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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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えんどう豆五つ。

▲一時はため息つきながら 売り場前を行きつ戻りつするほど高価だった野菜~このところねだんも安定しており。それに新鮮春野菜も出てきて、ついついあれもこれも買ってしまう。
とはいえ、野菜のぜいたくはその嵩の大きさ(!)と旨さを思ったら安いもんや~と自分に言い訳しながら、ウインドウから誘いかけられる洋菓子和菓子のこれまた春バージョンのうつくしいお姿を(今日のとこは)横目に歩く。
途中知り合いに会うと「わあ、どこへ買い出しに行ってきはったん?」と背中のリュックの大きなふくらみを笑われるのだけど。

▲昨日はえんどう豆を買おうか迷ってたら、年配の方が独り言のように、いや、隣に立つわたしに尋ねるような感じで「これ、ひと袋に何グラムぐらい入ってるんやろねえ?」とつぶやかはった。
知らん顔しよかな、と一瞬思ったけど「この店ではよく《ご飯三合に豆300gが目安》と書いてあるし、300g位なんとちゃいますか?」とやっぱり黙ってられずに(苦笑)応えた。

▲「そうかぁ。そうですよねえ。でもね、わたしは豆ご飯より、甘辛う煮て卵とじが好きなんですぅ~」「卵とじ、おいしいですよねえ」~こんなふうに食品売場で知らん人とその場限りの「晩ごはんのおかず」の話はけっこう好き。
時には初めての食材の調理法を教わったり、尋ねられることもあって。昨日は結局二人ともそのえんどう豆300g(←たぶん)一袋カゴに入れて「ほんなら」と右と左にわかれた。

▲帰り道は春というより初夏のような陽気で。荷物になると思って着ていたカーディガンもがまんできずに脱ぐ。すれちがった赤ん坊はぷくぷくの素足をベビーカーのバーの上にでんと投げ出して。ころころした小さな足の指が行儀よく並んでるようすは、それこそ鞘の中のえんどう豆みたいで。かいらしいこというたら。
そのうえ、かのひとに笑いかけたら とびきりの笑顔を返してもろて。ついさっきまで、まだ撤去されてない選挙ポスターの掲示板を苦々しく睨みつけてたおばちゃん(わたし)も思いがけずごきげんの午後となった。

▲この間こどもが主人公の映画を二本観た。一本はドキュメンタリーでもう一本はフィクション。これが観たくて、隣町のレンタルショップまで(わたしにしたら長距離)がんばって歩いて行って来たんだけど。ほんま、その甲斐のある作品だった。そして観ている間も観終わったあとも、こどもらの顔や声がわたしの中でいつまでも残って、問いかけてくる。ここ数日は何かのたびに、つれあいともこの映画の話、こどもの話をしている。

▲ドキュメンタリー『子どもが教えてくれたこと』(原題:Et les mistrals gagnants)の主人公は重い病気をもつアンブル、カミーユ、イマド、シャルル、テュデュアルの5人の子どもたち。
それはとてもクールで温かな映画だった。クールで温か、って矛盾してるようだけど、対象に真摯にむきあうってことはクールでないとだめで、そしてそんな風にむきあうためには相手を敬うきもちと温かな思いがないとあかんと思う。この映画には撮る側の、こどもを一人の人間として敬意と愛をもって寄り添っていることをあちこちで感じたから、安心して観ることができた。どこぞの人がさかんに言う「寄り添う」など、なんと空疎なことか。アンタは金輪際その言葉使わんといてくれ~と思う。

▲映画を観たあと公式HPで知ったことだけど、監督のアンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン自身が長女を異染性白質ジストロフィーという病気で幼くして亡くし、その後うまれた次女も同じ病気だった~という経験をもつそうで。

▲五人のこどもらの病気は腎不全、神経芽腫、表皮水疱症、動脈性肺高血圧症と様々だけど、共通しているのは、幼いときから検査や手術や入院や治療や投薬を経験し、ずっと病気とつきあっているところ。そして、同じ年頃のこどもらがそうであるように、ふつーに友だちと遊びたい、とびまわりたい、親や家族といっしょに居たい、こどもであるということ。

