2009年 09月 30日
大きな欠伸ひとつして。 |
▲日中、あまりに残暑きびしいので「夏のおわりは心さびしい」などと言うてたことを撤回。もうええし、早う「秋」と替わってちょうだい、と勝手なことをぼやいてたら、今朝のなんとすずしいこと。なんか「夏」にあやまりたいような気持ちで(苦笑)カーデーガンを引っ張り出してきた。昨日よりうんと冷たくなった空気に「秋」がすぐそばにいることをかんじる。いつもこの時期に書くすきなことば。『秋立ち 秋闌(た)て 秋仕舞う』
まだかまだか、と思ってるうちに、すうーっとやってきてま横に立って。心地よくおもっていると、気がつけばもうそこにはいない。秋はだいすきでふしぎな季節だ。
▲夏じゅう籠もっていたわたしも9月に入ったとたんに外出することが多くなった。見かけによらず体力がないので、いつもはカレンダーの数字に丸印が多くなると、それがたのしいことの丸印でも なんだか気が重くなるんだけど。意外に元気な今日この頃。エアコンOFFで夏を過ごしたからやろか。
すきな「本関係」では角田光代さんの講演会にも、また国際児童文学館(行くとそのすばらしさに再び「存続を!」と思う)では編集者・小宮山民人氏(理論社)の講座『児童書編集者に本作りを聞く。一冊の本ができるまで』にも行って来た。
▲そして、児童文学館に行った翌日は おなじ万博公園内にある国立民族学博物館に相方とでかけた。いくら方向音痴のわたしだって、一日前に行った場所やもん。(この二つの建物は同じエリアにある)「みんぱく」には車でしか行ったことのない相方に「まかしといて」とばかりにすたすたと先を歩いた。というか、この日もモノレールの中から一緒だった女性の三人組・・・きっと「みんぱく」行き、と思ったらやっぱりそうで、その人達のあとに続いただけの話なんだけど。
▲ところが、ついて行ったらなんと行き止まり。「わあ、間違ったねえ」と言い合いながら引き返す三人組・・・というわけで、結局わたしは相方の後をとぼとぼ ついて目的地に到着、というなさけない結末となった。が、汗だくになって歩いたあと、館の前のお店で食べたソフトクリームがおいしくていっぺんに元気が出た(←なんか失敗して しょげた子どもがアイスでソッコウ笑顔に、の図である)「みんぱく」は常設だけでじゅうぶんに楽しい場所だけど、この日は『伝統芸能パンソリによる韓国文化の理解』という公演鑑賞。
▲パンソリとは歌い手が太鼓の伴奏者と二人だけで物語りを歌い語る韓国の伝統芸能で、「パンソリのパンとは、多くの人が集まって何かをする場所を、ソリとは人の肉声は無論のこと、鳥獣や虫の声から雨風に至るまで、およそ森羅万象の発する音声すべてを意味する言葉」(当日配布の資料・・野崎充彦『朝鮮の物語』大修館書店刊より)
わたしはずいぶん前に映画『風の丘を越えてー西便制』で観たことがあるけど、実際に観る、聴くは初めての経験だった。
▲多くの伝統芸能がそうであるように、パンソリもまた師匠が口伝えで弟子に指導する。腹の底から絞り出すような迫力のある声が出るようになるには、文字通り「血を吐く」修行を重ねるのだそうだ。その日はバックのスクリーンに日本語字幕が映ってわかりやすかったけど、たとえ意味がわからなくても引き込まれると思う。聴く者を放さない、じんじんと胸の底までひびくものがあって、揺さぶられる。
▲一部のパンソリや合奏のあと二部ではワークショップがあって、実際に南海星ナム・ヘソンさん(韓国の重要無形文化財)がお弟子さんに、どのようにして伝えるのか、口伝の実演をみせて下さった。「今日はやさしいから怖がらなくてもいいよ」とたのしい先生。でもその前に座るとお弟子さんの顔がとたんに引き締まる。ふだんは相当きびしそうだ。
その後 会場の皆も師匠の声のあとに続ける、という練習をしたんだけど、声だけを頼りに、あとに続けるむずかしさ!
