人気ブログランキング | 話題のタグを見る

いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

ほんまは知らんこと。

▲ 前の夜は、わけわからんままの国会の強行採決をインターネットで観ていて、ここには書けない汚い言葉で「起立」議員をどなり(←わたしが)、かっかしながら日付が変わってから床についた。
くたびれてるはずやのに、明日はよしの行きやし、と思うのに、なかなか寝付けず読みかけの短篇集(この前読んだ本と同じフェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳『犯罪』)を開く。

▲それはドイツのとある駅ホームで起きた事件の話で。月曜早朝のこと。昨夜はついてなかったらしいスキンヘッドの若者の一人が年配の女性にちょっかいを出し、もう一人は金属バットでゴミ箱を叩く。イライラと退屈を持て余したふたりは、飲み終わったビール瓶を線路に投げ捨てる。すると
ビールびんが砕け散り、ラベルがふわふわと舞いあがった。
自分がたった今そのホームに立ってるみたいに、瓶の欠片がきらきら光り、舞うラベルさえも目の前に浮ぶようで、すっかり目がさめてしまったのだけれど。いつのまにか目覚まし時計が鳴っていた。

▲ 吉野に帰るのは(「行く」とするか「帰る」とするかはいつも迷うとこやけど)夏以来だ。今回はむこうで姉3と落ち合う予定。地下鉄に乗りこんで、母や姉1に、と買ったあれやこれやの入った大きな紙袋を膝の上にのせて、本を開く。いやバッグに入れてきたのは割れたビール瓶のあの話ではなく
『光のうつしえ』
(朽木祥著 講談社2013年刊)という本。表紙の背景は黒と群青色。黒い川?には四角いものが赤青黄色に光っている。副題は「廣島 ヒロシマ 広島」とあるから、やっぱりこれは灯篭なんやろね。(著者の前作『八月の光』のことは ここにも書きました)

▲ 川のはたで育った子ども時代の夏の思い出は、水泳、花火と灯篭流し。とくに花火と灯篭の絵は、わたしもふくめて夏休みに家族とどこかに行くことのなかった家の子には格好のテーマで、二学期はじめにはよく似た構図の絵が、決まって何枚か貼りだされていたのを思い出す。
でも、この表紙には暗闇のなか灯篭の灯りがつらく感じて、最初ネットで書影をみたときは気になりながらも「またこんど」とそのままにしていたんだけど。
このまえ図書館の児童書コーナーで、おもいがけず本があり借りることにした。【世界中の「小山ひとみさん」のために】という献辞にも、意味がわからないままひかれた。

▲ そして物語はその灯篭流しの夜から始まった。
時代背景は原爆投下から「二十五年目の夏」~希未は母と祖母といつものように灯篭流しにやってくる。川辺にも、向こう岸にも灯籠を見送ってる人たちが大勢いて。そんな中でひとりの見知らぬ老婦人が希未に声をかけてくるんよね。
「あなたは、おいくつ?」といきなり問われて、希未は「十二歳です」と応える。合点がいかないのか、その人は続いて、希未に姉がいるか?母親は何歳か?などと尋ねる。そして涙をあふれさせて「ごめんなさね」と去ってゆくんだけど。希未は怖くなって、そのことを告げるとお母さんが言う。
……誰かを捜しとる人が広島には今でも、えっと(たくさん)おられるからねえ】

▲ 【あの朝、原爆で一瞬で七万人以上が犠牲になったのだ。その人たちはまさに「消えてしまった」のだと希未たちは平和学習で習った。】
小学生のころから平和学習で何度も勉強してるはずが、実感を持って受け止められなかった希未だけど、そのうち自分の入ってる美術部の吉岡先生が入市被曝の体験者で、あの日たいせつな人をなくしたことを知って。
よう知っとると思うことでも、ほんまは知らんことが多い】ことに気づき始める。

▲ さて、そうやって本の世界に入り込んでるうちに電車はいつのまにか乗り換えの駅に着いており、大慌てで下車。天王寺駅周辺には長いことあった「工事中につき」の看板が取り払われて、わたしの「見慣れた光景」がどこにもなくて。まして、さっきまでヒロシマのことを考えていたから。その新しさとクリスマスムード満載の「街」に、タイムスリップしたような、知らんとこに迷いこんだ気分で、デパートの開店を待つ人の長い列を横目でみながら駅構内にむかった。
平日だし、この時期よしの方面への観光客は少なくて特急電車は二両きりで空席が目立つ。荷物をおいて「ふうう」と長いため息ひとつ。人の多いとこがほんまに苦手になった。

