2010年 09月 23日
「昨日まで無かりし花」 |
▲ 朝方、ばりばりっ~と空が割けるような雷鳴と雨音で目が覚めた。
いつもなら雷がこわくて大騒ぎしているとこやけど。昨夜は「蚊」に何度も起こされて夜中に蚊帳(一人用のテント型)を広げたので蚊帳の中で落ち着いており。
激しく長い雷鳴も蚊帳の麻糸の細い織り目をぼぉーっと眺めながら、大人しくその音に聞き入っていた。
そうそう、子どもの頃は「雷が鳴ったらおへそかくして蚊帳の中に」っておまじないみたいに言うてたなあ。部屋いっぱいに吊った蚊帳の深い緑色や、雷が鳴ると何をおいてもまずシャツをパンツに挟みこんでいた事を思い出して、一人くすくす。
▲ やがて雷もなりを潜め雨が上がると、しんとしてあたりはすっかり「秋」になっていた。昨日のあの蒸し暑さは何だったのかと思うほどにひんやり。
台所に立つと、やかんの湯気があったかくうれしく感じた。
湿気った雨戸をよこっらしょと開けると、雨にぬれた草の中に朝顔が高野槙の下にひとつ咲いているのがみえた。雨で花はちょっとひしゃげていたけれど、儚げなそのあおむらさき色がほんとうにきれいで胸がつまるようだった。
▲ そういえば、春に種を蒔いたとき余った種をいつもドクダミの群生地(苦笑)となる庭木の近くにぱらぱら蒔いて土をかぶせたのだけど。
いつしかそんなことも忘れて何度か鎌でばさばさとじつに乱暴に草刈もしてたのに(ごめん)。よく無事でいてくれたものだ。ツルをたどってみると、やっぱり種を蒔いたあたりに根をはっている。そんなことを相方に話してたらちょっと前の新聞に載っていたうたを教えてくれた。(朝日新聞Be刊、磯田道史の「この人、その言葉」)
それは橘曙覧(たちばなのあけみ・1812~ 1868)という幕末の歌人の『たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時』だった。わたしもまた「昨日まで無かりし花」がうれしくて何度も窓から身を乗り出すようにしてあおむらさき色に見入っている。
▲ さて、お昼ごはんに、と今夏冷蔵庫につねに欠かさなかった冷奴を出したら、なんだか寒くて食指がのびない。これからは母にまた 「あんたとこはまた鍋でっか」とからかわれる季節だ(苦笑)
先述の橘曙覧は 『独楽吟』(橘曙覧著・グラフ社刊)でこんなうたをうたっている。(「独楽吟」とは第一句を「たのしみは」でうたいだし、末句を「時(とき)」で結ぶ形式)
『たのしみは つねに好める 焼豆腐うまく烹(に)たてて 食はせける時』
煮た豆腐の湯気がうかぶようで、湯豆腐や焼き豆腐の甘辛く炊いたんやら食べたくなる。
▲『独楽吟』にはこの他にも食べ物のうたがいくつもあって、貧しい暮らしの中 その「たのしみ」のようすに頬がゆるむ。
『たのしみは まれに魚烹(に)て 児(こ)等(ら)皆が うましうましと いひて食ふ時』
『たのしみは 木の芽瀹(に)やして 大きなる 饅頭を一つ ほほばりし時』
橘曙覧の生涯は「清貧」そのものだったようだが、たべものや人、読書のよろこび、日常生活への視線がほんとうに温かい。いま一首あげるとしたらこのうた。
『たのしみは とぼしきままに 人集め 酒飲め物を 食へといふ時』
ひさしぶりのあの人、この人を誘って「鍋」をつつき、のみたい、話したい、そんな季節になった。(やっと)
*追記*
『独楽吟』五十二首は ここ(福井市橘曙覧記念文学館HP)でも読めます。
昼寝や居眠りのうたがけっこうあって、うんうんとうなずいたり、わらったり。
『たのしみは 昼寝目ざむる 枕べに ことことと湯の 煮えてある時』
いつもなら雷がこわくて大騒ぎしているとこやけど。昨夜は「蚊」に何度も起こされて夜中に蚊帳(一人用のテント型)を広げたので蚊帳の中で落ち着いており。