▲南さんの弟子であり、その日の企画もなさったという在日三世の安聖民(アン・ソミン)さんは、ご自分がパンソリにであった経緯の中、パンソリの稽古に毎年夏に山で行われる合宿したことを話された。
合宿は「山工夫」(さんこんぶ)と呼ばれているそうで。「工夫」とは日本語でいう「勉強」の事。でも、勉強のように「強いられる」ものではなく、山で自分のうたや声の出し方を工夫して学ぶ。「いいことばだなあと思います」と言うてはったが、本来「学び」とはそういうものなんやろね。忘れないようにノートに書き留めた。
▲帰りは会場で会った相方の友人と一緒に歩いた。行くときは真夏の暑さだったのがうそのように、すっかり熱が引き、風が出て、大きな木々の上、みどりがゆれる。空はうすい灰色で、大きな欠伸ひとつしてゆっくり出口にむかった。
まだかまだか、と思ってるうちに、すうーっとやってきてま横に立って。心地よくおもっていると、気がつけばもうそこにはいない。秋はだいすきでふしぎな季節だ。
▲夏じゅう籠もっていたわたしも9月に入ったとたんに外出することが多くなった。見かけによらず体力がないので、いつもはカレンダーの数字に丸印が多くなると、それがたのしいことの丸印でも なんだか気が重くなるんだけど。意外に元気な今日この頃。エアコンOFFで夏を過ごしたからやろか。
すきな「本関係」では角田光代さんの講演会にも、また国際児童文学館(行くとそのすばらしさに再び「存続を!」と思う)では編集者・小宮山民人氏(理論社)の講座『児童書編集者に本作りを聞く。一冊の本ができるまで』にも行って来た。
▲そして、児童文学館に行った翌日は おなじ万博公園内にある国立民族学博物館に相方とでかけた。いくら方向音痴のわたしだって、一日前に行った場所やもん。(この二つの建物は同じエリアにある)「みんぱく」には車でしか行ったことのない相方に「まかしといて」とばかりにすたすたと先を歩いた。というか、この日もモノレールの中から一緒だった女性の三人組・・・きっと「みんぱく」行き、と思ったらやっぱりそうで、その人達のあとに続いただけの話なんだけど。
▲ところが、ついて行ったらなんと行き止まり。「わあ、間違ったねえ」と言い合いながら引き返す三人組・・・というわけで、結局わたしは相方の後をとぼとぼ ついて目的地に到着、というなさけない結末となった。が、汗だくになって歩いたあと、館の前のお店で食べたソフトクリームがおいしくていっぺんに元気が出た(←なんか失敗して しょげた子どもがアイスでソッコウ笑顔に、の図である)「みんぱく」は常設だけでじゅうぶんに楽しい場所だけど、この日は『伝統芸能パンソリによる韓国文化の理解』という公演鑑賞。
▲パンソリとは歌い手が太鼓の伴奏者と二人だけで物語りを歌い語る韓国の伝統芸能で、「パンソリのパンとは、多くの人が集まって何かをする場所を、ソリとは人の肉声は無論のこと、鳥獣や虫の声から雨風に至るまで、およそ森羅万象の発する音声すべてを意味する言葉」(当日配布の資料・・野崎充彦『朝鮮の物語』大修館書店刊より)
わたしはずいぶん前に映画『風の丘を越えてー西便制』で観たことがあるけど、実際に観る、聴くは初めての経験だった。
▲多くの伝統芸能がそうであるように、パンソリもまた師匠が口伝えで弟子に指導する。腹の底から絞り出すような迫力のある声が出るようになるには、文字通り「血を吐く」修行を重ねるのだそうだ。その日はバックのスクリーンに日本語字幕が映ってわかりやすかったけど、たとえ意味がわからなくても引き込まれると思う。聴く者を放さない、じんじんと胸の底までひびくものがあって、揺さぶられる。
▲一部のパンソリや合奏のあと二部ではワークショップがあって、実際に南海星ナム・ヘソンさん(韓国の重要無形文化財)がお弟子さんに、どのようにして伝えるのか、口伝の実演をみせて下さった。「今日はやさしいから怖がらなくてもいいよ」とたのしい先生。でもその前に座るとお弟子さんの顔がとたんに引き締まる。ふだんは相当きびしそうだ。
その後 会場の皆も師匠の声のあとに続ける、という練習をしたんだけど、声だけを頼りに、あとに続けるむずかしさ!
▲南さんの弟子であり、その日の企画もなさったという在日三世の安聖民(アン・ソミン)さんは、ご自分がパンソリにであった経緯の中、パンソリの稽古に毎年夏に山で行われる合宿したことを話された。
合宿は「山工夫」(さんこんぶ)と呼ばれているそうで。「工夫」とは日本語でいう「勉強」の事。でも、勉強のように「強いられる」ものではなく、山で自分のうたや声の出し方を工夫して学ぶ。「いいことばだなあと思います」と言うてはったが、本来「学び」とはそういうものなんやろね。忘れないようにノートに書き留めた。
▲帰りは会場で会った相方の友人と一緒に歩いた。行くときは真夏の暑さだったのがうそのように、すっかり熱が引き、風が出て、大きな木々の上、みどりがゆれる。空はうすい灰色で、大きな欠伸ひとつしてゆっくり出口にむかった。
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by bacuminnote
| 2009-09-30 01:04
| 音楽