▲ そうだ。本のつづきを。
希未と俊、耕三の三人は身近なひとから「あの日」のことを聞くようになって。希未は先生のこと、俊はご近所でひとり暮らしの「ちょっと苦手なおばさん」の須藤さんのこと、耕三は祖父母に。
「被爆」と「被曝」のちがい(爆弾の被害を直接被ることと、放射線に曝されること)『いつ現れるかわからん、闇夜に潜んだ見えない敵みたいなもんじゃな』という放射線のこと。須藤さんが自身のつらい体験と重ねた新聞の投稿欄で出会った短歌~
「半ズボン汚し帰りし幼な子を叱りいたりき戦死せしかな」(小山ひとみ)

▲ 献辞にもあった「小山ひとみさん」とはこの小山さんのことで、調べてみたら実在の人物らしい。朝日歌壇に多く投歌されていたそうで、テーマは一貫して「戦死せしわが子」だったそうだ。
こういう物語を読んでいるときは、泣かない、泣くことで流してしまわない、と自分につよく言い聞かせてるんだけど、須藤さんの話になって、とうとう抑えきれなくなっておいおい泣いてしもた。俊のおばあさんが言う。親は子に『今日も明日も元気で帰ってくると信じとるけえ、きついことも言えるわけじゃ
そうして三人は、よう知っとると思ってた人にも、知らんかったことがいっぱいあることを「知る」ことになるんよね。

▲自分らのすきな美術だって、戦争が始まると 【真っ先に無用とされた科目が美術や音楽だった】詩は女々しいから読んじゃいけんとか。哲学や思想書をふつうに読んどったら、赤(共産主義者)じゃと言われて特高(特別高等警察)に引っ張られたとか】と話すところもあって。
この場面を読みながら、昨夜みた国会中継がわたしの頭のなかで流れる。

どうか、あなたたちの世代が生きる世界が平和でありますように。自由な心を縛る愚かな思想が、二度と再びこの世界に紛れこみませんように】
物語のなか、あるひとが希未に宛てた手紙の忘れられない一節だ。

▲ 200頁に満たない本だったので、駅に着くまでに読み終えた。
窓の外は里が「近づいてきたしるし」の吉野川が見え始め、カーブのたびに激しく電車が揺れる。春の桜、夏の鮎、秋の紅葉もおわると観光シーズンもおしまいだけど、静かで枯れたいま時分の吉野が、わたしは一番すきかもしれない。暖房のよくきいた車内から降りると、足元からじんじん冷気がのぼってくる。案の定、その駅で降りたのはわたし一人きりだった。

▲母とは電話で2~3日に一度は長話してるから~と思ってたけど。
顔みたら、また小さくなった気がしてさみしかった。姉1と姉3とも久しぶり~おんな四人はにぎやかでたのしく、何より母の笑顔がうれしかった。
そのぶん帰りは、二階の窓から身をのりだして何度も手をふる母がせつなく「そんなんしてたら落ちるやん!」と階下から娘たちが叫んで、泣き笑いのうちに また大阪に帰ってきた。
そして 
この日の夜遅く「愚かな思想」を本議会は通してしまった。


* 追記 (いつも長い・・・)
その1)
この本はとてもしずかで美しい物語だとおもいました。誰かのせいもあって、ここ数年「美しい」ということばを書くとき、いつもちょっとためらいの時間がありますが。
さっき泣かないを自分に課していると書いたのは、その美しさの前で、それでなくても、流されやすくあやふやな自分の眼が曇らないように、です。

本文で美術の先生は俊への手紙にこんなことを書いています。
この世界は小さな物語が集まってできている。それぞれのささやかな日常が、小さいと思える生活が、世界を形作っている――そんなふうに私は考えています。小さな物語を丁寧に描いていくことこそが、大きな事件を描き出す最も確かな道なのだと思いませんか】(p167)

自分の存在や表現が「小さい」ことで縮こまることはないんよね。「自分にできること」から始まるんやからと はげまされる思いです。
と同時に、子どもも大人も「物語」だけでなく「今起こっていること」に関心を持ち、なぜ戦争が起きたのか、起きるのか、政治や歴史を学ぶこと「知る」ことの意味も改めて思いました。(歴史についてはこの前 ここにも書きましたが)

今日はアジア・太平洋戦争(1941年12月8日)が始まった日。

その2)
ネルソン・マンデラさんの訃報。
「コシ・シケレリ・アフリカ」Nkosi Sikeleli Afrikaひさしぶりに聴いています。
by bacuminnote | 2013-12-08 15:26 | 音楽