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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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そして15年。

▲18日はつれあいのお父さんの命日だった。このブログには何べんも書いているけど、この日のパン焼きがウチの店「パン工房 麦麦」の最後の仕事となり、大阪への転居、つまり店を畳むことを決めたから。毎年色とりどりの葉っぱが道を埋める今時分になると、亡き義父の思い出といっしょに、晩秋の開田高原とパン屋の頃のことを思い出す。
それは幾度もくり返し読んでいる本を、物語の筋も、どこに何が書いてあるのかも、みなわかりながら、読み始めるとたまらず頁を繰って最後まで読んでしまう、そんな読書の時間のようでもあって。

▲とはいえ、もう15年やからね。
滋賀や信州での暮らしも「パン屋のおばちゃん」やった時間も、遠い昔ばなしになってしまったことが、さみしい。やっぱりちょっとさみしいのであって。
この日は、たまたま信州時代の友人が用事で来阪。「あんまり時間ないんだけど、お昼でもいっしょに」ということになった。

▲久しぶりの新大阪駅は日曜ということもあってか、ものすごい人。日頃ベッドタウンと呼ばれる街の中でちいさく暮らしてるから、人の波に酔いそうになるけど、この駅は普段からこんな感じなのかもしれない。
そういうたら、以前息子1のいる東京に行ったとき、渋谷の駅周辺を歩いて、あまりの人にくらくら。「今日はなんかイベントでもあるんやろなあ」と言うて笑われたことを思い出す。
友人の到着は10:23。改札口で点滅する新幹線の発着の掲示板を見上げながら、わたしは15年前のことをぼんやりと思っていた。

▲そうそう、かの友人もまた都会からの移住組で、同じ年の子もいて。だけど歳も離れてるし、育ってきた環境も、家族構成も、趣味も、性格も。もしかしたらちがうことの方が多いかもしれないんだけど。なんでか「ぜんぶ言わなくてもわかる」関係がふしぎで、うれしい。それに、彼女はリアルに「パン屋のおばちゃん」の頃のわたしを見て来てるひとでもあって。

▲さて、再会後の第一声が「で、いまからランチ?」「(おなかに)入る?」「入る・・とおもう」というおばちゃんたち(苦笑)
結局お昼は(まだ「朝」やったけど)彼女の「せっかくの大阪だから、たこ焼きかなあ」に決定。いやあ、朝からたこ焼き屋に入るんは初めてかもしれん~とか思いながら入店。しかしこの時間帯で、すでに店内はほぼ満席だった。

▲猫舌の彼女はともかく、それでなくても「早い」わたしはものの数分で完食してしまったので(わたしは久しぶりの「明石焼き」)しばし「お冷や」で凌ぐ。
互いのホームにいる母親のこと、近く遠くにいる家族のこと、いま自分がしていること、と話は尽きず。場所を喫茶店にうつしてからもノンストップでしゃべるしゃべる。あっというまにタイムリミットとなり「また会おな」とハグして別れ、彼女は梅田に、わたしはお墓のある隣町に、それぞれの電車に乗った。

▲つねづね「1日1イベント」のわたしやからね。こんなふうに1日のうちに2箇所移動は本当にめずらしいんだけど。いつも元気いっぱいの友人に触発されて(じつは日を改めて~とか思ったりしてたけど)墓参に向かった。空はきれいな青、ぽかぽ陽気の日曜の午後~いつも誰もいなくて心細いような墓地のあちこちから声が聞こえ、洗い場で花入れを洗っていたら、バケツに水を汲みに来はる人たちもぽつぽつ。向こうの方からぷーんとセイロガンのにおいがして(近くに製薬工場がある)。ほんまにええ墓参日和。

▲膝痛で曲げられへんから中腰でぼぉぼぉの草抜きをして、土まみれの手ぇ洗うて、はあああ~と空みあげて。
お線香あげて、おばあちゃんお義父さんお義母さんに「来ましたで~」と挨拶して。
ほんま言うとわたしは亡くならはったひとは「ここ」というよりは、自分の胸のうちに居てはる~とおもってるから、何のための墓参か?と問われると「草抜きに」としか答えられないんだけど。なんとか足腰が丈夫な間はたぶん。また来ます。

