わたしはだれ?
2018年 11月 05日
わたしの前をヘルメットかぶった自転車練習中の子とパパが、ボールとスケボーを抱えた一家が、通りすぎて~ああ、そうか。今日は日曜なんだと気づく。
▲しばらく行くと、晴れ着姿の女の子とお姉ちゃんとお母さんらしい三人づれが少し前を歩いてる。あ、そうか、七五三やね~と気づく。水色に手まりや菊の古典柄の着物がよく似合って、慣れない草履のせいか ぎこちない歩き方も、かいらしくて。横を通るときにおもわず「きれいねぇ」と声をかけるおばちゃん(わたし)。お姉ちゃんがママに「わ。きれい、だって~」と言い、ママは下の子の肩に手をおきながら「ありがとうございます」とにっこり笑って。当の女の子は恥しそうに笑ってた(ごめん。いきなりびっくりしたよね!)。
▲年々出不精になっている気がするけど、こんなふうに、判子押したみたいな毎日~買い物や図書館までの同じ道のりも、半径1~2キロの毎日のなかでも、あっち見てこっち見て。退屈せずに機嫌よう暮らしてる。
▲ずいぶん前のことだけど、小説家の津村記久子さんが新聞で《わたしが持っているおもしろい話の半分は、ほとんど電車か飲食店の盗み聞きで得たものだ。そのぐらい公の場で他人が不意に始める話のいくつかは興味深い。まとわりつかず、いい頃合いに離れる感触を持っている》(2012.3.11朝日新聞 関西版・・とノートにメモあり)と書いてはって。
▲そういえば、電車の中でお化粧する人を公共の場で自分の部屋にいるようなふるまいをして・・と非難する人がいるけれど。ひとは街の中で「自分の部屋にいるがごとく」携帯電話で、喫茶店で、いろんなことを結構大きな声で話したりしている。(わたしも・・苦笑)もちろん、それは「聞こう」として聞いてるんじゃなくて、「街の音」と一緒に自然に入ってくるモンやから、話の全貌はわかるはずもないんだけど。たまにその「ちらっと」に、人生はドラマやなあ~としみじみ思ったり、笑ったりすることもあって。
▲他人の人生のほんの一部が一瞬のうちに聞こえて消えてゆくなら、おもしろ半分でいられるけれど、今日読んだ『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン 作/三辺律子 訳/小峰書店2018年刊)■は自分の中に毎日他人の人生が入ってくる、否、他人の体(人生)に自分が一日だけ入り込んでしまう、という驚きの物語だった。
「憑依」なんてことばを使うと、おどろおどろしい感じがして、こわがりのわたしは読むことはなかったと思うけど、これはせつないラブストーリーであった。
▲主人公のAは毎日違うだれかの体で目覚め、毎日違う人間として一日を過ごすという暮らしを16年間続けてる。「宿主」は同じ16歳というだけで、その日によって男の子だったり女の子だったりするんだけど、Aがその体に入り込むのは決まって一日だけ。
ある日、ジャスティンという男の子に「入った」Aは彼とつきあってるリアノンに、思いもかけず恋をしてしまう。でも恋をしたって、翌日にはまた他のだれかの体に「入る」のだから、最初からこの恋愛はつらそうな予感に満ちている。
▲そして、「つきあってる」と言ってもジャスティンはリアノンを心底愛しているとは思えず、リアノンだけが一途に思っている風なので、よけいにAの気持ちはヒートアップするんだけど。翌日は住むところだってどこかわからず。何より誰になるのかわからないんやから、恋愛は成就しようがない。唯一の接点としてAはリアノンにメールのアドレスを知らせるんだけどね。
▲Aならずとも、ひとを好きになったら、どうにかして、何としも、そのひとに会いたいと思うようになるわけで。それこそ「万障繰り合わせて」無理してでも、そのひとのところに向かおうとするよね。
でも、そこがふつーの人とちがう状況にあるAにとっては「宿主」に迷惑のかからないようにしなければならず、それはもうたいへんで。小説とはいえ、その一途さには読んでいてハラハラする。そうして時に女の子の姿で、デカイ男の子で、近く遠くに、Aはたまらずリアノンに会いに行くんよね。
▲やがてAは彼女に自身のこれまでの暮らしを告白し、彼女もまた理解しようとつとめるんだけれど。毎日外観のちがう恋人って、そんな簡単には理解できひんよね。
それにしても、ひとがひとをすきになるのって、そのひと丸ごとをすきになるわけで。恋のきっかけが外見から始まったとしても、中身から始まったとしても、じきにそのひと自身、全部がいとおしくなるわけで。
