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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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▲この間ごみ出しに家の外に出たら、ご近所さんの服装が、春・夏・冬とみごとに分かれていたから。「各家のなかの温度がわかるよね〜」と皆で笑ったんだけど。
その数日後は「冬組のわたし」(苦笑)でさえ「ストーブも片付けなあかん」と思う陽気となって。少しずつ毛布や、セーターにマフラー、それにダウンジャケットもがんばって洗って干して。あと残るは普段着のカーディガン一枚になったのに〜寒さがすごい勢いでもどってきた。
くわえて、梅雨かとおもうほど、よく降る日が続いて。「痛いとこ持ち」には堪える冷えと湿気に凹んでるうちに、そして結局ストーブもカーディガンも仕舞わないままに、五月も半ばすぎてしまった。

▲コロナ禍以降、ここでも毎回「時間のすぎるのが早い」とぼやいてるけど、つくづく時間ってふしぎと思う。
先日、姉から母の百か日の法事の知らせがあって。もうそんなになるのか〜と、いう思いも、あの日がはるか遠い日のことのようでもあり。
時間は記憶を背景に、伸びたり縮んだりするんよね。ゴムみたいに。

▲先週末のこと。買い物帰りに服屋さんの前を通って、マネキンの着ていたサーモンピンクのサマーセーターが目にとまった。
記念日の贈り物でなくても「母にどうやろ?」と覗いてしまうのは、長年癖のようになっており。
店の方がさっそく「お客さんのですか?これ、いい色でしょう。どうぞご試着してみてくださいね」と、近寄って来はったので、あわてて「いえいえ。母の・・」とかナンとか、ごにごにょ言い訳しつつ立ち去ったんだけど。

▲その店は母のものをよく買っていたお店で、デパートほど高くはなく、量販店ほど安くはない服屋さんで。せっかく買っても、ああや、こうや〜と注文の多いひとやから、気に入らんかったら勿体ないし・・と、いう点からも、ちょうどええお店(苦笑)やったんよね。
でも、考えてみれば「せっかく」とか「勿体ない」とか「ちょうどええ」とか。なんとまあケチな娘であったことよ〜と、自分がこれまで母にしてもらったことを思い返しては、はずかしく、申し訳なくて。
それやのに母は毎回よろこんで、包装に使ったマスキングテープまでベッドの手すりに付けて残してあったことを思い出して、とぼとぼ帰途についた。
今頃になって気づくこと。いや、ほんまに今更やな。

▲そんなこんなを思っていたら、姉1が、法事に帰省できなかったわたしに母の遺品を送ってきてくれた。
「アクセサリーも少しはあるんよ。でも、こんなん言うたらあれやけど、お母さんの、そんなええもん(高価なもの)はないんよね」と姉が電話で苦笑しつつ言うて「せやろなあ〜」となっとく。
わたしがこどもの頃はいつも割烹着でへっついさん(かまど)の前に座り込み、五升炊きの釜で終日ご飯炊いて、やがて厨房に立ち、弱かった父にかわって明け方に板場さんと長靴履いて中央卸売市場に行くようなひとやったから。指輪もネックレスも70代で引退するまでは、ほぼ縁もなかっただろうし、何より母自身 装飾品に「ええもん」を欲しがらなかったから。

▲で、姉に伝えたわたしの希望は、母のだいじにしていた旧知の歴史家 松田毅一氏の本が数冊と、自宅のベッドのそばに飾っていた うたらたじゅんの絵「中之島図書館」〜だったんだけど。
とどいた箱を開けたら、姉の焼いたパウンドケーキから義兄作玉ねぎに缶ビール〜件のものの他にも、姉があれもこれも、と選んでくれた 母が「ウチにあるもんで工夫して作った」ぬいぐるみや木箱や、おそらく高価ではないアクセサリーも(ほめことば!)どれもみな母らしくて落涙。

▲それに、じゅんが母に宛てて出してくれたカードや手紙もいっぱい入っており、不覚にも落涙。
「くみのお母はんは達筆やから」「じゅんはお手本みたいにいつも几帳面な字で書いてくれる」と、いつもふたり褒め合っていたことを思い出しては、落涙。
いやあ、親友の母と娘の親友〜しかもふたりおんなじ日に旅立ってしもたけど。とおく空から見下ろして、わたしの悪口でもいうて盛り上がってくれてたら、うれしい。

▲昨日の夜、ひさしぶりに保・小・中〜と一緒やった旧友が電話をくれて近況報告大会(笑)
そういえば、つぎ会うのは小学校の同窓会やね〜というてたのは何年前やったか。かの女と会えることだけやなく、わたしは初参加となるその会をたのしみにしてたんだけど。
幹事さん曰く案内状を出すところまで準備できていたのに、コロナの波は当初おもってた以上に、高く長く。何度か延期している間に、予約していたホテルがなんと閉館になってしまったそうで。いまネットでみたら1953年の開業とあり、こどもの頃「ホテル」といえば、ここやったのに〜。どこの店もホテルも、お終いのニュースはほんましみじみさみしい。

▲さて、旧友はお互いの母親同士もまた女学校の同級生であり、二人共長く仕事を持ちしっかり者で。不肖の娘たち(苦笑)は、あのパワーには「負けるわ〜」とため息まじりに話しながら、90歳こえても「えいこちゃん」「なおこちゃん」と言い合う二人を「100歳コースやなあ」と微笑ましく思ってたんよね。
今冬「なおこちゃん」が先にいってしもたけど、先日「えいこちゃん」は元気に99歳のお誕生日を迎えはった〜と、うれしい報告。お誕生日おめでとうございます。ああ、ほんま、長くお元気でいてほしいです。

「歯が大事友だち大事冬林檎」(火箱ひろ)



*追記
その1)
2年近く前に母親を亡くした男友だちが、母の死のあと「お母さんのことは、ジワジワくるから」気ぃつけるように〜とメールをくれたんだけど。そのときは、母と息子、母と娘の関係のちがいやろか〜大げさやなあ。わたしは平気や〜と思ってたのですが。
今回もべつのこと書くつもりやったのに、母のことに終始してしもて、苦笑。かれの言うようにジワジワきてるんやろか〜


その2)
いま読んでいる本。
『それで君の声がどこにあるんだ 黒人神学から学んだこと』(榎本空著 岩波書店2022年刊)
この本、プロローグから引き込まれます。(上記岩波のサイト「立ち読み」で読めます。ぜひ)
黒人神学のことは何もわからず、キング牧師のことしか(しかもほんの少し)知らないわたしですが、途中なげだすこともなく、そのしなやかな文章にひっぱられて、何度もたちどまり、思い、考え、行きつ戻りつしながら読んでいます。