▲帰途いつも楽しみに立ちどまるお寺の掲示板に、その日は茄子や柿や栗に無花果の絵。よろしなあ。あ、けど絵に添えられた○○○風の詩句は なくても(いや、ない方が)ええんちゃうかなあ~(すまん!)とか思いつつ。いやいや、あれもこれも、といっつも書き加えすぎはあんたの方やろ~とひとり苦笑しつつ自問しつつ歩く。

▲商店街の食べ物屋さんから、コロッケやら唐揚げやらのええにおい。ああ、ハラヘッタ!せやかて10時半にあのたこ焼きだけやもん。駅前に着いて、バスが出るまでの少しの時間に「なにか」と物色するもええもんが見つからず、結局お茶と「かりんとまんじゅう」一個だけ買ってバスに乗り込んだ。

▲疲れて空腹の身に(おおげさ)かりんとまんじゅうもお茶も、しみじみと旨かった。さて、帰りのバス中読書は『フィフティ・ピープル』である。(チョン・セラン著 斎藤真理子訳 亜紀書房2918年刊)~重たい本やから迷ったんだけど無理して持って来てよかったな。

▲題名どおり50人(ほんとは51人)のお話。韓国のどこかの大学病院を大きな駅だとすると、そこから発着する数々の電車。乗り合わせた人、行き交う人々のスケッチ集のようで楽しくて。こういうのだいすきやな。
ちいさなできごとやアクシデントがあって。おもしろいことやうれしいことも、言葉を失うようなつらいことも。各章ひとつひとつ、いや、一人ひとりの物語はふしぎなくらいに、すーっとわたしの中にすべりこみ馴染む。

▲ひとりp10ほどの短いお話なんだけど、どこかで誰かと繋がってたりして。気にかけなければ、それでもそのまま読みすすめることもできる。でも途中はっとして、あ、この人、たしか前にも登場してたなあ~と、いきつもどりつ。だからなかなか先に進まなくて。(←そういうわけで、まだ読了していません)そして「ひとり」の物語のはずが、いつのまにか「そのひと」という経糸(たていと)に「だれか」という緯糸(よこいと)が差し込まれて、思いもかけなかったタペストリーが織り上げられてゆくんよね。

▲ひととひとの繋がりは、どこの国でもどこの街でも、老若男女、どんな学校や仕事をしていても。こんなふうに偶然やら必然やら、なんかわけわからへんうちに出会ったり別れたりのくりかえし。
出版社のHPには《50人ドラマが、あやとりのように絡み合う》とあって。あやとりか~うまいこと言わはるなあと思った。そう、タペストリーより「動き」のあるあやとりの方がかろやかで、この物語をよく言い表してる気がする。

▲それにしても。
出てくるひと出てくるひと皆 どこかで会ったことのあるような親しみを感じるのは何故だろう。
この本は、というかこの本「も」翻訳は斉藤真理子さん(ここ数年次々とええ本を読者に届けてくれている)。そして訳者による「あとがき」もいつもながらとても丁寧で読み応えがあって「もうひとつの作品」と思う。

▲そこに著者チョン・セランさん(1984年生まれの若い書き手)のことばが引かれていて。曰く
《入り口の風船みたいな作家でありたい》
《複雑な思考や苦悩を読者と共にしてくれる作家はたくさんおられるので、私は軽やかな、気安い作家になりたい》
《遊園地や百貨店の入り口で揺れるカラフルな風船のように、文学に接近するエントランスで読者を迎える存在でありたい。そして自分を通過して他の作家の作品を読むようになってくれたらいいという願いである》(p469 「訳者あとがき」より抜粋)

▲先を急がず、つづきをゆっくり味わおうとおもう。
そうそう。最初に書いたパン屋を畳んだときのこと。みんなに「パン屋のおばちゃんやめて、こんどはどんなおばちゃんになるの?」と聞かれて、当時はまだ40代でもあり(但し終盤!)こんどは雪かきも草刈りもしなくていい都会の生活やもん、その時間に何かきっとできるやろう。いや、できるはず~と信州での暮らしや大好きなな友だちと離れるさみしさの一方、どこか意気揚々としていた気もするのだけれど。