激しく長い雷鳴も蚊帳の麻糸の細い織り目をぼぉーっと眺めながら、大人しくその音に聞き入っていた。
そうそう、子どもの頃は「雷が鳴ったらおへそかくして蚊帳の中に」っておまじないみたいに言うてたなあ。部屋いっぱいに吊った蚊帳の深い緑色や、雷が鳴ると何をおいてもまずシャツをパンツに挟みこんでいた事を思い出して、一人くすくす。
▲ やがて雷もなりを潜め雨が上がると、しんとしてあたりはすっかり「秋」になっていた。昨日のあの蒸し暑さは何だったのかと思うほどにひんやり。
台所に立つと、やかんの湯気があったかくうれしく感じた。
湿気った雨戸をよこっらしょと開けると、雨にぬれた草の中に朝顔が高野槙の下にひとつ咲いているのがみえた。雨で花はちょっとひしゃげていたけれど、儚げなそのあおむらさき色がほんとうにきれいで胸がつまるようだった。
▲ そういえば、春に種を蒔いたとき余った種をいつもドクダミの群生地(苦笑)となる庭木の近くにぱらぱら蒔いて土をかぶせたのだけど。
いつしかそんなことも忘れて何度か鎌でばさばさとじつに乱暴に草刈もしてたのに(ごめん)。よく無事でいてくれたものだ。ツルをたどってみると、やっぱり種を蒔いたあたりに根をはっている。そんなことを相方に話してたらちょっと前の新聞に載っていたうたを教えてくれた。(朝日新聞Be刊、磯田道史の「この人、その言葉」)
それは橘曙覧(たちばなのあけみ・1812~ 1868)という幕末の歌人の『たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時』だった。わたしもまた「昨日まで無かりし花」がうれしくて何度も窓から身を乗り出すようにしてあおむらさき色に見入っている。
▲ さて、お昼ごはんに、と今夏冷蔵庫につねに欠かさなかった冷奴を出したら、なんだか寒くて食指がのびない。これからは母にまた 「あんたとこはまた鍋でっか」とからかわれる季節だ(苦笑)
先述の橘曙覧は 『独楽吟』(橘曙覧著・グラフ社刊)でこんなうたをうたっている。(「独楽吟」とは第一句を「たのしみは」でうたいだし、末句を「時(とき)」で結ぶ形式)
『たのしみは つねに好める 焼豆腐うまく烹(に)たてて 食はせける時』
煮た豆腐の湯気がうかぶようで、湯豆腐や焼き豆腐の甘辛く炊いたんやら食べたくなる。
▲『独楽吟』にはこの他にも食べ物のうたがいくつもあって、貧しい暮らしの中 その「たのしみ」のようすに頬がゆるむ。
『たのしみは まれに魚烹(に)て 児(こ)等(ら)皆が うましうましと いひて食ふ時』
『たのしみは 木の芽瀹(に)やして 大きなる 饅頭を一つ ほほばりし時』
橘曙覧の生涯は「清貧」そのものだったようだが、たべものや人、読書のよろこび、日常生活への視線がほんとうに温かい。いま一首あげるとしたらこのうた。
『たのしみは とぼしきままに 人集め 酒飲め物を 食へといふ時』
ひさしぶりのあの人、この人を誘って「鍋」をつつき、のみたい、話したい、そんな季節になった。(やっと)
*追記*
『独楽吟』五十二首は ここ(福井市橘曙覧記念文学館HP)でも読めます。
昼寝や居眠りのうたがけっこうあって、うんうんとうなずいたり、わらったり。
『たのしみは 昼寝目ざむる 枕べに ことことと湯の 煮えてある時』
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by bacuminnote
| 2010-09-23 22:24
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