200頁あまりの薄い本がいつのまにか付箋だらけで。気になったところは朝食をたべながら、晩酌をしながら、つれあいに話すのですが、たいていわたしの話(説明)では不十分やから、スプーンやお箸を、グラスを横に置いて、問題の箇所を音読しています。

「音読」は以前からつれあいに手っ取り早く「聞いてほしい」ときの手段でしたが(苦笑)ここ数年は、わたし以上に本読みだったかれの目が読書が辛くなくなってきているので、いまはちょっとその意味が変わってきています。
それでも、ひとり黙読のあと、声に出して読むのは(読んでいるあいだに)自分の中に文章がもう一度ゆっくり入っていく感じがあり、わたしにもええ時間です。

本は著者が27歳のとき、ニューヨークのユニオン神学校でジェームズ・コーンやコーネル・ウェストのゼミでの体験を通して、考えたこと、師やゼミ生から学んだことが語られますが、わたしにとっては、ほぼ初めて見る名前のひとたちばかりの中で、知っていたのはキング牧師とマルコムXで。授業で、この二人が語られるときの熱気にドキドキしながら読みました。が、残念ながらわたしにはその様子を到底伝えることができないので、ぜひ本を手にとってほしいと思います。

それから、もうひとつ惹かれたのは、若い留学生の長いトンネルのような研究生活〜その苦悩やささやかなたのしみが、文章の合間ににじみ出てるところ。
つれあいに音読していておもうのは(さっきも書いた)著者の「しなやかな文章」は、もしかしたら何度も何度も声に出して読み返さはったのかも〜と想像したり。
そして、緊張しながら読んでいる隙間にふっと窓から心地よい風が入ってくるような、音楽や生活音がきこえてくるような、温かでグッドセンスな一文が加わるのも、とてもよかったです。

母語の外に身をおく中での学び。問いかけ、つよく問われること。思索と研究の生活。
24歳で結婚した著者が以来台湾、バークレー、ニューヨーク、ノースカロライナと居を移し「貧乏生活」が続くなか、若いふたりがやがて4人家族となって、この本を書き終えたことを知って、なんだかほっとしてふううと長い息をはきました。

1988年生まれの著者は、わたしらの友人夫妻の息子さんで。
とはいえ、わたしが最後に会ったのは多分一家が沖縄伊江島に暮らしていたころ、かれが小学一年生の夏休みに、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に信州の家を訪ねてくれたとき以来やから。ほんまもう大昔のこと。

そして、この本が出るのをわたしに教えてくれたのは、ウチの息子1と息子2からで。
日頃愛想がない子らが(苦笑)別々に言うてきたことが、おかしくもあり、うれしかったのですが。
親とは別の場所で、かれらもそれぞれに一家とはつながりがあって。ひととひとの繋がりのおもしろさを思います。
が、しかし〜そんなおばちゃんの思い出やひとりごとなど、本を読み始めるとすぐにどこかに飛んでしまって。本の中に入り込みました。
さて、榎本空氏がつぎはどんな世界を読ませてくれるのか〜いち読者としてたのしみにしています。


《書くということは記憶を文字によって引き取ることだからだ。言葉を残すことができる特権は、決して彼らを代弁するというのではないけれど、生き残れなかった者たちの痕跡を、私の限界の内で証することに用いたい。もしかしたら私もまた、生き残りとしての自分を、いつか発見するかもしれないのだから。》
(同書 5アリマタヤのヨセフ「黒人以外の人間が、黒人の背負ってきた苦しみや痛みを理解するのは難しい」p117より抜粋)



その3)
本の中にはいくつか黒人霊歌がでてきます。よく知っている曲も、はじめての曲も。
”Nobody Knows the Trouble I've Seen”(「誰も知らない この苦しみを」と本書では訳していました。レコードによっては「誰も知らない私の悩み」とか「わが悩み知り給う」と訳しています)を、だいすきなこの演奏で。
Nobody Knows the Trouble I've Seen - Charlie Haden And Hank Jones 

そして、やっぱりこの方の歌うこの歌も。
Mahalia Jackson  
# by bacuminnote | 2022-05-18 18:42 | yoshino

山高。

▲まだ片付けていない冬物〜ストーブや毛布やダウンジャケットetc.がそこにあるだけで、なんとも暑苦しく感じたのは、ついこの間のことやのに。
きょうは朝からつめたい雨がじゃあじゃあ降って、灯油が切れてしもたストーブの姿がいっそう寒々しく映る。ああ、ニンゲンの(わたしの)なんとまあ勝手なことよ〜


▲そして、おどろくのは今日からもう五月!ってこと。
暗いしんどいたまらんこと満載の日々だけど、五月の光のもとすこしでも明るい方にむかいますように〜と願う/祈る。しかしそれに頼るしかないのか(いや、願う/祈るを「しか」とか言うてええのか?と自問したりして。ややこしい)〜そんなこんな、解決しないことをぐるぐる考えつつ、窓の外、ひと雨ごとにボリュームアップする草木をしばらく眺めてた。

▲そうそう、今朝は「買った」山食をトーストして食べた。パンはつれあいが定期的に焼いてくれるので、お店のパンはけっこう久しぶりで。焼き立てにバタを一欠のせて、とけてきたとこにシナモンシュガーをパラパラ〜おお。おいしい!
食パンは四角の蓋付きケースに入れて焼くのが「角食」蓋なしで山のような焼き上がりになるのを「山食」というけど。むかしウチ(麦麦)では山ふたつの食パンを「山高」と呼んでいて、一番よく売れていた。

▲いまだに「バクバクさんとこのあの山高、おいしかったよねえ」となつかしんでくれる元お客さんの声を聞くことがあり(つまり、今もおつきあが続いてる)パン屋をやめてもう18年にもなるのに、そんなふうに覚えていてくれはることが、ほんまうれしくありがたいし、わたしもあの「山高」食べたいなあと時々思う。

▲山高は(というか山食は)酵母の調子と発酵の成果がはっきりその「姿に出る」こわいパンで(苦笑)。
とりわけ自家培養酵母の場合、ええかんじをキープするのはとても難しくて、機嫌損ねると待っても待っても膨らまず、窯伸びもせず、泣かされることになるんよね(と、エラソーに言うてますが、パン焼は昔も今もつれあい担当)。

▲むかしパン屋をオープンする数日前に、友人が代表の共同購入の会からもらった大口の注文がこの山高で〜。つれあいが大阪で修行中は、もっぱら仕事が終わってから自宅で試作をくりかえし、くりかえし。ようやく、ウチ風のオリジナルな酵母や、ベイキングにも自信がもてるようになっていたけれど。

