじめる。きいている人はぞくぞくっとする。口ではうまく説明できない、ふしぎななぞだ。それとおなじことをことばがするとき、それを詩というんだよ』
▲ 又、ある場面では ひざの上の紙をみて「それ、詩なの?」と聞くわたしに、その人は答える。
『いいえ、詩はあなた。これは詩になろうとしているだけ』
文章だけでなく バーバラ・クーニーの絵も(もとはといえば、エミリー・ディキンソンのこともよく知らずに、バーバラ・クーニーの名前に手にとった本だったし)しずかな文章にとてもよくあってすき。ていねいに描き込まれた絵の一枚一枚に、その中に込められたものを考えながら、謎解きのようにまたもう一回と読むのもたのしい。
▲ ああ、まだまだ、あの場面もこの場面も書きたいことだらけだけど。(つづきはどうぞ絵本を手にとってください。)
最後にマイケル・ビダートのあとがきの中で、エミリーが亡くなる前の25年間の隠遁ぶりと、しかし、その間(かん)のエミリーが庭仕事の達人だったこと、知らない人に会わなくても、子どもたちとはいつもなかよしだったこと。子どもたちに二階の自分の部屋からかごにショウガ入りクッキーを入れて、下ろしてあげたというすてきなエピソードが紹介されていて、うれしくなる。
そしてマイケル・ビダートは後書きをこうしめるんよね。うっとり。
『エミリーの部屋の窓の下に立ったとき、エミリーがこのお話をわたしに、部屋からおろしてくれました。』
*追記
その1
エミリー・デキィンソン ミュージアムの HP。英語なのでちんぷんかんぷんですが、動画もあって ■ふんいきを楽しんでいます。
です。
その2
イーユン・リーの前作は映画化(DVD化も)されています。公式HP ■
この方は北京大学を卒業後、渡米、アイオワ大学院で免疫学の修士課程を終えた後に、方向転換して創作科に~そして英語で執筆されるようになったそうです。イーユン・リー以外でも 母語でない言語での創作に、ここ数年関心をもっていますが、その意味について考えながらも、中国語が母語の人が英語で書き、その英語を日本語が母語の人が邦訳したのをわたしは読んでいるのだなあ・・とあらためて。