2012年 11月 30日
あれはお茄子の炊いたん、やろか。 |
▲ この間のこと。お陽ぃさんに背中おされるようにして墓参に行ってきた。
けど、冬の部屋から見るぽかぽか陽気ほどアテにならんもんはない。あんなに温かったのに(あ、ストーブのおかげやったんか・・)外はつめたい冬の青空。お墓そうじするのに動きやすいようにと、薄着で来たことを悔いながら、本を返しに図書館に寄って、ついついまた一冊借りてしまったことを(重たいのに)悔いながら、バスに乗り込んだ。
▲ バスの移動はけっこうすき。
子どもの頃は「酔う子」やったから、遠足はたいてい前の方の座席で、リュックサックの右のポケットにはハンカチ、はな紙(←この頃の子は「はな紙」なんて言わへんね)左のポケットには必ずビニール袋が二、三枚入れてあった。行きは元気いっぱい、隣の子に前に、後ろに、と360度回転でしゃべりまくってるんだけど、問題は帰りの車中。
▲母親に「酔うたらあかんから、みかんは食べたらあかんで、チョコレートもあかん。下むいて字ぃ書いたりしたら絶対あかんで」とさんざん言われて出てきたのに「一個くらいええやろ」「まあ、二個はええことにしよ」と、ひとつづつ自主解禁(苦笑)そのうちバスの中ではマイクが回り、歌になぞなぞに、と盛りあがる中、だんだん無口になるわたし。やがてリュックの左ポケットを開けることになるんよね。
▲そういうたら、いつ頃から車酔いしなくなったのかなあ。
いまは本も読むし、字も書くし、チョコレートだってokだ。(さすがに路線バスの中でみかんは食べないが・・)
この日はちょっと重たいけど『柔らかな犀の角 山崎努の読書日記』 (文藝春秋)をバッグに入れて来た(のに、一冊借りたからよけいに重くなった)この本の帯のことばがすばらしい。
《一刻も早く手にしたい本があって書店に向かう。気が逸(はや)って急ぎ足になる。読書の快楽はもうその時から始まっている。歳甲斐もなく、というか歳のせいというか、息を弾ませて店に入る(本文より)》
▲ ああ、きっとこういうの すきな人に会いに行くような気分やね。(←ほとんど忘れかけてるけど)
今のわたしは駆ければ足がもつれそうになるし、息弾ませてというより息切らせて、というなさけない姿ながら、すきな本に会いに行くその「気が逸る」感じ、ほんまによくわかる。
そんなふうに本のこと思ってる人の書かはった読書日記なんやもん。おもしろくないわけはない。頁を繰るごとにノートには「読みたい本メモ」がどんどん増えてゆく。
▲元は週刊誌の連載記事で、☓月☓日と日記風に三日分、三冊の本の読書日記が一回分の掲載になっていたようで。タイトルはついてるものの「◯◯について」というようなはっきりしたテーマではなく。三冊がどこかでゆるく繋がり、そして広がっていくのがたのしい。
読書からとおくなった人でも、これを読んだら本屋さんをのぞきたくなると思う。
▲この日読んだのは「少年と老詩人」というタイトル。もしかしたら、と思ったらやっぱり!『あたらしい図鑑』(長薗安浩著~以前ここで紹介した『最後の七月』の作者)のお話。ええんよね~村田さんという長身のかっこいい詩人(たぶん田村隆一のイメージ)と十三歳のぼく、の世界。二冊目は『詩人からの伝言』(おなじく長薗安浩著)で、最後の一冊は『老人と海』(ヘミングウェイ)。この展開、すばらしい。
▲ 「うとうとたらたら、笑いの王国」では佐野洋子『役にたたない日々』~中場利一『純情ぴかれすく』~『短編ベスト・コレクション 現代の小説2008』と語ってゆく。知っているのは『役にたたない日々』だけなんだけど、他の二冊も読んでみたくなる。何より、何回も読んでるはずの佐野洋子さんのこの本を、また「もういっぺん」手にしたくなる読書日記だった。曰く
《木々の葉っぱ、地面、雪、「自然はいつだって、ストリップだなあ」と呟き、身を曝して生きる洋子さんの気迫と品格に打たれる。「この先長くないと思うと天衣無縫に生きたい、思ってはならぬ事を思いたい」が印象的。
もう一つ、認知症の母親との会話。「母さんも九十年生きたら疲れたよね。天国に生きたいよね。一緒に行こうか。どこにあるんだろうね。」天国は」「あら、わりと「そのへんにあるらしいわよ」》