▲家で700g〜1kgほどの粉を焼くのと、1袋(たい)25kgのパンを焼く〜というのは何もかもちがい、想像以上に大変で。
修行したパン屋は天然酵母じゃなかったし、そのうえ、業者の手違いで機械の納品が遅れたこともあって、オープンを目前に、せなあかんことも一杯で、パン焼きの試作も慌ただしい中「これなら大丈夫」というところまで、なんとかたどり着き、ほっとしてたんだけど。

▲なんと、注文のその日に限ってなんでか発酵がうまくいかず、なんぼ待っても、思い通りに膨らまず。パン焼き担当のつれあいはもちろんのこと、エイギョウ担当のわたしも「あかんかったら、どうしよう」とはらはら、どきどき。オーブンの小さな覗き窓を覗いては、つれあいには「なんべんも開けたらあかんがな」と怒られつつ。

▲発酵にも焼き上げにもイーストのパンより、何倍も時間がかかる天然酵母のパンは、作り直す〜というても、約束の日時にはとうてい間に合わず。
話し合った末、その日焼いた60本は、記念すべき最初の注文にお渡しする焼き上がりではない〜と判断。事情を話して納期を伸ばしてもらうことにしたんだけど。(とはいえ60本も捨てるにはしのびなく、友人には「飼料用」ということで無料で引き取ってもらった。が、半分以上はニンゲンがおいしく食べましたと後日報告あり。苦笑)
いやあ「これから」というときのこの失敗には、しんそこ堪えたエイギョウ担当ではあったが。だれよりもパン焼きのつれあいのショックと、オープン初日へのプレッシャーはさぞかし〜とおもう。

▲そうこうしてるうちに「その日」は来て、店は1987年10月8日滋賀県愛知川町(えちがわ 現・愛荘町)の旧中山道沿いの古い民家を借りてスタートした。唯一の広報活動(笑)は当時町内で流れていた有線放送だけだったけれど。
町での初めてのパン屋〜ということもあって、その日はパンもきもちよく膨らみ、町中の人が来てくれはったか〜と思うくらいの大盛況で、開店1時間にして完売したのだった。

▲が、ああ、よかった!と安堵したのもつかのま、その4日後にはまたもや不調の波がおしよせて。
つれあいは早朝からというか、夜中に起きて仕事はスタートしてるんだけど、仕方なく中断。「天然酵母研究のため臨時休業します」と玄関に貼紙をして、翌日のために「研究」するのだった。

▲ただ、いくら綿密に温度管理をやっても、その日の気温や湿度など、ほんま微妙で。「何があかんかったのか」不明のまま、発酵がうまく進まないときもあり。そんなときは焼き上がりがやや小さめに〜なったりするんだけど。
はっきりその差がわかるのが、件の山高パンというわけで。
とはいえ、そうたびたび「研究のために臨時休業」もしていられず。そんな日には、今日は「山低」パンですねん〜と値引き販売をしたこともあったっけ。

▲いま、これを書くのにむかし取材を受けた雑誌などを読み返していたら、税務署で「儲かってないんですねえ」と言われたけど「何とかやっていけるし、儲けるためにパン屋になったんとちがうから」「不安定な生活には慣れてるし」「これから先もパン屋を続けるかどうかはわかりません。これがすべてとは思ってないから。パン屋も一つの通過点のような気がします」と、フウフ揃って威勢のええこと言うてて、苦笑。若い!
いや、その言葉に全くうそはなくて、実際その線でずっと来たんだけど。

▲友だちとよく「バブル期とか言うけど、わたしらの生活に限っていえば、そんな華やかなシーンって、みごとに何にもなかったよねえ」〜と自嘲気味に笑うたあと、いや、しかし、他のひとらみたいな派手さはなかったものの「わたしらなりに」あの頃はバブルやったんちがうやろか?と頷くのだった。
そういえば、パン屋を始めた1987年から信州に引っ越す1991年まではいわゆるバブル期(1986〜1991年)に、まんまかぶさっており。ウチみたいな田舎町の小さなパン屋で、休みも多くて、長いときは一ヶ月半も店休んだりしても(ここに書きました)「なんとかやっていけた」のも「そのころ」やったからやろか〜と今更ながら思ったりしてる。

▲とまあ、朝の食パンから思いがけずパン屋の昔話になったけど(笑)今回書こうとしたのは仕事のことについてでした。
というのも、この間古雑誌を捨てる前に〜とパラパラ読んでたら、なかなかおもしろくて。この雑誌『太陽』1980年4月号特集「俳人とその職業」〜は義父が亡くなって、大量の本と雑誌を処分したときに(そのときはまだ俳句にはあまり関心はなかったけれど)歳時記や俳句関係の本や雑誌をとっておいた内の一冊で。何人か俳人へのインタビューと写真の頁や、「明治・対象・昭和の俳人200人とその仕事一覧」なんていうのもあって、興味深い特集になっている。

▲が、さて、それでは「仕事」とは何なんやろ?と思うわけで。俳句では食べていけない、という大前提で成り立った特集誌ともいえるわけで・・・。
いや、その前に「食べていける」とは?と考えこむのだった。以前ここにも書いたけど、パン屋のころ、滋賀のときも、信州のときも、数え切れないほどのひとたちが「パン屋をしたい」と、あちこちから訪ねて来はって。天然酵母のパン屋(当時はマイナーだった)の大変さを話すと、たいてい「けど、なんとか食べていってるんですよね?」みたいな言葉が返ってきたんよね。
(この話は以前2019.12.13 ここにも、それこそ「食べられますか?」というタイトルで書きました→

▲で、俳人たちの職業が語られるんだけど、大学教授から料理屋、学者、作家、映画監督、医師、芸鼓、農業、焼鳥屋、郵便局員、僧侶、主婦・・とあらゆる職業で、一人ひとりのインタビューは短いけれど、俳句だけではわからない「そのひと」の側面がすこし見えるようで、興味深く読んだ。それにしても、かんたんに「仕事」「余技」なんて区分けはできっこないよね。
中村汀女さん(1900年〜1988年)の記事には《主婦と俳句と二道の両立はそれなりに大変であったのではないか。「中村(ご主人)が表から帰ってくる。私も句会から帰ったところ。裏から入り着物を着がえて出迎えました。帰宅したときに居たほうが中村も気持がいいでしょ」ご主人の理解もあったようだ。》と結ばれており。
おいおい「ご主人の理解」がなかったら妻は「主婦」以外のこともできないのか?〜この雑誌発行時の40年前って、まだこんなこと言うてたんやなあ。いやあ、外にも出よ〜だ。
「外(と)にも出よ触(ふ)るるばかりに春の月」(中村汀女)