どうして作者はこんなつらい設定のラブストーリーを考えたんだろう。何を読者につきつけているのだろう。と考え込む。
《結局つまずいたのは、明日っていう概念のせいだった。しばらくして、気づきはじめたんだ。みんなが、しょっちゅう『明日やろう』って言うことに。『明日、いっしょにやろうね』って。そんなの無理だって言うと、変な目で見られた。それでだんだんと、ほかの人たちにとっては、どうやらいっしょに過ごす明日があるらしいことに気づいたんだ。》(p197より抜粋)
▲そのうち、宿主の一人である男の子が「乗っ取られた」ことに気づき(他のみんなは記憶のない一日をぼんやり捉えてる)Aのミスで削除し忘れたメールアドレスにメールが届き始め、物語は思いもかけない展開になるのだけれど。
日々かわってゆく宿主の一人ひとりの描写がいい感じ。つまりそれはAの物の見方にも通じるんよね。「体」のないAがいとおしく、せつない。
《わたしはだれでもないーーあなたはだれ?》~最後から二番目にでてくるAの宿主アレクサンダー・リンの部屋のあちこちに貼ってあるポストイットのひとつだ。(*エミリー・ディキンソンの詩”I'm Nobody! Who are you?”の一節 ■)
*追記
その1)
この本を読んでいるあいだじゅう、耳元でずっと聞こえてきた短歌ひとつ。
「ねむってもねむってもあなたのそばで私は風のままなのでした」(笹井宏之)
その2)
七五三で思い出したけど。わたしは大人になるまで「晴れ着」なんて着たことはなくて。そもそも、小学校入学まで男の子の格好させられてた(本人もそれが嫌だとは言わなかった)、っていうのもあるけど。男の子の「晴れ着」もまた着たことはないのであって。友だちんちでこどもの頃のアルバムを見せてもらうと、たいてい七五三やお正月の着物姿の写真が一枚はあり。
友だちのお母さんが「どれどれ」とか言うて覗き込みに来はったりして。「そうそう。このときの着物は、かいらしかったから高かったのを無理して買ったんよ~」と、エピソードを聞かせてくれたりしてね。
友だちはというと「そんなん買うて、って言うてないのに。親の身勝手やん」とか、わたしに気ぃ使ってか、ちょっと照れ隠しみたいにふくれて見せるんだけど。わあ、ええなあ、と思いながら、ちょっとさみしい思いもしてた。
とはいえ、こどもの頃のわたしは(正確に言うと、小学校入学を機に男の子の格好をやめて、スカートをはくようになってから)バレリーナーのチュチュにはあこがれても(笑)着物が着たかったわけやないから。結局うらやましかったのは晴れ着というよりは、親が子の成長を、それが傍からは、たとえ親ばかみたいに見えたとしても。ほんまにうれしくて、心からよろこんでるところ~だったのかなあと思います。ウチの親はこどもより仕事やったし、そういうとこ、ほんまなかったから。
それにしても。
いまの若いひとらがお宮参りにお食い初め、お節句、七五三・・と、そういう儀式的なことにけっこう熱が入ってるっていうか、そういうのがちょっと意外なんだけど(わたしらの子育て期くらいまでは、まだ「慣習」「儀式」に反抗の世代でもあった気ぃする)
商業主義に乗せられたり、お決まりの「みんながしてるから」とかっていう見えない圧力にぺしゃんこにされるのは、あほらしいけれど。
そういう「形」やなくて。親や家族や、周囲のひとたちに「だいじに思われている」のを知る(感じる)のは、こどもにとって、ものすごい大きな栄養になるやろなあとは思っています。
その3)
こどもが大事にされてるか、というたら、この間観たDVDは、とてもつらい映画でした。『ラブレス』■(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)お互いにべつのパートナーが現れ、離婚の準備を進める夫婦が12歳の一人息子の失踪に直面します。この映画の中で何度もあたりまえに出てくる「スマホを見ている姿」には、どきっとします。「あたりまえの風景」を客観視してる、ような。
そして『女は二度決断する』■も、映画としては、とてもよかったけれど。『ラブレス』とは全くちがう理由ですが、こどもをなくす物語でした。ものすごくつらい。
その4)
きょうはこの映画(『女は二度決断する』のエンドロールで流れた曲を聴きながら。
ああ、もう、何をおいても。こどもが笑顔で暮らせる世界でありますように。
Lykke Li - I Know Places■