▲その後義母のホーム通いや、こどもの心配事や、更年期のしんどさのうちに、走ってみたり、あがいてみたり。ふにゃふにゃ、時にぺしゃんこになった自分も。いつしかトンネル抜けて「これでええやん」と思えるいまの自分もみな。心からいとおしい。
パン屋のころのお客さんで、開田まで訪ねてくださったこともある山口県は周防大島のUさんが、閉店を知らせたあとにくださったお手紙にあったことばを改めてかみしめている。

《開田のすばらしさは、思い出の中だけでなく、子どもも大人も、おとづれた人たちにもきっといい肥やしになっていることでしょう。前進なさい》
(12年前の11.18のブログ→



*追記
その1)
じつはこの「1日2イベント」の2日前にも「1日2イベント」の日がありました。2イベントどころか、多くの人がもっと盛りだくさんのスケジュールをこなしてはるんやろなと思うのですが。
その日は朝からずっといろいろ考えこんで、どんどん煮詰まって。午前中りはびりと買い物に行って帰宅。お昼ご飯のあと、思い立って、二度目の外出をすることに。

『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行きました。時間もけっこう長い(135分)から、ずっと座ってたら膝痛いかな~とか、ネット上での大絶賛にあまのじゃく(←わたし)は、DVDになるまで待つか~と一時は思ったりしたんだけど。とにかく大音量で音楽が聴きたくなって出かけることに。
しかし映画を観てる時間はあっという間で、煮詰まったあれやこれなど、すっかり忘れて音楽の世界にふるえました。

映画観てるというよりライブ聴きに来たようでもあり。若いころの"no music, no life"やった日々を(まあ、今もだけど、若いころとはもう濃度がちがう)「体ぜんたい」が反応/思い出した、という感じがして。はああ~フレディの歌もバンドの演奏もよかったなぁ!もう一回観たい(聴きたい)くらい。ああ身も心もすっきり。

映画館を出たら外は真っ暗で、バスの車窓~流れる夜の街の灯が映画の続き観てるようで、とてもきれいで。いつもだったらもうご飯も食べ終わってる時間やなあ~とか思いながら。たまにはやっぱり家の外に!です。

ちなみに映画の日は9846歩、新大阪の日は9978歩も歩きました。いつもの倍歩いて、くたびれたし、案の定ひざは痛かったんだけれど。からだを庇うばかりでいたら中身(ハート)がしぼむ~気がするから。両日とも、ほんまにうれしいええ日でした。


その2)
そうそう、この映画の中で主人公のフレディがバンドのメンバーと衝突する場面で、ギターのブライアン・メイに「俺がいなかったら、お前なんか天文学者になって、誰も読まない論文を書いていただろうよ!」と言うところがあるんだけど。この方、音楽活動で長らく離れていた天文学の研究をその後再開して、ほんまもんの天文学者に(←2007年”AstroArts” 天文ニュース)~というのをあとで知りました。ジンセイは旅、と思う。


その3)
今回もだらだら、あっち行きこっち行き、の着地知らず(苦笑)のブログになりました。ここまで読んでくださった方おおきに。ありがとうございます。上に《あれもこれも、といっつも書き加えすぎはあんた自身やろ~とひとり苦笑しつつ自問しつつ》とか書いてすぐに、これです。

やっぱり今日はこれを聴きながら。その昔はロック少女やったけどリアルタイムにはそんなに聴いてこなかったQueen。それでも、映画観てフレディのバックボーンやバンドのメンバーのことも少しは知って。歳とってからあらためて聴くQueen。とてもいいです。
Queen - Somebody To Love



*追記の追記*
さっき件の「たこやきの友」よりメールあり。
たこ焼きで火傷した上あごがようやく治ったこと。
そして高校生のとき武道館にQUEENのコンサートに行ったこと。彼女が当時住んでいた藤沢→東京が440円。地下鉄で九段下まで60円。「背中が壁」というC席が2000円だったそうです。さすがわが友、よう覚えてはります。
そして、かの地は今朝マイナス6度。明日は いよいよ雪らしい。
by bacuminnote | 2018-11-21 12:23 | 本をよむ