*追記
その1)
上記ブログにも書いたんだけど、そのむかし作家の島田雅彦氏が「本職」の定義として書いてはったこと。
《①恥しくない②費やす労力と時間を無駄だと思わない③金にならなくてもやる ということであれば、その仕事はその人にとって「本職」なんです》(2002.9.1朝日新聞)ううむ〜このときから社会状況もかわってる(ひどくなってる)中で、「本職」を持ってるひとはどれくらいいるのか・・。


その2)
ラジオハングル講座2周目の春。昨日のことは昨日のうちに忘れてしまってるのが、かなしいけど。
散歩中、公園や学校(緊急避難場所)の看板にあるハングル表記が気になって、そのつど「読めるかな?」と立ち止まってしまいます。〜そのむかし中学1年で英語習い始めたとき、町なかの看板や、新聞広告の中の英語が気になって仕方なかったときと同じ。こどもみたいに、おぼえはじめの楽しいころ。
あ、そうそう。食パンは 식빵 (シッパン)というそうですよ。
「町ぢゆうのひらがな読む子銀杏散る」(中田尚子)



その3)
昨日これまた散歩途中に、かいらしい小さな青い花みつけて、ふと口をついてでた♪花びらの青い色は初恋の色〜 あれ?と、勝手に歌詞作り変えてることに気づき苦笑。
正しくは、花びらの白い色は恋人の色〜なのでした。というわけで、なつかしいこの歌は、やっぱりフォークルで「白い色は恋人の色」作曲:加藤和彦 作詞北山修 →


その4)
追記の追記。
かんじんなことを書き忘れてたことに気づきました。
当時わたしらが目指してたのは「天然酵母と国産小麦で旨いパンを焼く」で。それは輸入小麦の農薬やくん蒸剤を考えての選択でしたが。
《国産の小麦粉は日本の土壌の性質上、いわゆる中力粉〜薄力粉で、」輸入小麦からつくられた強力粉に比べるとタンパク質含有量が少なく、基本的に強力粉を使用する食パンつくりには、不向きよされていました》(『おいしくて安全 国産小麦でパンを焼く』1987年農文協刊 p78より抜粋)
そういうわけで最初は国産中力粉で、その後、強力粉に近い〜と言われた北海道産「はるゆたか」の登場で、これに替えました。いまでは国産小麦の代表銘柄になったはるゆたか〜さっきネットで江別製粉の北海道の地図が描かれた茶袋見て、なつかしさで胸がいっぱいになりました。

そうそう、ひさしぶりに「買った」パンの値段が高くなっていて、やっぱりなあ〜と思いました。小麦粉価格高騰は、大手は大手なりに打撃だろうけれど、かつてのウチのような小さなパン屋にとっては、ほんまに大変と思います。それでなくても、できるだけおいしく安心して食べられるように〜と原材料の一つひとつを吟味して、少ない仕入れのために材料費も高くつき。けど、お金持ちしか食べられへんような「自然派のパン」にはしたくなくて、きっと悩んではることと思います。
けど、けど、やめてしまったわたしが言うのもなんですが、どうかお店が長くつづきますように。小さなパン屋さんのひとらに声援をおくります。(5.2記)
# by bacuminnote | 2022-05-01 21:25 | パン・麦麦のころ

ドアも窓も。

▲こんなにゆっくり桜の花を見たのは、生まれて初めてかもしれない〜なんていうたら大げさすぎるか。
これまで、桜へのうらみや鬱陶しさや疑問やら・・その他いろいろ(苦笑)ここにも何度も書いてきたけど。桜に拗ねたり、怒ってたわけでもなくて。それでも、桜はわたしにとって「背景」のようなもので。車窓からも、歩いているときも、じっと立ち止まって花を見ることって、ほんまになかった気がする。

▲そういうたらジッカの庭の桜の老木(ええ木です)に蕾がついた、膨らんだ、咲き始めた、満開で・・と、実況中継よろしく逐一しらせてきたかつての母は、開花前に逝ってしもたから。
かわりに今年は姉がLINEでリポートしてくれて。そのスマホ画面のちいさな桜を見ながら、すっかりとおくなってしまった母をおもう・・・ああ、おかあさん、そこからもあの桜の木、見えてる?

▲桜の季節は引越しシーズンでもあり。今日も又あちこちのマンションの前に大きなトラックが停まって、積み下ろしの作業をしてはった。
大阪ながら、濃い大阪弁がちっとも聞こえてこないのは、この辺は50年ほど前に新しく街ができて以来、転勤族の多いとこやから〜らしいけど。
じっさい、散歩途中にであう下校中の小学生たちも、公園に集う幼稚園帰りの母子らも、たいてい東京風のことばを話しているのが漏れ聞こえてきて。時々「ここはどこ?」と立ち止まってしまう。
もはや郷里のあの老木のように、生まれてから死ぬまでそこで〜という人は珍しくなって来てるんやろなあ。

▲かくいうわたしも、学生時代も、ケッコン後もあちこち転々とした。でも、わたし自身が親の仕事や都合で引っ越したことは一度もなくて。一方ウチの子らは「親の仕事や都合」で〜上の子などは短いときは1年半で転居してたから。そのたびに、どんな思いだったのかな〜とおもうことがある。

▲むかし、お寺の息子さんとケッコンした旧友をたずねたとき「また、じきに引っ越す」旨しらせると、かの女が息子1にこう言った。
「ええなあ。キミはいっぱいあちこちに行けて。あちこちで暮らせて。わたしはこれからずっとここ、お寺やなあ〜って、本堂の大きな屋根みながら時々思うんよ。ええことやで〜あちこちに行けるのは」と。
それまで「引っ越し」がこどもには「かわいそう」としか言われたことがなかったから。親としては申し訳ないようなきもちやったから。かつて、それこそ「あちこちに」海外にも暮らした友のこの一言はじんと響いた。

▲わたしのすきな翻訳家・宇野和美さんのブログ「訳者の言いわけ』のなかに「バルセロナの日々」という、だいすきな連作エッセイがあって(前にここにも書いたことあります)。
1999年、当時小学4年生の長男、小学1年生の長女、保育園4歳児クラスの次男をつれて2年半の間、宇野さんがバルセロナ自治大学大学院に留学(そのかん夫君は日本暮らし)〜の記録なんだけど。

▲このエッセイ、3人の子の母親が「学びたい」というきもちも、アクションも、子連れがゆえのアクシデントもいろんな制約と葛藤も、こどもと一緒やからこそ出会えた世界もすばらしくて。なんせ書き出しの《とうとう来てしまった。》は、ほんまサイコーやなとおもう。
で、わたしは読み返すたびに、ますます宇野ファンになるんだけど。(そして、いつか「バルセロナの日々」が本で読めますように)