▲こどもが病気や怪我を経験すると内省的になる気がするけれど、この子たちもとても豊かなことばを持っていて、それにとても哲学的だ。以前観たやっぱりフランスの映画『ちいさな哲学者』を思いだす。
《死んじゃったら、その時はもう病気じゃない》
《病気でも幸せになれるよ》
《友達が死んだら長い間悲しい気持ちになる。でもそれは不幸とは違う。自分次第で幸せになれるんだ》

▲わたしはフランス語がわからないので、字幕だけが頼りやから、こどもらのことばのニュアンスはちょっとちがうものかもしれないんだけど。ひとつひとつ書き留めたいくらい響いた。
が、そんな深いことばを言うこどもたちだけど、やっぱり病気も薬も時々つらくて。

▲映画の中でもその発言がきわだっていたイマド~いつだって愉快でユーモリストな彼が 自宅でいつものように透析をする前に突然泣き出す場面や、皮膚が「蝶の羽みたいに弱くて、薄い紙みたいにすぐ破ける」シャルルが入浴して、薬を塗布して何重にも皮膚を保護したあと、痛痒くなって(たぶん)泣きそうになってる姿に。わたしもたまらなくなって一緒に泣き出してしまう。

▲だけど、そんなこどもたちの苦痛を取り除けるように、また病気のこどもと歩む家族をサポートするために、医療・介護・福祉いろんなチームのスタッフが知恵を出し合っている。
そして自分の病気を「知る」ために、こどもも医師やスタッフから、一人の患者として、話を聞く。だから症状をコントロールする薬やその分量も、何より自分の病気の重さをも、その子なりにきちんと把握しているんよね。
ああ、それにしても。「自分を知る」ということも、「こども扱いされない」ということも。なんとすばらしく尊く、そしてなんと厳しいことなんだろう。

▲映画はかつての息子の病院通いを思い返す時間でもあった。そして同時にわたしのだいじな友人や姪が経験していることをおもう。ときどき親は不安で胸がつぶれそうな思いをするけれど。
でもでも、映画の中でちいさいひとたちが、とびきりの笑顔でこう言うのである。

《うまくいかないことがあっても何とかなるわ。それが人生よ。悩みごとは脇に置いておくか、つきあっていくしかないの。愛してくれる人たちがいれば幸せだわ》(アンブル)
《ハクナ・マタタ どうにかなるさ~》(シャルル)



*追記
その1)
もう一本の映画『悲しみに、こんにちは』(原題:Estiu 1993 英題:Summer1993)は、スペインの映画です。両親を病気で亡くし一人になった主人公のフリダは、バルセロナの祖父母の元からカタルーニャの田舎に住む叔父家族に引き取られることになります。叔父の妻もこどものアナもみんなフリダのことを、ほんとうの家族のように暖かく迎えてくれるのですが。

都会から田舎の生活に、大事にしてはくれるものの、甘やかしてくれた祖父母の元を離れて、フリダのきもちは揺れます。

一方ふつうに両親の愛に包まれた幼年期をすごすアナは、かわいくて無邪気で、フリダのことも姉のように慕うのだけど。
その無邪気さがフリダにとっては癇に障ることもあるんよね。こどもの時から周囲の顔色や空気を読むことをおぼえた(おぼえさせられた)子と、そうでない子。フリダの不機嫌がいとおしい。アナの無邪気さがいとおしい。わたしの中にもいるフリダとアナ。

ああ、こどもってたいへん。そしておとなもたいへん。生きるってほんまにたいへんなこと。でも大変と大変のすきまに「何か」あると、なんとか繋いで、埋めて、いってくれる気がします。「何か」が、だれの上にも、ひとつでもありますように~とねがうような気持ちです。そうそう『子どもが教えてくれたこと』もこの映画も、30~40代の女性の監督によるものでした。

そして、思い出すのは親と共に暮らせなかったこどもの物語。『10歳の放浪記』のなこちゃんも、『サラスの旅』のサラス、映画では『冬の小鳥』のジニも、『少年と自転車』のシリルも、『僕がいない場所』のクンデル~以前ここ(2013.8.31)にも書きました。



その2)
映画の話は久しぶり。今回は書けなかったけど『運命は踊る』ドキュメンタリー『黙ってピアノを弾いてくれ』もとても印象深い映画でした。


その3)
今日は『子どもが教えてくれたこと』のエンドロールに流れてたDoves - There Goes The Fearを聴きながら。あ、これ『(500)日のサマー』(すき)にも流れてた曲!
by bacuminnote | 2019-04-23 21:17 | 映画