▲ 山崎努さんは昔から役者としてもすきだけど(とくに山田太一脚本のドラマの山崎努ファンです)いっぺんに彼の文章のファンになった。
『著者来店:本よみうり堂』で《表現は新鮮さが命。通り一遍ではつまらないし、手あかのついた言葉は使いたくない。観客や読者の思いもかけないところに行かないと》と言うてはったけど。さすが。
▲ さて、本に夢中になっていたらあっというまに終点に到着。
平日のちょうどお昼どき、ということもあってか なんと墓地にはわたしひとりきりで。ちょっと心細くなるも、近くのお家から煮物のええにおいがぷ~んとやってきて、なんかほっとする。あれはお茄子と干し海老の炊いたん、やろか。おなかがぐうと鳴ってひびいて、思わず辺りをきょろきょろ。←せやから、だれもおらへん、って。(苦笑)
▲ケッコンした頃には、会ったこともない知らないひとたちのお墓やったけどね、三十年あまりもたったから。おばあさんにお義父さんがここにいてはる。ひさしぶりに来た分伸びた草抜いて、落ち葉拾って。水受けや花入れ洗ぅて。ひと通り終わったら次は「墓のうらに廻る」(尾崎放哉)
▲ いつも駅から行きはタクシーで、帰りは「ぼちぼち」歩くことにしている。(行き先が行き先だけに、とかあほなこと言いながら・・)その日も酒屋さんの店先をのぞき、青果店のいっぱいのカゴ盛りを見て、ゆっくり歩く。せっせと動いたせいか、つめたい風がほてった頬にきもちよく。
途中にあるお寺の掲示板の一句に(毎回たのしみにしてる)また足をとめるのだった。
『空はゆたかな柿のうれたる風のいろ 山頭火』
*追記
「著者来店:本よみうり堂」→ ■
その2)
あまりに 腹だたしいことばかりやから。きょうはこんなん聴きながら書きました。
♪ ああ、魔法のバスに乗っかって、ああ、どこか遠くまで~
曽我部恵一BAND「魔法のバスに乗って」 ■
けど、冬の部屋から見るぽかぽか陽気ほどアテにならんもんはない。あんなに温かったのに(あ、ストーブのおかげやったんか・・)外はつめたい冬の青空。お墓そうじするのに動きやすいようにと、薄着で来たことを悔いながら、本を返しに図書館に寄って、ついついまた一冊借りてしまったことを(重たいのに)悔いながら、バスに乗り込んだ。
▲ バスの移動はけっこうすき。
子どもの頃は「酔う子」やったから、遠足はたいてい前の方の座席で、リュックサックの右のポケットにはハンカチ、はな紙(←この頃の子は「はな紙」なんて言わへんね)左のポケットには必ずビニール袋が二、三枚入れてあった。行きは元気いっぱい、隣の子に前に、後ろに、と360度回転でしゃべりまくってるんだけど、問題は帰りの車中。
▲母親に「酔うたらあかんから、みかんは食べたらあかんで、チョコレートもあかん。下むいて字ぃ書いたりしたら絶対あかんで」とさんざん言われて出てきたのに「一個くらいええやろ」「まあ、二個はええことにしよ」と、ひとつづつ自主解禁(苦笑)そのうちバスの中ではマイクが回り、歌になぞなぞに、と盛りあがる中、だんだん無口になるわたし。やがてリュックの左ポケットを開けることになるんよね。
▲そういうたら、いつ頃から車酔いしなくなったのかなあ。
いまは本も読むし、字も書くし、チョコレートだってokだ。(さすがに路線バスの中でみかんは食べないが・・)
この日はちょっと重たいけど『柔らかな犀の角 山崎努の読書日記』 (文藝春秋)をバッグに入れて来た(のに、一冊借りたからよけいに重くなった)この本の帯のことばがすばらしい。
《一刻も早く手にしたい本があって書店に向かう。気が逸(はや)って急ぎ足になる。読書の快楽はもうその時から始まっている。歳甲斐もなく、というか歳のせいというか、息を弾ませて店に入る(本文より)》
▲ ああ、きっとこういうの すきな人に会いに行くような気分やね。(←ほとんど忘れかけてるけど)
今のわたしは駆ければ足がもつれそうになるし、息弾ませてというより息切らせて、というなさけない姿ながら、すきな本に会いに行くその「気が逸る」感じ、ほんまによくわかる。