▲この間、ひょんなことからドイツ文学翻訳者の松永美穂さんも、かつて幼い二人の娘さんづれでハンブルグに一年間留学経験があると知り、そのエッセイ集『誤解でございます』(松永美穂著 2010年清流出版刊)をさっそく入手。

▲松永美穂さんというたらベルンハルト・シュリンク『朗読者』の翻訳者として有名だけど、そればかりではなく、わたしにとっては、うらたじゅんのマンガ『嵐電』(北冬書房2006年刊)が出たとき、新聞の読書欄でこの作品の書評を書いてはった方としてつよく残っており。
前にも書いたけど『嵐電』には解説を託されたものの「友」としての思いあふれて筆力拙く、書きそびれたことを、この書評にはもう全部書いてあって。その的を得た温かくすばらしい書評がうれしくて。それがあの『朗読者』の翻訳者であることもうれしくて。
当時も作者であるじゅんと「うれしいなあ。よかったなあ」と何度も喜びあったことを思い出す。

▲いま、その新聞の切り抜きを読み返して、あの日手を取り合った友の不在がしんそこ沁みる。
《一話ごとの終わりがしばしば後ろ姿で締めくくられており、なんとも言えない余韻が残る。そうか、人生って後ろ姿を見送ることのくり返しなんだね。》(読売新聞2006.10.29)

▲いやいや、めそめそしてる場合やない。本題にもどろう。
この本の二章がその留学のお話なんだけど。子連れ留学の前〜というか結婚したころのエピソードもおもしろくて、引き込まれる。
松永さんが大学四年のときに妊娠・結婚〜大学院修士一年の夏休みに長女出産とあり、ふたりとも学生で、さぞかし大変だったろうな〜と思ってたら《結婚相手は大学時代のバレーの監督だったので、新婚生活といっても合宿状態で、家のなかでパスをして遊んだりした》らしく、おもわず声あげて笑ってしまう。若いふたりのこういう呑気さ明るさに(ほめてます)なんだかほっとする(親の立場で読むと「苦笑!」かもしれないけど)。

▲その後、松永さんは結婚五年目に大学の助手になり、六年目に専任講師になる。ところがドイツ語圏の現代文学が専門なのに、ドイツには長期留学経験がない〜という「コンプレックス」があったそうで。それでも、こどもは小さいし無理だと思ってたある日、奨学生募集の案内を見た松永さん「三十一歳まで応募できる」とわかって《ふいに「留学」の二文字が現実感を伴って追ってきた》(p95)そうで。そのときご自身は三十歳、こどもは二人。

▲やがてドイツでの受け入れ教員もきまり、試験にも合格し、おつれあいとも円満解決。というか、このあたり大いに関心のあるところ。
《結婚六年目、以前から留学を口にしていた夫がついにハワイ大学に行くことになったときは、当然のようにわたしが子どもたちの面倒を見た。そして、わたしが留学するときにも、やはり子どもたちはわたしが連れてゆくことになった。これは、夫が理系の研究者で実験のために大学にいる時間が長く、子どもの世話をするのが難しいという事情も関係していたが、やはり子どもは母親が面倒を見るものという、暗黙のプレッシャーもあった》(p97 )

▲そうして、いよいよ1991年の夏から一年間ハンブルグに留学。こどもはジッカの母親に預かってもらえないか〜たずねたら、「どうせならわたしも外国で住んでみたい」と一度も日本から出たこともない、パスポートも持っていないお母さんが言わはるんよね・・と思いがけない展開に。

▲こどもら(娘さんは小学三年と一年に)は日本人学校に行ったので、ドイツ語はそれほど覚えることはなかったようだけど、東京よりのんびりした学校でたっぷり外で遊んで、のびのびした一年をすごしたらしい。
そうそう留学中、当時ボン大学におられた上野千鶴子さんに会ったそうで。《上野さんは「子どもはすべてのドアを開ける」と言ってくださった。子どもが一緒だと、いろんな家庭が受け入れてくれる、という意味だ。》(p105)とあって。
そういえば、「訳者の言いわけ」の宇野さんも子連れの海外留学生活の大変さ不自由さはあったものの、こんなふうに綴ってはる。

▲《けれども、子どもは制約となる一方で、窓だった。「オンナ子ども」の私たちには、家庭と地域にぐっと開かれた暮らしがあった。企業というしがらみなしに、出会った人たちと個人と個人で向き合うことができた。子どもや母親たちの素顔、人々の生活ぶり、四季折々の味や楽しみ……、それは、翻訳に携わる私がいちばん見たかったものだった。》
この一文にわたしは宇野さんの翻訳された絵本や本に共通して流れるものを思い浮かべる。きびしい現実のなかで、それでもこどもらに明るい光を届けてくれる窓、を思う。

▲宇野さんちも、松永さんちも、こどもらにとって1〜2年半の海外での生活がどんなものであったか。当時思ったことと、大人になってから思うことは?〜と想像する。母親もそうであったように、こどもにとっても楽しいことばかりではなかっただろな〜とは思う。
でもでも、その時間は本人が自覚するしないにかかわらず、ふかいところで地下水脈となって流れて、やっぱりかけがえのないものだろう。
ドアも窓も、開けたからといって世界がかんたんに広がるわけではなく、ときにはドアの前で立ちすくむこともあるのだろうけれど。それでも。
《ひとつの戸をしめた風が別の戸をあける。そういうことも、よくある》ということばをいま思い出している。(『モギ ちいさな焼きもの師』よりモギの師のことば)



*追記
その1)
そうそう。松永さんのお母さん(当時53歳)ドイツ語も全くわからず、独りで外出するのも嫌ってはったそうなんだけど《やがて少しづつ大胆になり、一人で買い物に行っては、日本語混じりのジェスチャーだけで品物を買って帰れるようになってきた。さらに、ハンブルグ大学の学生にドイツ語の家庭教師になってもらい、簡単な会話の練習もした結果『地球の歩き方』片手にハンブルクからハーメルンまで、あるいはリューベックまで、日帰り旅行もできるようになった》(p106)そうで。
ええなあ〜息子でも、だれでもええから(苦笑)わたしを連れ出してくれへんかなあ(←あかんあかん。そんな他人頼みでは、いつまで待ってもドアは開きませんよっ!)