そんなふうに本のこと思ってる人の書かはった読書日記なんやもん。おもしろくないわけはない。頁を繰るごとにノートには「読みたい本メモ」がどんどん増えてゆく。
▲元は週刊誌の連載記事で、☓月☓日と日記風に三日分、三冊の本の読書日記が一回分の掲載になっていたようで。タイトルはついてるものの「◯◯について」というようなはっきりしたテーマではなく。三冊がどこかでゆるく繋がり、そして広がっていくのがたのしい。
読書からとおくなった人でも、これを読んだら本屋さんをのぞきたくなると思う。
▲この日読んだのは「少年と老詩人」というタイトル。もしかしたら、と思ったらやっぱり!『あたらしい図鑑』(長薗安浩著~以前ここで紹介した『最後の七月』の作者)のお話。ええんよね~村田さんという長身のかっこいい詩人(たぶん田村隆一のイメージ)と十三歳のぼく、の世界。二冊目は『詩人からの伝言』(おなじく長薗安浩著)で、最後の一冊は『老人と海』(ヘミングウェイ)。この展開、すばらしい。
▲ 「うとうとたらたら、笑いの王国」では佐野洋子『役にたたない日々』~中場利一『純情ぴかれすく』~『短編ベスト・コレクション 現代の小説2008』と語ってゆく。知っているのは『役にたたない日々』だけなんだけど、他の二冊も読んでみたくなる。何より、何回も読んでるはずの佐野洋子さんのこの本を、また「もういっぺん」手にしたくなる読書日記だった。曰く
《木々の葉っぱ、地面、雪、「自然はいつだって、ストリップだなあ」と呟き、身を曝して生きる洋子さんの気迫と品格に打たれる。「この先長くないと思うと天衣無縫に生きたい、思ってはならぬ事を思いたい」が印象的。
もう一つ、認知症の母親との会話。「母さんも九十年生きたら疲れたよね。天国に生きたいよね。一緒に行こうか。どこにあるんだろうね。」天国は」「あら、わりと「そのへんにあるらしいわよ」》
▲ 山崎努さんは昔から役者としてもすきだけど(とくに山田太一脚本のドラマの山崎努ファンです)いっぺんに彼の文章のファンになった。
『著者来店:本よみうり堂』で《表現は新鮮さが命。通り一遍ではつまらないし、手あかのついた言葉は使いたくない。観客や読者の思いもかけないところに行かないと》と言うてはったけど。さすが。
▲ さて、本に夢中になっていたらあっというまに終点に到着。
平日のちょうどお昼どき、ということもあってか なんと墓地にはわたしひとりきりで。ちょっと心細くなるも、近くのお家から煮物のええにおいがぷ~んとやってきて、なんかほっとする。あれはお茄子と干し海老の炊いたん、やろか。おなかがぐうと鳴ってひびいて、思わず辺りをきょろきょろ。←せやから、だれもおらへん、って。(苦笑)
▲ケッコンした頃には、会ったこともない知らないひとたちのお墓やったけどね、三十年あまりもたったから。おばあさんにお義父さんがここにいてはる。ひさしぶりに来た分伸びた草抜いて、落ち葉拾って。水受けや花入れ洗ぅて。ひと通り終わったら次は「墓のうらに廻る」(尾崎放哉)
▲ いつも駅から行きはタクシーで、帰りは「ぼちぼち」歩くことにしている。(行き先が行き先だけに、とかあほなこと言いながら・・)その日も酒屋さんの店先をのぞき、青果店のいっぱいのカゴ盛りを見て、ゆっくり歩く。せっせと動いたせいか、つめたい風がほてった頬にきもちよく。
途中にあるお寺の掲示板の一句に(毎回たのしみにしてる)また足をとめるのだった。
『空はゆたかな柿のうれたる風のいろ 山頭火』
*追記
「著者来店:本よみうり堂」→ ■
その2)
あまりに 腹だたしいことばかりやから。きょうはこんなん聴きながら書きました。
♪ ああ、魔法のバスに乗っかって、ああ、どこか遠くまで~
曽我部恵一BAND「魔法のバスに乗って」 ■
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by bacuminnote
| 2012-11-30 15:39
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