その2)
宇野和美さん「考えることを止めないために本を読み続けていきたい」通訳者・翻訳者の本棚2


『モギ ちいさな焼きもの師』(リンダ・スー・パーク著/ 片岡しのぶ訳/ あすなろ書房刊)のことはここにも書きました。2010.7.31ブログ

そしてドアといえば、今これを書きながら『ドアーズ』(ジャネット・リー・ケアリー著 /浅尾敦則 訳/ 理論社刊)という本を思い出しています。
ここに書きました2007.3.17ブログ→
二冊ともすき。


その3)
桜のこと書いてるうちにバタバタすることあり、中断してるうちに葉桜に。「花よりも葉桜がすき一人がすき」(2017)

きょうはこれを聴きながら。
そう言うたら須賀敦子、内田洋子の本読んで、いっとき心はイタリア〜やったときもあったなあ とか思い出しながら。ああ、どこかに行きたい。コロナの嵐よ速やかにお引取りねがいます。
Beirut - Postcards From Italy (Official Video)
# by bacuminnote | 2022-04-12 11:28 | 本をよむ
▲このあいだ「三月去る」と書いたとこだけど、ほんまやったな。
いぬ一月、にげる二月に続き、三月もまた春風と共にあっけなく去りつつあり。
いつかコロナの嵐が鎮まり(早いことたのむ!)のちに渦中の暮らしぶりを思い出すとしたら、家に籠もってた2年以上ものあいだ、時間だけはたっぷりあったはずやのに、わたしは何してたんやろ〜と、おもうんやろなあ、とおもうやっぱり特に何もしなかった三月のおわり。そして、昨日までの春の陽気が夢やったんか?という気がするくらい、つめたい雨降る肌寒い朝だ。

▲そういえば、母が仕事をリタイアしてからたびたび「今はこんなに時間がいっぱいあるのに、わたしは何にもしてへん」と、こぼしていてたことを思い出す。
それ聞くと、「ああ〜また始まった」とばかりに「べつに無理に何もせんでもええやん。じっとしといたらええやん」と、ぞんざいに応えてた(ごめん!)ものだけど。
何かするのに、まずは時間が必要だけど。時間だけあってもできないこと(とき)もあるわけで。でもでも、仕事に追われ時間に追われ、働いて働いてきた母にとって時間があるのに「何もしていない」(って、ことはないんだけどね)自分が許せなかったんやろね。で、そんな母とは正反対のなまけものの娘ながら「じっとしといたらええやん」はなかったよなあ〜と反省。

▲そのむかし、ケッコンする前〜22、23歳の頃のこと。わたしは昼夜逆転というのか、一時期朝起きられなかったんよね。当時は家の仕事をしていたから、朝は8時半にはシュッキンすることになっていたのに、何度も眼を覚ますものの「もう10分」「もう5分」をくりかえし、やがて爆睡というパターンで。
そのうち怒った父親が部屋に来て、わあわあ親子げんかの間に目が覚め(苦笑)ようやっと起き上がり、お昼前に出勤という日々だった。

▲ガッコ出てから就職するつもりだったのを親に反対され、なさけなくも諦めての帰省で、「仕事」へのもやもやもあったし、親に対する反発やいかりもあり。
が、父の言うように家業だから、という甘えもあったのは確かで、だからこそ、こんなままでいいはずはない〜家を出て自活しようと、ひそかに就職試験を受けたりもしていたけど、ことごとくうまくいかず。果たしてこんなわたしが自活?いや、それ以前に「朝起きて出勤」できるのか?と項垂れるばかりの、そんな日が続いてた。

▲あの長い夜に毎日何をしてたのかなあ?と、たまに思うけど、ただぼんやり寝転んで天井をみながらレコードを聴いてたことしか思い出せない。
唯一忘れられないのはよく聴いた高田渡の『石』というアルバムだ。
タイトルの「石」や「ものもらい」は山之口貘の詩(すき)。そしてこのレコードの中でもくりかえしくりかえし聴いたのが「火吹竹」という曲だったんよね(作曲は高田渡。歌詞は父親の高田豊さん)。もうそれはレコードに針を落とすその位置を指が覚えてたくらいで。
(長くなるけど歌詞を書いてみます)

《毎晩 夜通し起きていて
僕は 何もしてやしないのです
このあいだの晩 火吹竹を作りました
ぶぅ ぶぅ ぶぅ
火鉢いっぱいに 真っ赤な炭が燃え上がって来る炭はまたすぐ 減ってしまいます
ぶぅ ぶぅ ぶぅ

火吹竹の音を聴いていると
外は雪のように静かです
本当に夜通し僕は 何もしてやしないのです
ぶぅ ぶぅ ぶぅ 》

▲そんなことを思い出しながら、机の上を片付けつつ本(『おそい・はやい・ひくい・たかい 』112号 ジャパンマシニスト刊)の後半部「Oha通信」をぱらぱら見ていたら、”不登校のあとの暮らし方「働く」までのまわり道④”「外に出るきっかけ」(野田彩花)というのがあって、片付けは中断(やっぱり!)座り込んで読む。

▲「外に出る」とタイトルにあるように、《私がどうしても外に出られず、家に引きこもって過ごした一五歳から一九歳までの四年間を思い返してみた》話で。
《けれど何度考えても、はっきりとしたきっかけや劇的な変化は起こらず、日々はただ連続していて、そのくり返しがつらかった。このままでいいとは、たぶん本人がいちばん思っていなかったし、「このままどこへも行けないまま、一生が終わるのかな」と考えるのはとてもこわかった》(p152)に、かつてのわたしの長い独りの夜が蘇ってくるようだった。

▲こういうのを読むと、思春期の子自身にかつての自分を重ねる一方で、子をもつ母親としての思いも重なって。どっちの思いも波のようにおしよせてきて、胸がつまる。
《母を相手には、いくら話しても伝わったという実感が得られず、そのことに腹が立ったり、もどかしく感じていた。 それでも、わかってほしいという思いや言葉が枯れなかったのは、母が私の言葉をどのように受けとめたらよいのかわからず困惑しながらも、私を拒絶していないことがわかっていたからだと思う》(p153)

▲そうして野田さんの「出るきっかけ」はお母さんの「なにもすることがないなら、庭の草木に水をやってくれない?」だったそうで。
もちろんその提案に「やってみるか」と立ち上がるのには、ゆっくり長いウォーミングアップの時間と、野田さん自身だけでなく、お母さんの中でも葛藤や迷いの時間があったから〜だとおもうけれど。
「きっかけ」って、身近にあるちいさなものに「気づく」ことなのかもしれないな。

▲野田さんはいう《やってみれば、それは当時の私の「できること」の限界にちょうどよく、水やりをしているときだけは、時間がきちんと流れていくようで心地よかった。まだ自分の感情にまともなところが残っていたと、ホッとして、その夏はただ、夕方を待つことで日々をしのいだ》(p156)この「夕方をまつことで日々をしのいだ」には、会ったこともない野田のすがたがうかぶようで、じんとくる。「水やり」があって、ほんまよかったなあとおもう。

▲さて「朝起きることができなかった」わたしにとっての「きっかけ」は何だったのか〜ある日友人宅で出会ったひと(つれあい)の存在だったかもしれないし、すでに(そろそろ)そういう時期になっていたのかもしれないし、何より深いとこにはあの「何にもしてやしない」しずかで長い時間があったから、ともおもう。

▲そうそう、かれがウチに初めて挨拶?に来たとき、母がきっぱりと言うたんよね。「せやけど、この子、朝なかなか起きませんで〜」
しかし母もわたしらも、そのときは「朝起きない子」が数年後には、よりによってめちゃ早起きのパン屋になるやなんて、夢にも思わなかったことなんだけど。(ちなみに父はつれあいが来るのわかってて、近所の友だちの家に碁を打ちに行って不在であった!)



*追記
その1)
この間Twitterに#いちばん長く持ってる本 というのがあって。わたしがアップしたのは『豆つぶほどの小さな犬』(佐藤暁 1965年講談社刊)でした。これは、こどものときの本で唯一手元に残ってる本で、たぶん小4年くらいのときやろか?
買いに行った本屋さんも、棚のどのあたりにあったかも覚えてます。佐藤暁はその後の「佐藤さとる」名義のほうが知ってるひとが多いかもしれません。(さしえは若菜珪、レイアウトは安野光雅)

この本にかぎらずだけど、むかしの本は文字が小さい!しかも、これ児童書ながら二段組です。さしえもたのしく、遊び心のあるつくりで、登場人物「せいたかさん」のあとがきというのがあり、そこには《さいごに、ぼくがクリノヒコにもらった、コロボックル通信の第一号をお見せします。しかし、これを読むときは、かならず虫めがねを使ってください。》と小さな(1.8×2.4cm)通信の表と裏のさしえ付き!

そして、大人になって開いてみておどろいたのは最後にあった「作者のひとりごと」です。

著者の佐藤さんは《現代の日本では、小人というと、たいていの人が、三角帽をかぶって、ぬいぐるみのようなそろいの服を着て、森の木かげでドンジャラホイとおどっているような、そんな「小人さん」たちを思いおこすようです。つまり、個性のない、ただかわいらしい存在としての小人しか、頭にうかんでこないのでしょう。
これは、日本に特異な小人概念がなかったところへもって、多くは幼児絵本や一部の同様などから受けた、安易なイメージがおおいかぶさっているからだと思われます》と冒頭から「物申す」空気をかんじるなあ〜と思ったら、こう続きます。

前作「だれも知らない小さな国」は《小人の出てくる必然性の積みあげと、その背景に力点をおいたものですが、そのためかどうかある有名な劇作家には、しんせつな忠告をいただきました。「なぜ、たあいのない小人の話ばかり書きたがるのだろう。もういいかげんに、新しい題材をさがしなさい。」(中略)その時、わたしは、心から頭をさげました。といっても、そのしんせつな劇作家に対してではありません─もちろん劇作家にも、ありがたく目礼を送りましたが─。わたしは、わたしの愛する小人たちに、頭を下げたのです。申し訳ないとおもったからでした。
わたしの胸のうちに住むコロボックルは、森の木かげで、ドンジャラホイと、のんきにおどってばかりはいないのです。》(p180〜181 より抜粋)

二度登場の「しんせつ」に苦笑したあと、初めてこの本を手にした10歳の子(わたし)は「作者のひとりごと」を読んでどう思ったのかなあ〜と想像します。
そうして「ひとりごと」を書かずにおられなかった著者の思いと、最後の宣言に、いまさらですが十歳の読者として、声援と拍手をおくりたいきもちです。

《ですからわたしは、コロボックルの名誉挽回のためにも、勇気と想像力にあふれる本当のコロボックルのすがたを、これからも書きつづけなくてはならないのです。そんなむずかしい仕事が、わたしにできるでしょうか。心配が先に立ちますが、わたしはやってみるつもりです。 一九六二年七月 佐藤暁》


その2)
読みはじめた本〜『きらめく拍手の音』(イギル・ボラ著矢澤浩子訳 リトルモア2020年刊)CODA コーダとは「Children of Deaf Adults」の略。「聞こえない」親を持つ「聞こえる」人たちをあらわす言葉。わたしが初めてこのことばを知ったのは、以前図書館で『コーダの世界 手話の文化と声の文化』(澁谷智子著・医学書院刊)を借りたときでしたが読了前に返却日がきて、そのままになっていて。
のちにフランス映画『エール』を観て、もうすこし理解できました。この映画はコーダの物語でした。(この映画のことは2015.11.29ブログにも書きました
本はまだ読み始めたばかりですが、この本はドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』の監督が書かはった本です。映画もぜひ観てみたいです。


その3)
きょう聴いてるのはもちろんこれ。しみじみよいうた、よい曲。そして、そのむかし、なき母が大きな五升釜が三つ並ぶへついさんの前でしゃがんで、火吹竹をぶぅぶぅやっていたとこ思い出しながら。
高田渡 - 火吹竹 
# by bacuminnote | 2022-03-26 16:29 | 本をよむ

いぬまわり。

▲「一月往ぬる二月逃げる三月去る」(いちげついぬる/にげつにげる/さんげつさる)とはよく聞くことばだけど。追いかけようにも、今年の二月の「逃げ足」の早いこというたら。で、その勢いに乗ってかどうか〜母も大空にすいーっと飛んでいってしもたし、ね・・なんだかわけわからないうちに過ぎたわたしの二月だった。

▲そうそう、この慣用句の一月「往ぬる」の「いぬ」は、故郷でいまも使われていることばで。
かつて母のもとを訪ねるたび、夕方になると何度も壁の時計を見上げては「あんたそろそろ、いぬまわり、せなあきませんで〜」「もう、いななあかんのとちゃう?」と娘の帰りを急かされたことを思い出す。
母の言う「いぬ」は帰る、「まわり」は支度という意味なんだけど。この他にも「もむ(み)ない」(まずい)とか「きける」(くたびれる)とか〜郷里独特のことばがいかにも田舎っぽくおもえて、十代のころは聞くのも話すのも恥しかったものだけど。いまはむしろそんなときの自分が、ものすごく恥しい。

▲このちょっと野暮ったいような山のことばの、ほんのり温くてゆったりした響きに、なき父や母や、近所のおっちゃんおばちゃん、それに山や川で一日中遊んだおさななじみの笑顔と共に、なつかしく、いとおしく、なにかのたびにしみじみ思い出す。
そうそう、あとになってこれらは方言というより古語がルーツ〜と知るんだけど(この話はまたこんど)。

▲・・というわけで「三月は去る」らしいから、どうせならジタバタせずぼぉーっと過ごす〜を決め込んでいたら、ロシアがウクライナに侵攻のニュース。「戦争」の二文字にいっぺんに目が覚めた。
世界情勢に疎いわたしでも、どんな戦争にも正義などないことくらいはわかる。力には力で、核には核でという「力の論理」を通したら絶対あかんことくらいはわかる。武器を作る人(国)、売る人(国)、買う人(国)、それを使って戦争をしかける人(国)。そして何より、それに巻き込まれ、傷つき、殺されるのは、いつだって権力をもたない市民であり、こどもであり。

▲そんな中きょうは朝から読み返したいところあり、『戦争とバスタオル』(安田浩一・金井真紀 亜紀書房2021年刊)を開いた。問題の箇所を探すつもりが、金井真紀さんの「はじめに」に書かれた「歴史修正主義」への宣言と斧を持ち上げる愛らしいカマキリの絵につられて、ついつい最初から再読してしまう。
この本は《タイ、沖縄、韓国、寒川(神奈川)、大久野島(広島)と、戦争で「加害」と「被害の交差点となった温泉や戦闘を各地に訪ねた二人旅》(帯の紹介文より)なんだけど、お二人の文章がとても読みやすいから、すーっと読み終えてしまいそうになるものの、そのじつ内容はとても深く、そして重たい。

▲最初はあのクワイ河マーチで有名な映画『戦場にかける橋』(原題The Bridge on the River Kwai デヴィッド・リーン監督1957年公開 アメリカ)の舞台となった泰緬鉄道敷設の話。
軽快な口笛のこのマーチは、あちこちでよく流れてたからよく覚えているけれど、映画はこどものころに「観た気がする〜」くらいの記憶しかなかったので、この本の元になったweb連載当時DVDで観てみた。

▲映画は1943年第二次世界大戦下、ビルマとタイの国境付近の捕虜収容所を舞台に、日本軍が捕虜であるイギリス人兵士を労働力に橋を作るという史実をもとにした話で、原作はピエール・ブール作 同名の小説らしい。
DVDを借りてきたものの、わたしは「戦争映画」が苦手で、正視できず。この映画も想像はしていたものの、捕虜に日本軍が威張り散らしてる場面がたまらんかったのだけど。

▲で、その場所にいまも残る橋上をナムトック支線(旧泰緬鉄道)が走っていて、その地を安田・金井チームが訪れる。
忘れられないのは、橋の横にある金属のプレートに刻まれているという数字。それはこの鉄道工事のため命を落とした人の数字やそうで。《マレーシア42000、ビルマ40000、イギリス6904、インドネシア2900、オーストラリア2802、ドイツ2782・・・》とあり《アジア各地から無理やり連行された「ロームシャ」の死者数が桁違いに多い。彼らは食べるものもろくにあたえられず、病気になっても放置された。大量の命が次から次に使い捨てられたのだ》(p22 )

▲ふたりはその後JEATH戦争博物館(Japan, England, Austraria, Thailandの頭文字)を訪ねるんだけど、その展示に金井さんは打ちのめされる。
なかでも日本語で書かれた解説文にはこう書いてあった。1944年11月のある日空襲警報が出され《連合軍の飛行機がカンチャナブリー県上空を西に向けて飛行しているという内容でした。日本軍は数百人の捕虜を集め、橋の上で列を作り連合軍の飛行機に対して歓迎の意を表すために手を振らせようとしました。しかし、日本軍の本当の考えは連合軍の飛行機は捕虜を見て爆撃を止めるだろうというものでした。しかし、そのあてははずれました・・・》(p25)

▲このとき連合軍のパイロットは鉄橋めがけて正確に爆弾を投下する。
《数百人の「捕虜たちは、友軍によって殺されたのだ。クウェー川は真っ赤に染まったという。なんとむごい話だろう。爆撃に備えて捕虜たちを橋の上に立たせてみようって考えた日本人、鬼か》〜ああ、真っ赤に染まった川がうかんで胸が苦しくなる。戦争は人をとことん残酷にする。

▲だからこそ、人間という愚か者は忘れないように、被害も加害も、正しく記録し、くりかえし語り、語り継いでいかないと、と思う。
そういえば、いま読んでいる『夜の時代に語るべきこと』(徐京植 2007年毎日新聞社刊)「記憶の闘い」に著者がベルリン在住の日本人・Kさんから教えてもらったという「つまずきの石」について書いてあったのを思い出している。
その「石」とは、舗道の敷石ほどで真鍮のような金属製のもので。道路の上や人家の玄関前、あちこちにあって、人物名と年月日が刻み込まれているそうだ。
それはかつてその場所に住んでいたユダヤ系市民個々人の姓名であり、彼らがその場所を追い出され強制収容所に移送された年月日でだそうで。

▲《ある家の住人は毎日玄関を出入りする度に、いま自分の住んでいる家のかつての持ち主が強いられた無残な運命を思わないわけにはいかない。舗道を歩いて職場に急ぐ人々も、その場所から強制収容所へ送られ二度と帰ってこなかった人々のことを思わないではいられないのである。Kさんによると、この試みはケルン在住のドイツ人アーティスト、グンター・デムニッヒが始めたもので、いまドイツ各地に広がっているらしい》

《「つまずきの石」という命名は意味深長である。過去のナチズムによるホロコーストの歴史が人類史にとっての「つまずき」であったという意味。それを忘れてしまうことは、現在における新しい「つまずき」になるという警告。そして、日常の暮らしの中で、一般の人々がほんとうにその石につまずくことで、忘れがちな過去を思い出すように考えられているようだ。
その石につまずいた者は誰でも「関係ない」と思うことはできず、過去の歴史と現在の自分との「関係」を考えないわけにはいかないのだ》(p46)



*追記
その1)
きょうTwitterで杉山亮さんがリンドグレーンの『暴力は絶対だめ!』を勧めてはった。《子どもに関わる人は「この子達が大きくなった時には平和な時代を」と考えてはいるが 実際に戦争が起きれば非力を思い知らされる。でもやっぱり時間をかけて耕し続けるしかないと奮い立たされる一冊。》
「非力」を思い知らされてもなお「やっぱり時間をかけて耕し続けるしかない」〜に、何度もつよく頷きます。この本、リンドグレーンが1978年にドイツ書店協会平和賞の授賞式で述べたスピーチ。そして、このスピーチから40年以上もたってなお有効ということは、この世界にはまだまだ「暴力」や「戦争」が存在しているということなんだけど・・・。
岩波書店のサイト・試し読み→


その2)
はじめてDakhaBrakhaを聴いたのは7、8年前だったか〜その衣装も音楽も強烈な印象で、たちまち虜になりました。ウクライナのキエフで活動してるバンド。どうぞご無事でありますように。
"Baby" DakhaBrakha Live in Minneapolis August 27, 2014

NPR Music Tiny Desk Concert 2015→
# by bacuminnote | 2022-03-06 20:50 | 本をよむ